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第48回政宗公まつり

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政宗公まつりとは

まつり内容

参加者募集

アクセス

伊達武者変身体験

騎馬武者紹介

正宗公まつりの「伊達武者行列」で登場する、騎馬武者を紹介します。

◆伊達政宗 藩祖伊達政宗イメージ

伊達政宗は、永禄10(1567)年8月3日、米沢城(山形県)で生まれました。幼少のころ疱瘡(ほうそう)を病み右目を失明しましたが、天正5年、11歳で元服、藤次郎政宗と名のります。

天正12年、18歳で伊達家を相続し、人取橋の戦で葦名、岩城、佐竹の連合軍を撃退。磐梯山麓摺上原の合戦で宿敵葦名義広の軍を破り、天正18年、会津黒川(若松)城に入城。奥州の大半は、伊達家の支配下となり、「独眼竜政宗」の異名を天下に轟かせました。

 

◆伊達成実 功臣伊達成実イメージ

伊達成実は、伊達の三傑の1人で生粋の伊達親族、一門です。英毅大略あり勇武無双と称されています。

天正13年の人取橋の役では、茂実の一隊は敵陣の間に陣して功があり、同年本松城を賜わり、安達郡33郷3万8千石を領しました。

天正19年、府城が岩出山に移った時、伊具郡16郷、柴田郡1郷を賜わって角田城に移りました。しかし、文録4年、ひそかに高野山に脱出しています。慶長5年、ようやく帰参、白石の役ののち同8年亘理城主として返り咲き、一門に列せられました。

 

◆遠藤宗信 執政

遠藤宗信は、17歳で家を継ぎ、政宗に仕えて宿老となりました。

天正16年、佐竹・蘆名連合軍来攻の時には富塚近江と共に塁を守り、同17年、佐竹・岩城軍が田村の地を侵した時には田村城を守りました。

文禄の役に従軍し大功をあげたが故あって紀州名古屋において出奔。のち富塚、高野、鈴木氏ら伊達の武将に諭されて帰参しました。

文禄2年、22歳で京都で病死し、弟、式部小輔玄信が跡を継ぎ、慶長19年奉行職となりました。

◆桑折宗長 藩士

入道して点了斎不曲と号し、伊達政依(四世)の支流で、伊達郡桑折(桑折町)に住み桑折を氏としました。宗長の父貞長は晴宗(15世)の時代、牧野弾正と共に奥州守護代に補せられた名門です。

貞長の嗣として稙宗(14世)の12子、四郎が決められたが早世したため、相州藤沢道場に出家して覚阿弥と称していた実子の宗長が環俗させられ貞長の跡を継ぐ事になりました。

貞長は天正16年、郡山の役に出陣して軍奉行に加えられ、同17年、摺上原の合戦では、宗長、政長父子とも出陣して功がありました。

◆原田宗時 名臣

原田氏は、その祖は伊達朝宗(初代)に仕え累代の宿老家です。

宗時は、その性剛直にして勇将の士、人に屈する事なく、年18にして軍事に預かり、しばしば戦功がありました。

文録の役のいでたちは、丈余の大刀を背に負い、駿馬にまたがってそれを金鎖で鞍上に結ぶなど、人々はみな彼の威を称えたといいます。

宗時の孫、原田甲斐は国老となり千石を領したが、寛文事件(伊達騒動)において原田家は断絶となりました。

◆国分盛重 国分領主

伊達晴宗の十男で、政宗の叔父に当たります。国分能登守盛氏の嗣となり、宮城郡315郷、6万5千石を領して小泉城(仙台市)、あるいは松森城(仙台市泉区)に居住していました。国分氏は仙台東北部の、いわゆる国分荘を領した中世の大名です。盛重の時代に伊達氏に帰属し門閥となりました。

天正13年の人取橋の役に自ら300人を率いて功あり、同18年、政宗の行動を疑った蒲生氏郷の疑念を解くため人質となって名生城(現在の大崎市古川地域)に入りました。

その後叛心有りと疑われ出奔し、佐竹氏を頼り、後に横手城にいて千石を与えられました。

◆山岡重長 名臣

父小成田長俊を以って祖とし、柴田郡小成田邑(柴田町)に住み氏としました。重長は輝宗(16世)に仕え、以来諸所の合戦に参じて功をあげ、天正16年の大崎の役には軍目付となり、同19年、葛西大崎一揆討伐にも戦功がありました。

文禄の役で、釜山に退陣の日、陣を突いて来た一騎の敵を捕らえました。これが女で、のち重長はこの女を仙台に連れ帰り妻にしました。

文禄3年、重長は主君に従って秀吉に謁したが、その際、秀吉の命により山岡志摩と改名した。のちに奉行職に進み3千石を領して伊具郡金山城に住みました。

◆柴田宗義 藩士

代々柴田郡を領し、四保城(柴田町)に拠り四保氏を称しました。天文年中に伊達家に随臣し、一家に列しました。

宗義は、輝宗、政宗の2代に仕え、天正4年、相馬の役に従い、同年17年の須賀川攻略にはその先鋒を務めました。

主命により柴田に改め、文禄2年柴田郡船岡(柴田町)から志田郡桑折(大崎市三本木地域)に移りました。同8年、伊具郡金津(角田市)へ、同12年に胆沢水沢城へ移り2千石を領しました。

