平和への願いを伝えたい 戦争体験記

大崎市では、平和事業の一環として、市民の皆さんやその家族が体験した戦争について、体験記を応募していただきました。

戦後71年が経過し、戦争の悲劇を語り伝えることができる人が少なくなる中、その体験に触れ、平和について考えてみませんか。

 

戦争に奪われた青春

加藤 信一 さん(鳴子温泉地域)

 昭和十五年夏の暑い日でした。玉造郡内の徴兵検査は岩出山小学校で行われました。徴兵司令官に甲種合格と言われ、意気揚々と帰ってきたのが思い出されます。あの頃は男は軍隊に行くことを喜んでいたものでした。

 三月二十一日、大阪集合。兵科は電信兵で、大阪港を出発。北支(ほくし)、中支(ちゅうし)、南支(なんし)(注)と輸送船は別で、国防婦人会に見送られ出発しました。三日後中国の黄埔(こうほ)に着き、鉄道にて広東東山地区の我が部隊八一二八部隊(電信第十四連隊・都築部隊)第三中尉に入隊。三月ほど軍事教練で鍛えられ、バイアス湾上陸以来の古年兵は私達が来るのを待っていたもので早速ビンタを何度ももらい、顔を赤くしました。内務班は第五班だったので、「第五班加藤二等兵」と言いながら各班を回ったり、上級の上等兵や一等兵の方々にもそう言ってあいさつしたものでした。

 早速付近の討伐に派遣され、三号機無線の発電機を起こすハンドル回し担当として行軍しながら電報の受付けや発信で休む暇などはありませんでした。一等兵になった時などは非常に嬉しかったです。「白雲山下けりてつくバイアス湾に月しるく」等と歌いながら教練を受けたものでした。

 十二月八日前にはもう九龍(きゅうりゅう)近くの深川(しんせん)まで私達軍隊は侵攻し、十二月八日の未明には友軍機が爆撃し、たちまち香港を攻略しました(たしか佐野兵団でした)。私達は香港の電報局に陣取り、広島、台北、海南島、ハノイ、広東その他の出先機関と交信を続け、重大電報が次から次へと受信発信の任務の重大さを感じました。

 治安の良い広東に帰り、自動車工として教育を受け、上等兵になり広東警備で下士官代理としてよく営兵所勤務を任ぜられたものでした。

 昭和十七年六月五日、二日間の予定でオーストラリアのシドニーに上陸することになり、志願して黄埔より勇躍南方へ出港しました。途中パラオに上陸し、南洋神社に参拝。日本人が大分おり、日本の家屋も建ち並んで内地に帰ったようでした。同年兵の一人のお兄さんがパラオで先生をしているので、パラオ庁に行き面会したこともありました。船団は敵の攻撃を避けジグザグにコースを取り、もちろん四隻か五隻の護衛艦がいました。

 ラバウルに着いたとき、第二師団がガダルカナル島で苦労しているとニュースが入り、大変な所に来たものだと思いました。毎晩空襲が激しく十日くらいして私達はブーゲンビル島に出発する命令が下り、ガダルカナル島転進作戦の任務を与えられました。ヌマヌマに上陸。その頃は兵長になり、エレベンタ、タリナとあちらこちらに派遣され、再度ヌマヌマに上陸。終戦まで敵上陸地近くに対峙していました。この間、大爆撃に遭い、何もかもすっかりなくなり、ヤシの実やパパイヤ、野生のカボチャやスイカ等を食べ命を長らえましたが、それも無くなり蛇やネズミ、イモリ、小虫等々口に入るものは何でも食べました。ヌマヌマからエレベンタの本部に命令受信の連絡に行く時等は、裸足で採取したヤシとパパイヤの実と一つまみの特別配給された米を入れどろどろにして食べると往復一週間ほどかかるところでも元気がもりもり出たものでした。あの苦労した頃が思い出されます。

 兵長になって三ケ月後、伍長に任官し、一層軍務に励んだものでした。本当によく体が続いたものでした。夢のようです。本部のあるエレベンタに第二師団が転進していて、仙台にちなんだ青葉通り、多門通り、愛宕橋等懐かしい地名がここかしこにつけられていました。食糧はなく、ヤシやパパイヤ等では体が持たず、子どもがいる応召兵のおじさん達はどんなにか辛かったでしょう。マラリアや栄養失調で一人減り二人減り、とうとう応召のおじさん達は全員病死しました。本当に気の毒でした。最後まで生き長らえたのが私達同年兵でした。

 タロキナ作戦では軍務の合間に最前線まで糧秣(りょうまつ)(注)としてヤシの実を乾燥したものを届け、最前線の兵隊達が非常に喜んでくれた光景を思い出します。しかしそこまで行く途中でマラリアにかかったり栄養失調で疲れ果ててその場に倒れている戦友を幾度となく見ました。その中には既に腐敗してハエがブンブン飛んでいた遺体も所々にありました。本当に生き地獄でした。自分も体を支えるのに精一杯で助けることもできず、六十キロの体重が四十キロまで痩せたのですからご想像にお任せします。アッツ島の玉砕、山本五十六元帥の戦死、フィリピンの敗戦が相次いで、毎日毎日空を仰ぎ友軍機が来るのを待っていたものでしたが、遂に一度も飛来せず終戦になりました。

 あのときは残念でした。涙を流し、口惜しかったのですが、二、三日と経つうちに命長らえ内地に帰ることができると思うとだんだん内地が恋しくなり、一日も早く帰りたい気持ちがいっぱいになり、南十字星を見ながら過ごしました。それから私達はファウロ島に渡り捕虜生活の苦い経験もしてきました。

昭和二十一年二月二十日、神奈川県の浦賀に上陸するまでの若き青春の思い出です。

(注)

  • 北支・中支・南支(ほくし・ちゅうし・なんし) 中国大陸の北部、中部、南部のこと。
  • 糧秣(りょうまつ) 軍隊で、人と馬の食物。

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親父から聞いた戦争とは

村田 次男 さん(古川地域)

 親父の人生を思い起こせば、なんとなく侘しい感がする。大正二年に生まれ、いくら混沌戦中の時代とはいえ、あの不条理な太平洋戦争に振り回され、怒涛の中を無我夢中で時代を駆け抜けた感が強かった。いや凄惨な戦争の時代の激流の中で、翻弄されもがき苦しんだ人生であった。瞬間楽しい時間もあったと想像するが、苦労の時間が多かったのではと思う。その親父も、十五年前に八十六歳で病気で死んだ。これもシベリアに抑留された時、アメーバ赤痢に罹り、入院した時に受けた注射針によりC型肝炎に感染したことによるものと、担当医は判断していた。晩年の体力が落ちたころに、それが顕在化し肝硬変に移行したことによるものといわれた。

 向う見ずで無鉄砲な性格によるものか、いつも陽気で楽天的であった。亡くなる三日前にこの世の醍醐味になるかと思い立ち、医者に内緒で町の餅屋から親父の大好物の餅を買い、それをさらに小さくし、寝たきりの親父のしぼんだ口に三個ほど含ませたときにこりと笑っていた。それは今にして思うと、最後の親孝行のような気がする。いずれにしてもそんな生き地獄を体験した割には、長命だったといえよう。そう思うのは、ふがいない息子の小生として、親父はハッピーエンドで幕を閉じたと思い込みたかったこともあろう。小生は戦争に参加したわけでもなく、戦中派の想像を絶する苦労の微塵もわかる道理はない。

