史跡・名勝 |
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茂庭家霊屋(もにわけたまや)
近世松山の領主茂庭家の廟で、内部には佐月良元など八体の木造彩色座像(市指定有形文化財)と、その背後に伊達、茂庭両家歴代の位牌が安置されています。カヤ葺、総ケヤキ造りで、白壁と床のウグイス張りが特徴です。 ◆所在地 大崎市松山千石字大欅91(石雲寺内) 茂庭家霊屋位置図【わが街ガイドへリンク】 【問い合わせ】 三本木館山公園桜の名所で、古人の声を聴く 館山公園は、大崎氏の家臣・渋谷相模守の居城跡で、春には約300本の桜が咲く県北有数の桜の名称として有名です。眼下には、鳴瀬川の清流を、西方には奥羽の山々を、北方には大崎耕土を一望できる景観は館山公園ならではのものと言われています。 ◆所在地 大崎市三本木字西沢32 三本木館山公園位置図【わが街ガイドへリンク】 【問い合わせ】 旧有備館及び庭園【旧有備館及び庭園の臨時休館】 東日本大震災で被害を受けた旧有備館及び庭園の主屋、付属屋などの解体工事に伴い、臨時休館とします。
【一部公開】 東日本大震災により主屋が倒壊し、附属屋は壁や屋根に被害がおよび、庭園の各所に地割れや陥没の被害がありました。3月の解体工事までは、被害状況を公開しています(安全面に考慮し一部公開)。
◆旧有備館及び庭園の歴史
伊達政宗は、天正19年(1,591年)に米沢から岩手沢に居城を移し、岩手沢を岩出山と改めました。慶長6年(1,601年)、さらに仙台城に移り、岩出山は政宗の4男宗泰を初代とする岩出山伊達家が代々伊達一門として治めました。 有備館は、江戸時代に岩出山伊達家の家臣子弟の学問所となった建物で、伊達家当主が時折講義に臨むための場所であった「御改所」(主屋)とその付属屋が、現在までその姿を伝えています。有備館の建物(主屋)は、二代宗敏の隠居所として延宝5年(1,677年)ころに建てられたとする説が有力です。その後、下屋敷・隠居所・学問所として使用されてきました。 庭園は、正徳5年(1,715年)ころ、4代村泰の時代に整備されたと伝えられています。仙台藩茶道頭、石州流三代清水道竿の作庭で岩出山城本丸の断崖を借景として池中に島を配した廻遊式池泉庭園で、中には300年以上の樹木があり四季を通して緑や花などで庭の変化を楽しむことができます。 有備館及び庭園は、昭和8年(1933年)、国の史跡名勝の指定を受け、昭和45年に伊達家のご好意により、旧岩出山町へ移管されました。 ◆所在地 大崎市岩出山字上川原町6番地ほか 旧有備館及び庭園位置図【わが街ガイドへリンク】
【問い合わせ】 岩出山城址(城山公園)天正19年、豊臣秀吉の奥州仕置きにより山形県から城を移した伊達政宗は、岩手沢を岩出山と改めここを居城としました。現在は公園として整備され、訪れる人々の憩いの場となっています。 ◆所在地 大崎市岩出山字城山42番地2ほか 岩出山城址(城山公園)位置図【わが街ガイドへリンク】 ◆青年政宗居城の地
岩手沢城は、大崎葛西一揆のときに廃荒した城を伊達政宗のために諸法山実相寺に40日の間止宿し修復しました。政宗は天正19年に岩手沢を岩出山に、城も岩出山城と改め、慶長8年に治府を仙台に移すまで12年の間、居城としました。 その後第4子宗泰を要害岩出山1万5千石の領主とし、宗泰当時の遺構として、平坦や土塁、空堀などがあります。 【問い合わせ】 伊達政宗公騎馬像
陸羽東線有備館駅前に立つ伊達政宗公騎馬像はJR東日本仙台支社より寄贈を受けたもので、仙台駅構内での待ち合わせのシンボルとして親しまれてきました。 平成20年3月16日にこの地に移り、伊達政宗公が仙台へ移るまでの12年間の青年時代を過ごした岩出山地域のあらたなシンボルとなりました。 ◆所在地 JR陸羽東線有備館駅前 伊達政宗公騎馬像位置図【わが街ガイドへリンク】 【問い合わせ】 おくのほそ道(出羽街道中山越)松尾芭蕉の紀行文「おくの細道」に描かれている
この古道は平成2年に文化庁より史跡「出羽仙台街道中山越」の名称で国の文化財に指定されました。現在は、松尾芭蕉ゆかりの道であることから俳聖芭蕉の足跡を慕って訪ねる旅人が絶えません。 街道沿いには道しるべになるよう文学碑が整備されています。
◆松尾芭蕉はどこを通ったのでしょうか? 元禄2年(1689)江戸(東京)深川を出発し、おくのほそ道の旅に出たのは、旧暦の3月27日、新暦で5月16日です。 芭蕉と曽良は仙台を新暦6月24日出発し、多賀城、塩釜、松島を経て、6月26日に石巻から北上川沿いに北上し、飯野川、柳津、登米へ。6月30日に一関を出発し平泉に到着しています。 紀行文「南部道遥にみやりて、岩手の里に泊る。小黒崎、みづの小島を過て……」 芭蕉は平泉より北には行かず引き返し、一関より奥羽山脈を越えて山形県尾花沢に住む俳人鈴木清風を尋ねるのが目的で、この街道を通ったもので、旧岩出山町ではこの街道を「上街道」として復元整備を図りました。 岩出山、新暦7月1日出立し、下宮〜鍛冶谷沢〜
7月1日に岩出山町を出立した芭蕉と曽良は、江合川に沿って歌枕の小黒崎、美豆の小島を眺めた後、
奥羽山脈最大の難所と言われた小深沢、大深沢を越えて中山平に入り、国境を越えて山形県堺田の封人の家に泊まりました。 芭蕉と曽良が堺田を出立、奥羽山脈を越え尾花沢の清風宅を訪れ後に、酒田、象潟、最上川、出羽三山(月山、湯殿山、羽黒山)山寺等を訪れ、新潟(越後)を南下し、日本海沿いに岐阜大垣に着いたのは新暦10月11日頃(旧8月28日)と言われています。 【問い合わせ】
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岩出山城は、室町時代には岩手沢城といわれ、大崎氏の監視役であった氏家氏が代々の居城としたところです。