寛文事件(伊達騒動)で知られる柴田外記は柴田家の養嗣子です。

◆石川昭光 門閥

伊達晴宗(15世)の第4子として生まれ、磐城石川郡主石川修理大夫晴光の嗣となりました。

天正18年、秀吉にその領土を没収され、慶長3年、伊達家に仕え一門の上座となりました。

志田郡松山館より移って1万石を領し、伊具郡角田城に住みしたが、元和8年、家を嫡嗣義宗に譲り柴田郡村田館に隠居。義宗は34歳で没し、嫡孫宗敬が跡を継ぎました。宗敬が幼少のため昭光は再び角田城に戻って政務を執りました。

文録9年、伊達家の重臣が主君政宗の忠誠誓約起請文を秀吉に提出しましたが、その連署の筆頭に石川義宗の名が見えます。

◆田手宗実 門閥

元亀元年、角田城にあった時、祖父宗光は輝宗(16世)に背いて相馬氏に奔ったが、父宗時は角田に残って本領を賜わりました。田手の祖は伊達朝宗(初代)の子実綱に発し、代々伊達郡伊達碕(桑折町)にいて伊達碕を称しました。

宗実は、柴田郡小泉邑(村田町)に移住し、子の高実は江刺郡口内邑(北上市)に移住しました。

伊達を称し3千石を治めたのは、宗実の孫、宗房(18世忠宗の八子)の時代で、宗房の子が伊達21世吉村である。

◆白石宗実 門閥

藤原鎌足に発し刈田経元を祖とする白石宗実は、寛治年間源義家に従い、白石城に住み刈田、伊具を領しました。はじめに刈田を称し、文治の役には伊達朝宗(初代)に従って白石氏を称しました。大永年間白石実綱の代に伊達稙宗の麾下に属し、天文5年に一家に列せられました。

宗実は天正10年に政宗から塩松33郷を与えられ、塩松城(岩代町)に住みました。同17年の会津の役には、伊達茂宗と共に軍団の主戦力となって大功をあげ、1万5千石を治めて胆沢郡水沢城へ移封されました。文禄の役にも功があります。

◆片倉景綱 功臣片倉景綱イメージ

片倉影綱は伊達の3傑の1人で、はじめは小十郎と名乗ります。母は伊達政宗の乳母で、才能を認められて正宗の近侍になりました。

天正18年には秀吉の小田原陣への参陣を決意させるなど、政宗の右腕として、藩勢の確立に尽くしました。藩府が岩出山に移ったあと、亘理城(亘理町)に住みました。

慶長7年、刈田郡白石(白石市)に、1万6千石を治め白石城主として来住します。その頃、「城」として承認されたのは仙台城と白石城だけだったため、伊達家が景綱に厚い信頼を寄せていたことがうかがえます。

 

◆茂庭綱元 功臣

茂庭綱元は伊達の3傑の1人で、長年、国老として伊達家に奉仕しました。天正19年、蒲生氏郷が政宗の行動に疑念をいだき秀吉に訴えた時、京に遣わされ、陳弁、和解に努めました。

文録の役の時京に至り、秀吉の命により旧姓の茂庭に復しました(当時は鬼庭姓)。

その後故あって出奔しますが、許されて帰参し、今までどおり奉仕しました。

その長子良元は、政宗・忠宗に仕え国政に預かり、国老として1万3千石を治めて志田郡松山(大崎市松山地域)に住みました。

◆留守政景 名臣

留守政景は伊達輝宗の弟で、政宗の叔父に当たります。留守氏は、陸奥国留守職の名門です。政景は留守顕宗の跡を継ぎ、迎えられて高森城(仙台市)に入りました。以来、伊達親族として、その軍団の中心勢力となり諸所の合戦に参陣しました。

居城は利府城(利府町)から黒川郡大谷(大郷町)、東磐井郡黄海(藤沢町)、そして西磐井郡清水(旧花泉町、現在の一関市)と、転々と移されて慶長9年、一ノ関城に移り2万石を治めました。

政景の嫡男、宗利は、伊達を称することを許され、胆沢郡金ヶ崎(金ヶ崎町)から水沢(旧水沢市、現在の奥州市)へ移りました。

◆亘理重宗 門閥

亘理重宗は、祖先の本拠の地名亘理(亘理郡亘理)を氏としました。父元宗は伊達稙宗の子で、亘理家に迎えられ当主の座に着きました。伊達親族であり、その封邑が亘理であるため、しばしば輝宗、政宗の命により相馬氏と戦い功がありました。

天正19年に藩府が岩出山に移ったことで、遠田郡涌谷に8千石の封を得て同地に移り、涌谷亘理氏の祖となり、一門に列せられました。

重宗は天正17年、相馬氏と戦い、大功がありました。文録の役にも従軍。慶長9年、家を嫡子定宗に譲り、栗原市高清水に隠居します。佐沼亘理氏(登米市迫町)が、その末裔です。

【問い合わせ】
●政宗公まつり実行委員会事務局 TEL0229-72-1215 FAX72-5039
Eメール i-sangyo@city.osaki.miyagi.jp

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