 そもそも、親父の満州開拓話は、家族、あるいは客人が集まるたびに、いつのまにかその話になっていた。満蒙(まんもう)開拓に志願入植し、一時は二十町歩の田畑をもつまでに膨れ上がり、苦夫という使用人家族を二組使うほどになる。大陸花嫁というべきか、生まれ故郷に近い南郷から嫁をもらい、一男一女をもうけた。当時は、日本の生命線は満州にありという世相であった。為政者は、もともと現地人が生活していた場所を奪う占領政策を画策しながら、当時冷害で農民は困窮していた機会に、表面的には仕事のない若者に広大な土地を与えるという名目、いわば飴で志願者を誘い、銃をそれぞれ持たせ入植させた。いわば手の良い国境警備隊だ。入植者は現地で生活していた人々を追い出し、彼らを匪賊(ひぞく)、とか馬賊と呼び警戒した。一方、荒れた原野を必死の思いで開拓した。突如生活を奪われ、山野に飢えとともに生きる現地人は、かつての自分の生活拠点を奪い取ろうと、必死に抵抗したといわれる。考えるに、山賊はむしろ日本人であった。当時の社会情勢、教育がそうであった。日清、日露戦争でそれなりに勝利し、軍部が台頭し、反対派、知識人、宗教家、穏健派を駆逐した。

 いずれ、入植しある程度それなりに成功した親父たちは、農閑期には牡丹江(ぼたんこう)の町に馬の背に乗り遊びに行き、満州娘をからかったり、猟銃を背に山に入り狼を射止めたという。そんな、本人にとって楽しい時期のことを上機嫌に話すものだった。親父にとり、一番充実していた時期であった。しかし、そのある意味で充実した生活は長くはなかった。広島、長崎の原子爆弾で一挙に敗戦、ポツダム宣言で日本が連合国の言いなりになる。日ソ不可侵条約を廃し、突如、津波のようにソ連軍が開拓地に戦車の轟音と共に攻め込み、何もかも奪い去った。それからの話題はこちらが意図的に聞かないと、親父は進んでは口にしたがらなかった。

一瞬のうちに開拓民は家族と流散し、三人の妻子は引き揚げ途中で亡くなったという。一方の当人は裸同然で、あの零下五十度にもなる極寒のシベリア捕虜となる。そんな当時の悲惨な思い出は、口に出したくなかったのだろう。これは、冷害と貧苦の中で、十人兄弟の四男坊として生まれ、大した学問もない親父のような不幸な人間が、当時の五族協和(ごぞくきょうわ)(注)、満州国樹立などの、掛け声に翻弄された人生であった。開拓民ではなく、国境警備隊としての真意を理解せず領土拡大しか脳裏にない、当時の軍部に翻弄された親父の人生であった。そんな逆境に耐え続けた親父は、自然に涙を見せない癖がついていたのか。親父が、死んだ今となっては、幾度となく聞いたこの満州悲劇を牛が餌を反芻するように、言葉で復唱し、再現することが親父に対してのせめてもの供養、追悼の意味もあろうかと思いついたものだ。

 親父は、かつての桃生郡鳴瀬町という比較的海に近い、鳴瀬川の堤防から徒歩で十分ぐらいの農家の十人兄弟の四男として生まれた。時代が時代ということもあったろうが、子供時代にはろくに勉強もせず、いたずら、喧嘩、夏には入り江の島まで、頭に握り飯をタオルで結わえ、二時間もかけて友達と泳いだりもしたという。体だけは頑健であった。尋常小学校を卒業するころは、東北はことさら冷害で娘の身売りなど、飢えと貧困が充満していた。役場は身売りの斡旋までも、仕事のうちだったという。「満州楽土」という名目で政府は役場に、役場は区長にその志願する青年を募った。親父は、一年ほど近所の手間取りになり、このことを隣人に聞いた時には、これこそわが天命と悟ったという。明治、大正時代を通して日清、日露の戦争からの勝利、そして関東軍の中国進出と侵略のレールは敷かれていた。そしてあの柳条湖(りゅうじょうこ)事件を、日本の軍部が画策し、中国進軍の動機付けに成功した。少し思慮深い人であれば、ロシア国境に近い、黒竜江(こくりゅうこう)の辺地に銃を携えての開拓入植者志願募集はかつての防人であると理解できたろう。あるいは理解していたのかもしれないが、仕事がなく、血気盛んな年頃、大陸で大地主になろうという青年は多かった。

 いずれ敗戦で一転ソ連捕虜となる。冬ともなると、零下五十度にもなる極寒のシベリアで、一日に二百グラムの黒パン一個、中に野菜の一切れが浮かぶスープを与えられ、朝から晩まで線路工夫、巨木の赤松伐採など、地獄の日々を送ること二年、八人のうち、二人は次々と栄養失調と、疲労で倒れていったという。むしろ、過酷な労働から逃れるために、自ら手を切ったり怪我をし、温かい入院生活にあこがれた者もいたという。

 そんなある日、ダモイ(帰国)というソ連の官吏の言葉に、栄養失調で死にかけた病人の、どこにそのエネルギーが残されていたのかのように、ベッドから飛び上がったという。地獄からの生還とはそのことだったと思う。こんな親父の悲劇を考えるに、いつの時代も「自分で考え、主体的に生きる」ことが戦争に翻弄されない最善策であることを痛感した。

(注) 

  • 五族協和(ごぞくきょうわ) 満州国の民族政策の標語。「和(日)・韓・満・蒙・漢(支)」の五民族が協調して暮らせる国を目指し

    た。

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われら少国民

北村 誠太郎 さん(古川地域)

 物心つき始めた六歳の時、昭和十六年十二月八日大東亜戦争が勃発した。丁度その年叔父が出征。沸き立つ歓呼の声につつまれた古川駅頭の様子が、今ぼんやりと思い出される。

 昭和十年生まれのわれらの世代は、翌昭和十七年四月小学校ではなく国民学校に入学。その後四年間戦争の渦に巻き込まれ、少国民(しょうこくみん)(注)として戦時初等教育を受けたわけである。大人から「日本はまた勝った」、「兵隊さんは強い」と毎日聴かされ喜び勇み登校した。

 元旦の四方拝(しほうはい)(注)や紀元節(きげんせつ)(注)などは必ず登校。白い手袋をした校長が奉安殿(ほうあんでん)(注)より教育勅語を取り出しおごそかに拝読。われら少国民は黙礼のまま、意味も分からずかしこまって聴いた。月曜日の全校一斉の修身の時間は、いつしか古川神社での「必勝祈願」、「武運長久」の日となり参拝したが、遠足気分で楽しかった。

 昭和十七年五月のミッドウエイ海戦の惨敗、アッツ島の玉砕は全戦全勝で「日本は神国で絶対負けない」と教えられた。また、みんなもそう信じていた。

 三年生になると、戦況も厳しさを増し、特に食料不足が目立ってきた。「贅沢は敵だ」のスローガンのもと、校庭は運動どころではなく、南瓜・大豆・とうきび・いもやそば等の畑と化し、町内会でも堆肥積み競争や田植え、野菜作りに動員された。冬休みの宿題に縄三十メートルを綯う作業には泣かされ、母の実家の祖母に手伝ってもらい助けられた。

 ある日、校庭で母たちの国防婦人会の演習があった。消火活動のバケツリレーの時最後に水がなくかける仕草だけだったこと、また行進の時緊張のあまり右手右足を同時に出した人がいたこと等々観衆の爆笑をかったりした。その中で、藁人形に向かって全力で竹槍を突貫する訓練には身の毛がよだった。

 昭和十九年の秋、王城寺原で大規模な軍事演習があり、わが家に三人の兵隊が泊まることになった。この人たちの食料が案外豊富で別れる際、食べたこともない甘納豆、バナナ、乾パンなどもらい驚いた。また、日常生活を通して上官に対する挨拶、礼儀作法や言葉遣いの厳しさを垣間見ることができた。

 この年の暮れ、母方の上の叔父が徴用先の中島飛行機工場から実家の小野田に戻っていたが、再度行くことになり母と二人で古川駅まで見送ることになった。暗闇の待合室で待っていると、突然若い巡査が近づいてきて「そのリュックをすぐ開けてみろ。」と指を指す。「ハッ?」叔父は青い顔で低く答えた。その中には米や餅がいっぱい入っているのだ。これを取り上げられたら大変なことだ。私はハラハラしながら固唾を飲んだ。すると母が立ち上がり「あら! Bさんじゃないの?」と言った。途端にその巡査「あっ! 北村さん。」と言うなり、外便所の傍に母を呼んだ。このBさん、隣の家の下宿人で私も顔はよく知っていた。この時母と何を話したのか。結局、米や餅は無事助かり叔父は安心して発った。世の中には表と裏があると不思議に思った。

 正月の新聞に「軍国の母、息子の戦死に泣かず」という記事が載った。裏のH母さんのことだ。八人の息子の内五人が戦死で泣かぬ筈はなく、毎日号泣している現実。にもかかわらず新聞は事実を隠して書いている。嘘を書く新聞をあまり信用しなくなった。

 この頃になると、軍需物資は底をつき本土決戦が叫ばれるようになる。各家庭の金属類が拠出制により、かね火鉢、蚊帳の取っ手、窓の柵等が集められた。また、空爆の標的にならぬよう「灯火管制」がしかれ、夜、電球を風呂敷で覆ったり、白壁に墨やコールタールを塗らされた。わが家の愛猫「三毛ちゃん」も白毛が多く目立つということで墨や絵の具を塗ったり、挙句の果てに母がチョッキまで作り着せたが、三日ともたなかった。

 四年生の春、大変嬉しいことがあった。それは、弘進ゴム印の長靴をくじで当てたことだ。十文半のこのがふがふの靴は、その後高校まで大事に履いた。

 戦況が緊迫したある夜、突然サイレンも鳴らないのに敵機の轟音が響く。すぐ防空壕に入るいとまもなく母と二人で押入れに避難した。その時「いいか。死ぬ時は一緒だぞ!」としっかり手を握られた。この時のショックは今も胸を突き刺す。本当に怖かった。

 やがて、古川へ東京などから疎開児童が入ってくる。私たちは好奇心で空爆の様子など真剣に聴いた。学校での何より一番嬉しい時間は昼食だが疎開児童の中に、口だけ動かして食べたふりをする子もいて、先生が後でこっそりと自分の弁当を分け与えることもあった。また、「南瓜」だけを常食して全身黄疸のような子が数人いたように思う。

 七月十日仙台大空襲があった。今でも南の空にB二十九へ届かぬ探照燈や高射砲の真赤な火の玉が見えそうだ。本当に口惜しかった。みんなで仙台の方へ石を投げ、アメリカの悪口を言ったりした。「どうにもならない。もう日本も終わりだ」心の中で誰でもそう思った。

 八月十日突然の古川空襲である。サイレンが鳴り止んだかなと思った昼頃「ドカン」と炸裂音と地揺れに動転。ちょうど防空壕から抜け出て縁側で猫と遊んでいた時だ。猫は天井板まで跳ね飛ばされ頭を打ち奇声を発したのを憶えている。しばらくすると爆風にあおられ北町のわが家にも瓦礫の破片がザラザラ降り町中大騒ぎになった。サイレンがまた鳴る。

 夕刻、こっそり台町の現場へ行くと大きな洞穴と家屋の残骸の山に呆然。その夜、家族に夢中で現況を伝えた。後で聞くと死者七名、重傷者八名、家屋全壊六棟だったそうだ。

 八月十五日の玉音放送は班長さん宅に集められ、大人と一緒に聴いたがよく分からなかった。ついに「日本は敗けた」いや「戦争は終わったのだ」悪夢の四年間だった。やがて「リンゴの唄」が平和を喜び明るく流れてくる。

(注)

  • 少国民(ショウコクミン) 年少の国民。少年少女。第二次大戦中、小学校が国民学校と改められていたころに用いられた語。
  • 四方拝(しほうはい) 1月1日に行われる朝廷の行事。
  • 紀元節(きげんせつ) 二月十一日。神武天皇即位の日をもって祝日としたもの。
  • 奉安殿(ほうあんでん) 第二次大戦中まで、各学校で御真影や教育勅語などを収めていた建物。

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私と戦争

高橋 昭子 さん(岩出山地域)

 私の幼少の頃は後ろは山、前は畑や田んぼで淋しい田舎の三軒しかない所だったが、何不自由な事もなく五人姉兄の末っ子として生まれ、甘やかされて育ったようだった。どこの家庭にも八、九人はいて、行ったり来たりと遊ぶ人も多かった。のんびりと過ごした幼少の頃が懐かしい。そして一年生入学となり、薄紫の地にピンクの菊の花がいっぱい散らばった着物にメリンス(注)の袴を付けて、ビロードのかばんに花の刺しゅうの模様がついたものを背負って、父親に連れられて入学したあの頃のことをこの年になっても思い出して楽しんでいる。この何事もなく過ごした三年生までは、私の平和な時代だったと言えるだろう。

 四年生になり日支事変が起きた。私と戦争との始まりは忘れることが出来ない。勝ったからと言っては、小さい日の丸の旗を持って旗行列をさせられ、また神社に連れて行かれお祈りをさせられたりと、子供心に何が何やらわからず先生の言いなりに過ごしてきた。田舎のことで飛行機がくるでなし、普通の生活をしていたものの、昭和十六年十二月、私が十六歳の時、太平洋戦争が勃発した。日本の軍人達は何のために大きな国を相手に、どうして生きるか死ぬかの戦をしなくてはいけないのか。十六歳の私には知る由もなく、高等学校に入学した。その当時はバスもなく道も悪く、でも往復二里の道を若さで一日も休まず通学をして一年が無事に過ぎ、二年後半よりスカートからもんぺで通うようになった。働き盛りの人、一家の柱になっていた人達も、赤紙一枚で出征して行くようになり出した。私の家では兄が学校の教員をしていたので赤紙はこなかった。私達も駅まで見送りに出されることが多くなり、身近に戦争を感じるようになった。婦人部長さんの送る言葉、甲高い声が今でも耳に残っている。家族の人達の心の中は涙していただろうに。

 私達も出征して働き手がなくなった家に、勉強を休み勤労奉仕といって行かされるようになってきた時には、どうなるのだろうとどんなにか心配した頃だった。やったこともない学生にまで、農作業を手伝わせて勝てるのだろうかと思うことが度々あったが、卒業近くになってきた頃、学徒挺身隊(がくとていしんたい)(注)の話が持ち上がり、校長先生はじめ先生方まで国のためとか言いだすようになり、なんとなく行かないと非国民になるような気持ちになり、今まで一度も逆らったことのない母に、もう一年してからでも良いではないかと言われたのに、友人と行くことを決めてしまった。先生方はどうして決めたのか知らないが、私は仙台陸軍造兵廠(せんだいりくぐんぞうへいしょう)(注)、仲の良かった友人は多賀城海軍造兵廠にと分けられ行ったものだった。行って見て驚いた。何人ぐらい来るか分かっていたように寮が建てられていたのだ。工場の近くで道路に面した大きい寮で中央の廊下を境にして、二階建ての八寮が用意されてあった。次から次へと県内の女学校の人達が入ってきていっぱいになった。一部屋に十五人ずつ容れられ、日勤夜勤と一週間交代で、私は非国民になればよかったと、何度思ったか知れない。母に逆らってまできた自分が馬鹿だったと悔いてならなかった。

 母は、それでも一度見舞いに来てくれた。どんな生活をしているのか、見に来たのかもしれない。親思う程子は思わずという言葉があるが、自分もその一人だった。当時は何もなく、豆や麦のドンパツ(注)した物を下げて来た。部屋の人達と分けて食べた時のおいしさ、うれしさが心にしみた。涙が出るほど嬉しかった。

 段々と戦争が激しくなり、空襲が始まり東京が焼野原になったとか、各地に爆弾が降下され始め、私達の身近にも艦載機(かんさいき)(注)が来るようになり、この飛行機が小さくて音もなく来て、急に降下して玉を射つ恐ろしいものだった。私達の寮にも数ケ所穴をあけられ居られなくなり、山の中の大学の寮とかに移動させられ、工場まで通うのが遠くなり、途中の畑の中には大砲が何台か仕付けられるようになり、休みの日には防空壕掘りをさせられ、山の横に十人くらいずつ入れるものだった。夜は枕元に靴と防空頭巾を置いて着のみのまま寝るようになった。とても勝つ戦とは思われなくなった。

 そうこうしているうちに、忘れもしない仙台空襲となり、自分は日勤で寮に居たので、寮の前の窓の付いた防空壕に入ったため、アメリカの空襲の仕方をよく見ていた。街内に集まって玉を下ろし、散らばってはまた戻って来て弾を下すやり方。四、五回繰り返していたが、大砲は飛行機に交差はするが一台も落とせなかったなと、今も思うことがある。岩出山からも空が真っ赤に見えたので、母は工場だとばかり思って泣いていたそうだ。それから間もなく、広島に原爆が降下され、八月十五日天皇陛下の終戦の放送で戦争は終わった。

 私達の玉作りは一体何だったのだろう。あの時は私は無駄な一年半を悔やんだ。九月一日挺身隊解散となり、大体金千四百円と色々な物を頂いて家に送り、仙台に出て来て驚いた。駅もなく、街もなく向こうの山がうっすらと見えた。何百人の人が亡くなったものか。帰って来る汽車は、多くの人でいっぱいだった。そこに、もぐりこんでやっとの思いで小牛田に着いた。共に働いた人達と別れ、我が山の故郷に着いた。

 忘れられない戦争の恐ろしさを体験した老人の一コマに過ぎない。亡くなった人は大勢いるけれど、岩出山の中では一人もおらず、三年前までは一級上の方が先駆けをして集まっていたのだが、その方も一人暮らしになって体調を崩し、七月十日仙台の空襲の集いも終わりとなった。

 (注)

  • メリンス メリノ種の羊毛で織ったところから、薄く柔らかい毛織物。
  • 挺身隊(ていしんたい) 第二次大戦中の女子勤労動員組織を女子挺身隊という。
  • 造兵廠(ぞうへいしょう) 兵器・弾薬・車両・艦船などの購入・設計・製造・修理などを担当した機関および工場。
  • ドンパツ  穀類膨張機。
  • 艦載機(かんさいき) 軍艦に搭載された航空機。

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私の戦争体験

木村 富雄 さん(鹿島台地域)

 自分がこの世に生を授かり、物心ついた頃からすでに日本は長い泥沼の戦争に入り、国民は「ほしがりません勝つまでは」と日本の勝利を信じて、すべてを犠牲にして生きていた時代。

 昭和十四年一月生まれの自分が鹿島台国民学校に入学したのが、日本の敗戦が色濃くなった昭和二十年四月、まだそのころは敵機襲来の空襲警報は無かったけれども、各部落ごと班編成を組み、上級生に引率され集団で登校。校門に入る時は国民服を着て腕章をつけた先生が物々しく立っており、「全員歩調を取れ」の号令で行進。奉安殿(ほうあんでん)(注)に礼をしてからそれぞれの教室に入っていった。当時入学したばかりの一年生の教材は、鉛筆やノートは無く「A4」程の大きさの石板に木枠のついた携帯用の黒板そして細い白のチョークが筆記用具だった。教科書は国語と算数そして修身、印刷はモノクロの粗末なものでした。それでも自分が書いた文字や数字に、先生の赤いチョークで花丸や二重丸をもらうと、そのまま消さないで大切に持ち帰り家族に見せたものでした。

 どこの家庭でもラジオもない電話もない。情報源は四ページぐらいの新聞と時々回ってくる回覧板。その頃自分はまだカタカナ(ひらがなはまだ教えてもらわなかった。)がやっと読み書きできる程度で、世の中の事は全くわからなかった。それでも学校での先生の教えや家族の話では、ある程度理解していたかもしれない。学校へ入学して初めての遠足は鹿島台神社。そこで食べた母親の作ってくれた弁当の味、のり巻、いなり巻やゆで卵の美味しさは今でも忘れられない。

 蛍が飛び交う頃の真夜中家族に起こされて、表の道路に出る隣組の人達が、仙台の方が空襲だと騒いでいた。南西の方向をみると、空が恐ろしいほど真っ赤に見えた。これが初めて目にした昭和二十年七月十日米軍の大型爆撃機B二十九の大編隊による仙台大空襲だった。

この日を境に米軍の艦載機が鹿島台の空にも姿を見せるようになり、空襲警報発令の日が次第に多くなり、駅周辺の大きな商家の建物の白い壁は、敵機の発見から逃れるために墨や煤で黒く塗りつぶした。また学校での授業も危険になり、集落ごとに集団で近くの神社や大きな木の下に「むしろ」や「ゴザ」を敷いての文字通りの青空教室だった。自分の住んでいる出町集落は慈明寺か近くの三嶽神社だった。服装は目立たない黒か緑か灰色で、派手な模様の服装をすると怒られた。

 空襲警報発令…誰かが叫んでいる。どこの家庭でも頼りになる男達は応召(おうしょう)され、残っているのは婦女子と老人だけ。「ソレ隠れろ逃げろ」と家の中の押し入れか、柱の陰に身を隠す間もなく、「バキュバキュ…」と金属性の音と共に「バリバリ…」けたたましい音を立てて、米軍の艦載機が我が家の南の上を飛んでゆく、恐ろしさとか身の危険というものはあまり実感せず、恐る恐る飛行機を見ると、操縦士がまるで人形のようにはっきり見えた。大きく旋回してまた鹿島台駅や学校のある方向へ飛んで行った。間もなくさっきと同じように機銃掃射(きじゅうそうしゃ)(注)の音と爆音を響かせて、こちらの方へ飛んでくる。三、四回繰り返してさっと見えなくなる。当時矢本にあった日本軍の飛行場を攻撃に来た艦載機が鹿島台上空まで来て、駅周辺の商家や学校が攻撃目標にされた。当時小学校の講堂の天井には機銃掃射の弾痕があちこちにあった。この弾痕はこの講堂が解体されるまであったという。艦載機による空襲は何回もあったか記憶にはないが、鹿島台駅に停車中の貨車が燃えていると聞くと、そちらの方に見に行ったりした。後の記録によると鹿島台では二名の方が空襲の犠牲になったと聞いている。

 その頃戦争は益々激しくなり、日中は何もできず応召されなかった。隣の家の人は、防空壕掘りなどをしていた。たまたま近くの家の幼い子供が亡くなった時は、夕方日が落ちてから葬儀をだした。暗い夕闇の中家族が白い布を被っての別れがあった。今では本当に想像もつかない大変な生活だった。夏休みに入ったある日、近くの水路で水浴びしてると、誰かがこれから天皇陛下の放送があると話していた。自分達はその意味が理解出来ずにいた。その時の空はあくまでも青く静かで、その空を日本の飛行機か米軍の飛行機かが悠々と飛んでいた。

 大人達は戦争が終わったんだ。父ちゃんは帰ってくるのか。息子はどうしているか、これからはどうなるのか。それからどのくらい日数がたったろうか。ある日の午後集落の上空を日の丸の飛行機が低空で何回も旋回していた。近くの人達は「なんだべや」と、戦争が終わったのに不安そうに眺めていた。暫くしてから鎌巻集落の鳴瀬川の堤防あたりから黒い煙が上がったのが見えた。翌朝早くその飛行機のエンジン部分と胴体は、集落内の大きな蔵のある家に馬車で運ばれた。ある人に聞いた話によると、操縦士は手塩にかけた「愛機」を故郷の皆さんに見てもらいたく、そして絶対に米軍には渡したくないと必死の覚悟で乗ってきたという。幸い米軍がまだ日本に進駐する前の出来事だった。

 昭和二十年九月二日東京湾上に浮かぶ戦艦「ミズーリ」で行われた降伏調印によって、正式に日本占領の幕が開いた。戦勝国連合軍の進駐、そして海外にいた出征兵士の復員、国策によって各地域に進出していた一般邦人の引揚げが始まった。その数、実に六百六十万人余りに及んだ。そして昭和二十六年九月サンフランシスコ講和条約調印までの六年間、日本は連合国軍最高司令官「ダグラス・マッカーサー」の統治下におかれ、そして現在がある。

 終戦になって暫くしてから、進駐軍がジープ数十台で学校に乗り付けてきた。初めてみるアメリカの兵隊に恐ろしさと興味半分、とにかく身体が大きいのと格好いいのが印象的だった。今でもジープを見ると思い出す。

 あの戦争の本当の恐ろしさと悲惨さを知ったのは、後で見た映画「原爆の子」「きけ、わだつみの声」。そして大人になってから見た五味川純平の「人間の条件」など、先の戦争が終わって六十八年になる。一九七〇代「戦争を知らない子供たち」を歌ったグループ歌手がいた今、あのグループは戦争を知らない大人達になった。七割強の国民が恐ろしい戦争を体験していない。

 祖国を守るため、肉親を守るため屍を越えて死んでいった将兵、また生き残って帰還した将兵、国策のために新天地を求め大陸に渡った一般邦人。終戦と同時に命からがら祖国へ目指す逃避行の途中に命を落とした方、家族と別れ別れになって帰ってきた方、その苦労は体験した方でなければわからない。

(注)

  • 奉安殿(ほうあんでん) 第二次大戦中まで、各学校で御真影や教育勅語などを収めていた建物。
  • 応召(おうしょう) 召集に応じて軍務につくこと。
  • 機銃掃射(きじゅうそうしゃ) 機関銃で敵をなぎはらうように射撃すること。

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特別攻撃隊隊員だった私の戦争体験記

千葉 清悦 さん(古川地域)

 昭和二十年七月三十日正午近く、水戸より乗車した青森行普通列車は、敵機の空襲烈しく、仙台駅で停車したまま、上りも下りも不通となってしまった。

 私は、第二六六振武(しんぶ)特別攻撃隊員(注)として出撃間近ということで、恩賜のミカン箱くらいの中に菊の紋のついた、航空元気酒やチョコレート、菓子など詰まったものを持って、四十八時間の休暇をもらい、志田郡志田村保柳の生家に帰る途中のことだった。

 どうにもならないので仙台駅に降り立った。そこで見た仙台市の光景は、誠に惨憺たるものだった。何もない真黒く焼け焦げた焼土と化していた。米軍の空襲の凄まじさをまざまざと見せつけられた。

 はるか左手前方に、かすかに建物らしきものが見えたので、駅に居る人達に聞いてみたら、上染師町が焼け残ったとのこと。上染師町に泊まったことのある親類のあったことを思い出し、駅にいても仕方ないので思い切って上染師町に行ってみたら、幸い親類宅は残っていて家の人達も皆無事だった。訳を話して汽車が通るようになるまで一晩泊めてもらい、特攻隊員で出撃も近いので家に帰ることにしたのだが、汽車の不通で帰れなくなった話しなどをして、翌朝早く仙台駅に行ってみたが、上りも下りも通るのは何時になるかわからぬということだった。四十八時間の休暇時間が切れるので、家へ帰るのはあきらめて、上り列車の運行を待ち、帰隊したのは八月一日だった。

 昭和十八年四月、東京陸軍少年飛行兵学校へ入学して、十六歳の少年の発育盛りに飛行兵としての体力、知力を鍛えられた。その基礎を一年間しっかりと作って、それぞれ操縦、通信、整備の専門、三部門に分かれ、専門教育を受けるのだが、私は通信部門で機上無線課程を専修させられて、昭和二十年三月水戸航空通信学校を卒業し、陸軍兵長として兵庫県加古川教育隊に転進、そこで戦隊配属の命令を待った。

 昭和二十年五月二日、航空本部(市ヶ谷の地下壕だった)に呼ばれ、十六期機上無線十七名、「決号作戦要員」の命令(特別攻撃隊)を受ける。私達五名は西筑波飛行場へ(四式重爆特攻)(注)、他十二名は調布飛行場(一○〇式司偵特攻)(注)へと配属された。私達西筑波班は、飛行第六十二戦隊編成の第二六三振武隊から二六四、二六五、二六六振武隊の四ヶ隊、各隊四式重爆六機編成。

 私達機上無線士は、隊長機と副隊長機に同乗。各隊二名ずつ配属され、私は二六六振武隊の隊長機乗員だった。隊長は陸士五十七期中尉、副隊長は少年飛行兵六期生の曹長、操縦は隊長、副隊長を除き少年飛行兵十五期生の先輩だった。私達特攻隊は、本土決戦用に編成されたものだったが、後で戦史をみると八月十六日に第三十飛行集団は沖縄に大特攻攻撃をかける作戦だったという。

 天皇陛下の御聖断によって、八月十五日終戦の日まで、特攻用に造られた重爆撃機は満足なものではなく、銃座もなく中はベニヤ板張りの最新鋭とは名ばかりで、しかも各隊六機にはならず二機から三機で、訓練はいつ事故で墜落するか、操縦士も技術未熟で着陸のまずさは、必ず同乗せねばならぬ機上無線士にとっては、毎日地獄のような思いだった。同期の伍長はこの訓練中の事故で十七歳の命を散らした。

 西筑波の特攻訓練基地飛行場で、先輩特攻隊員の出撃を見送ったあの光景は、七十年を経た今でもまざまざと目に浮かんで切ない気持ちになる。

 先輩英霊達の犠牲のおかげで、今の平和があるのだと思う。

 二度と戦争はしてはならないし、みんなでこの平和を守り続けて、楽しく生きていける世の中をつくって行きたいと切に希うものである。

(注)

  • 振武特別攻撃隊(しんぶとくべつこうげきたい) 陸軍航空部隊第6航空軍指揮下の特別攻撃隊の総称を振武隊という。
  • 四式重爆(よんしきじゅうばく) 四式重爆撃機。
  • 一〇〇式司偵(ひゃくしきしてい) 一〇〇式司令部偵察機。少数の機が特別攻撃隊の特攻機として使用されたといわれる。

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平和の鐘

小林 正敏 さん(古川地域)

 戦争体験は北朝鮮、小学校入学前六歳の時です。幼年期終戦に遭遇し見たこと、聞いたこと、母から教えられたこと、あの日あの時の貴重な体験、戦後の生活から現在までをありのまま文字に残し報告します。

 終戦の日、昭和二十年八月十五日から六十九年(※)を迎えます。私は昭和十六年七月二十六日、北朝鮮平安北道定州(ちぇじゅ)で生まれ現在七十三歳。兄弟は兄と妹の三人。父と母は茨城県出身、父は日本より昭和十三年十一月北朝鮮平安北道へ(部隊・警察官)北朝鮮博川郡庁へ赴任。兄弟は北朝鮮で生まれ、終戦前は家族で平穏無事に暮らしていました。私は毎日母が作った弁当を警察犬の首輪に付け、父に弁当を届けるのが日課でした。

 昭和二十年八月十五日玉音放送「全日本軍の無条件降伏」発令より、平和な家庭・家族に終戦の波が押し寄せ一変にしてどん底生活に突入。父を最後に見たのは日本の警察署、留置所の中です。当時大きな赤レンガ建ての警察署館内で大暴動発生。父は日本の留置所の鉄格子の中で額から流血し頭に包帯をしていました。会話もできず帰宅し母に報告。これが最後に見た父の姿です。翌日の夜には、遠くの山々と近くにある神社に火をつけられ燃え上がり、その状況を見ていた時、母は戦争で負けるとこのようになると泣きながら教えてくれました。その直後、自宅へ旧ソ連兵が土足で侵入し、紙幣、硬貨、貴金属を持ち去りました。北朝鮮の環境は一変し組織も秩序もなくなり、この時期から日本人家族は夜なべをして紙幣や硬貨を着物の襟、足袋底、防空頭巾の中へ縫い込み隠す作業を始めました。このようにして、どこの家族も北朝鮮から日本へ帰国することが急務になり、帰国の準備が始まりました。しかしこのようにした貴重品も、帰国途中身体検査で見つかりことごとく没収されました。北朝鮮から日本への帰国船の中で、妹(当時二歳)が栄養失調で今でも死にそうな様子を見て、

「首に手ぬぐいをまいて手を掛けたが、手が震えてそれ以上のことはできなかった。」

と、母から幾度も聞かされました。

 昭和二十二年、家族四人は他の帰国者と互いに助け合い、無事に舞鶴港へ到着。帰国船の中で、全員ノミ・シラミ退治に「D・D・T」をかけられ頭は真っ白に。兄弟は日本の地をはじめて踏みました。これからの生活について兄と妹は母と一緒に母親の実家で暮らし、私は父の実家に預けられ兄と妹と一緒に暮らすことが出来ないことを知りました。この時私は淋しいとは思いませんでした。自分はなぜか「母親に心配をかけまい。離れ離れになっても行き先の教えを守り、どんな厳しいことにも耐えて母・兄・妹のために頑張る…」と小さな志がありました。三年後、母と兄弟三人で生活できるようになりました。父は北朝鮮から旧ソ連へ抑留されたとの知らせを受けました。消息は不明でした。当時恩給も生活保護も受けていませんでした。

 母は三人の子供を育てるため毎朝四時に起床。昼は結城織物工場に勤め、学校給食の手伝い、夜は和裁をして寝食を忘れ懸命に働きました。兄と妹は東京の学校へ進学。その後は母と私の二人暮らしになりましたが、昭和三十一年母を茨城に一人残し私も上京。昭和三十四年母を靖国神社へ連れ参拝。昭和三十六年母も上京し、東京都渋谷区松涛町で管理人の業務に就きました。私と妹も同居することができて夢のような生活環境に変わりました。

 昭和三十九年八月二十六日(東京オリンピックの年)、日本政府より未帰還者に関する特別措置法に基づき、父は死亡したとみなされる戦時死亡宣告を受けました。母は何時も消息不明の父の帰国を一日千秋の思いで待っていました。この知らせを聞いた母は、長い時間泣いていたことが今でも記憶に残っています。都庁へ兄が父の遺骨を受け取りに行きましたが、骨壷の中には現地の「石と土と木の葉」だけでした。東京都から渋谷区広尾町にある寺の墓地を提供していただき、母と兄弟、親戚一同で葬儀を行い供養しました。誠に残念無念です。

 平成十八年大崎市古川遺族会へ入会。平成二十年七月、戦没者遺児による慰霊友好親善事業・旧ソ連慰霊友好親善訪問団に参加。私が小学四年の頃母がよく歌ってくれた「平和の鐘」を、ロシア領土ウスリースク日本墓地に祭壇をつくり、日本から持参した宮城の米・酒・現地の花・家族の写真を添えて祭壇前で歌い墓前に捧げました。亡き父の眠る戦没地に立ち慰霊追悼と現地の方々と友好親善を深め、恒久平和を願うことができ、家族・親戚・恩師・知人へ報告ができました。母は終生「世界の平和」を願っていました。お国のために働き戦時死亡した父。幼い私達兄弟の成長を願って骨身を削って育ててくれた母は八十三歳で他界。現在父と一緒の墓で安らかに眠っています。まさに「父母天地心」です。

 波乱万丈の戦争体験は大きな無形の財産になりました。現在も、世界では地球の自然環境を破壊するような戦争が起きています。尊い人間の命を奪う戦争、武力による争い。いかなる困難があっても戦争を起してはなりません。これまでに繰り返してきた戦争。その体験から得た教訓。人間が平和に生きていくために大切なことは、相手に対する「思いやり」、相手を「許す心」、許すことの大切さ、いがみ合いを無くす「政治力」が必要です。毎年大崎市古川遺族会、靖国神社参拝に参加、お国のために命を捧げられた多くの護国の英霊に心からご冥福を祈り、戦争を起こさせない国、世界の平和を祈願し…合掌。

 

「平和の鐘」

一、平和の鐘は鳴ったけど

   私の父さま帰えらせぬ

    春夏秋冬経ったけど

     私の父さま帰らせぬ

二、父さま父さまお元気で

   早く帰ってくださいな

    窓にはチラチラ雪の音

     遠いシベリア思われる

 

※体験記応募当時

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かあちゃん、いのちをありがとう

尾形 京子 さん(松山地域)

一、渡満して

 私は八歳の時、父の仕事の関係で父と家族と一緒に旧満州国北部で終戦を迎えました。両親に連れられて「満州に行くんだよ」と言われて、渡満したのが五歳の時と聞いています。

 満州の広い荒野を開拓し、耕地を増やすことで生活を豊かにしようという国の募集に応え、「若者男女」は大地に夢と希望に燃えて三十二万人もの若人が日本海を越えて渡満しました。この人達は「満蒙開拓青少年義勇軍(まんもうかいたくせいしょいうねんぎゆうぐん)」と呼ばれていました。父はそんな人達の引率者、指導者として任務に当たっていました。

 私達が落ち着いたのは「ノンジャン八洲」というところで、北満の雪国でした。レンガ造り(注)の官舎が十数軒並んでおり、一カ所の焚き口で両方の部屋を暖かく出来るということからお隣との二世帯住宅となっていました。そこに幹部家族が二十数世帯くらい住んでいたのです。みんなで一家族になって、仲良く暮らしていました。順ちゃん、チエちゃん、ふみちゃんと友達になりました。

 北国なりに防寒が考えられ、レンガ造りの家で壁に「ペチカ」(注)、床に「オンドル」(注)と暖房が完備されており、部屋の中は寒さ知らずでした。

(注)

  • レンガ 粘土に砂を混ぜて長方体に練り固め、窯で焼いた土木建築材料。赤・茶色をしており、火に強い。
  • ペチカ 壁と壁の間が空間になっていて、その間を煙が通る構造。
  • オンドル 床暖房。床の間を煙が通る構造。

 

二、終戦を告げられて

 春になって雪解けすると、友達と野原を駆け回りました。春一番に咲く「エンチュウホウワ」(注)という花を見つけた時は嬉しかったです。

 大人も子供も仲良く過ごしていたのに、ある日の昼食後、雨の降る中、突然「オーイみんな、負けたど、負けたどや」と近所の支配人が慌ただしく叫んで、終戦を告げられました。

 近隣住民で相談した結果、集団逃亡を決意し、三~四年住み慣れた家も土地も捨てることになりました。もしもの時を覚悟し、避難食と衣類をつめ込んでおいたリュックを背負って出発です。ここからが地獄の始まりでした。

 この時、みんなに毒薬が渡されました。敵の攻撃に耐えられなくなった時の、最後の手段のためにだそうです。母は「どんなに辛くとも、この薬だけは絶対に飲まないで、頑張って日本に帰ろうね」と強く私の手を握りしめました。父は「訓練生のところへ行ってくる」と言って、出掛けていきました。

(注) 

  • エンチョウホウワ 中国北部原生。春一番に咲く、直径十センチくらいの淡い薄紫色をした可憐な花。

 

三、コウリャン畑に赤ちゃん置き去り

 雨の中、私達六団体と呼ばれる一行は、出来るだけ日本に近くなる方向へと歩き始めました。母は出来るだけ物をつめこんだ大きいリュックを背負い、その上に三歳の弟を乗っけて、小さなリュックを背負った私の手を引いていました。列をはみ出るものなら、憲兵がきて銃を突きつけられます。前の人を見失わないようについて行くことで必死です。

 途中、お腹が空いたのか、お尻が汚れたのか、一行の中にいた赤ちゃんが泣きわめきました。「黙らせろ」と憲兵の怒鳴り声。赤ちゃんのお母さんは周りへの迷惑を気にしてか、その赤ちゃんをねんねこにくるみ、道の両脇のコウリャン畑(注)に置き去りにしてきたと聞きました。赤ちゃんの泣き声はだんだん遠く聞こえなくなりました。

 何時間歩いたことか、足が痛くなりました。しばらく歩いて辿り着いたところは、訓練生宿舎でした。約一里、新田から小学校までと同じ距離でした。真っ暗闇の雨の中での一里は辛かったです。遠かったです。ここで一寝入りすることになりました。

(注) 

  • コウリャン 中国北部で栽培されるもろこしの一種で、草丈は背丈くらいになる。

 

四、「地獄に仏」の馬車

 鉄道がロシア兵に破壊されたとのことで、あくる朝早く、常備食の乾パンで銘々に食事をすませると、再び歩き始めました。夕べの雨がやんだ炎天下、汚泥の中を避難民の長い列が動きます。鉄道沿いは危ないので、山の尾根沿い、畑、沼を渡り、川を泳ぎます。濡れてしまった服も歩いているうちに乾いていました。遅れたら、取り残されたら、倒れたりでもしたら、もうおしまいです。苛立つ想いを胸に、祖国に帰る決意と辛抱する気力だけで、それでも一日数里の道をトボトボと前に歩き続けます。リュックが次々に捨てられていきました。陽射しに耐えきれず、道端の泥水をすくって飲みました。うずくまって動かなくなった幼児もいました。

 その時、親切な満人農夫が来て「馬車を出すから、女子供は乗れ」と言ってくれました。正に「地獄に仏」でした。あふれるほどの人が押し込められ、荷物のようにロープでしめられると、互いに支え合い、つかまり合いながら、ガタガタガタガタと馬車は行きます。

 広野の太陽はパッタリと沈み、夜はことさら冷えます。一枚のマータイ(注)に二人でくるまり、遠くに銃声を聞きながら異国の空を見上げれば、何事もないように満天の星が輝いていました。それが恨めしくもありました。

(注)

  • マータイ 中国で使っている麻袋(マータイ)。横一メートル、縦一・五メートルの長方形。
  • 麻(マ・あさ) クワ科の一年草で、麻に似た植物。

 

五、敗北者のむなしさ

 朝になって馬車から降ろされましたが、お尻がすれたのかすぐには動けませんでした。朝もやの中を歩くことまた数時間、すべてを失い、衣服も食べものもなく、それでもただひたすらに日本の方へと向かう駅へと進みます。

 駅では、先に着いた人達が列をなし、順番に汽車に乗り込んでいました。汽車といえば聞こえはいいですが、屋根のない枠だけの貨車で、私達六団体もこれに押し込められました。

 「ポッポー、ガッシャゴト」発車すると、煙と炭カスを一緒にはき出しながら「シュシュポポ、シュシュポポ」と容赦なく走ります。太陽に照りつけられ、顔は汗まみれの上に、煙と炭カスでみんな真っ黒け。誰が誰だか分からないくらいでした。

 敗戦の戒めなのか、人間扱いではなく、畜生扱いをされました。夕刻近く日が沈みかけた頃、次の駅へ着くとみんなすぐに飛び降り、誰も恥じることなく、大人も、子供も、男も、女も、ところかまわず用便をすませるのです。足の踏み場がないくらいでした。戦争によって人徳まで奪われてしまったのです。悲しいことでした。

 

六、「頑張って」の声に励まされて

 誰かの発言から、貨車の交換となりました。私達六団体は、屋根こそあれ、窓一つない真っ暗な貨車となり、入口に立つと異臭で息がつまる思いがしました。隅の方には馬糞の山が置かれたままでした。だからといって、別行動をする勇気は誰にもありません。鼻をつまんで乗り込みます。暗闇の中、どこへ連れて行かれるのか不安な気持ちでいるうちに、貨車が停車しました。

 急ぎリュックを背負ってまた下車すると、朝もやでひんやりとした空気がおいしく感じました。ですが、急に明るみに出たせいか、目がくらみ、ふらついてなかなか足が前に運びません。「お姉ちゃん、頑張って頑張って」とすぐ後ろから母と弟の声がして、それに励まされました。「母は大きいリュックの上に弟を背負って頑張っているのに、私も頑張らなくちゃ」と勢いをつけて無心に歩き、前の人に続きました。

 「到着、集合してください」とのメガホンの声に我に返りました。そこは何かの倉庫だったらしく、広い広い建物でした。方々から人が集まっており、先に着いていた人達は、上間にアンペラ(注)という敷物を敷き、席をとって休んでいました。ここで二ヶ月ほど滞在するとのことです。私達六団体もアンペラを敷いて落ち着きました。

(注) 

  • アンペラ コウリャンの茎で編んだ敷物。

 

七、生きて地獄絵図を見た

 滞在中は、食べ物や洗濯用水などすべてが配給品であり、逃避行中に食べられるものといえば、アワ(注)やコウリャン、洗わないままのジャガイモの塩汁でした。それでも南方のフィリピンなどにいた人に比べれば、ましな方だったそうです。

 慣れない食事から、栄養失調だけでなく、消化不良や腸チフスなどの病気が流行りました。風呂にも何日も入れず、シラミ(注)が発生して、衣服の縫い目にはシラミの卵がずらりと光っています。頭では太ったシラミが右往左往にうごめいて、頭をかくと米粒のようなシラミがボトボト落ちてきました。誰も彼もがみんな同じ状態です。シラミによる発疹チフス(注)で、死者がバタバタと絶えませんでした。殺虫剤である白い粉DDT(注)を、息苦しいほど体全体に散布され、もはや「シラミが先か、人が先か」といった戦いでした。

 通路は両側とも日本人の死体だらけ。朝になると、死体は防空壕に運ばれ、材木のように積み置かれていたそうです。幼かった弟と、友達のジュンちゃん、チエちゃんともここで死別しました。弟は病気で死にましたが、ジュンちゃん、チエちゃんは、お母さんが飲ませてくれた薬によって楽になったのだそうです。

(注)

  • アワ 原産地は中国黄河。日本でも古くから栽培されていたヒエの一種。ヒエは黒いが、アワは美しい黄色。
  • シラミ 小型で平たく、羽根や目はない。哺乳動物の皮膚に寄生して血を吸い、伝染病の媒介をする。
  • 発疹チフス 法定伝染病の一種。シラミを媒介として発症。症状は小さな吹き出物、高熱。
  • DDT シラミを殺す白い粉。

 

八、ふみちゃんが、笑顔で手を振って行ってしまった

 満人にとって日本人の持ち物は珍しいらしく、泥棒が絶えませんでした。物だけでなく「日本人は頭がいいから、日本人の子供を売ってほしい」と頭を下げるのです。「お金を出してまで連れて行ってくれるのなら、きっと大事に育ててくれるだろう」と考え、餓死されるよりはと、子供の幸せを願って手放した人が何人もいたと聞いています。私の友達のふみちゃんも、お金持ちの満人のおじさんと手をつないでいきました。

 「ふみちゃん、さようなら」と言うと、ふみちゃんも笑って手を振りました。

 あのコウリャン畑で置き去りにされた赤ちゃんも、いい人に拾われて大事に育てられ、幸せに暮らしていることを祈っています。

 ひときわ恐ろしかったのはロシア兵であり、「ロ助」と呼んでいました。どんなに頑丈に戸締りをしても破られ、大声で「ダウイダウイ(欲しい欲しい)」と騒ぎながら、強引に若い娘達を連れ去るのでした。娘達は、断髪して坊主頭になり、顔には泥や炭を塗りたくり、頭にかぶり物をし、あぐらをかいて煙草を吸うなど、男装することで身の安全を守ろうと必死でした。「あの人達に青春はなかったんだ」と気の毒でなりません。悪夢のように今でも鮮明に思い出され、恐怖におののきます。

  

九、日本人、帰国することに

 中国政府の政策によって、すべての日本人は帰国することになりました。地名は覚えていませんが、船の出る港まで歩きました。気のせいか、みんな急ぎ足だったように思います。港に着くと大型貨物船が待機しており、甲板からそのままどんどん船底に押し進められ、そこで落ち着きました。座る者、寝転がる者、みんな自由自在でやっと生きた心地がしたものでした。でも、暗闇に目隠しされ、エンジンの音と波の音が聞こえるだけの状態から、つい「本当に日本の港に着く方向だろうね」と、人を疑ってしまう浅ましい自分にショックでした。

 「ゴンゴン、ザブンザブン」というエンジンと波の音に、時折「ボーッ」と汽笛が鳴り、そして船は回り始めます。亡くなった人達を海に葬ると、みんなで黙祷と合掌をしてご冥福を祈り、お別れをしました。

 十日間ぐらい船底にいたのでしょうか。日本の舞鶴港に着いてもすぐには上陸させられませんでした。また、あの殺虫剤DDTを頭から体全体に散布してからのことです。

 

十、終戦から一年かかって帰国

 「かあちゃん、ここは日本なの」「そうだよ」「とうとう帰ってきたのね」「うれしいなうれしいな」

 ふと、死んだ弟や順ちゃん、チエちゃん、コウリャン畑に置き去りにされた赤ちゃん、お金持ちの満人のおじさんと手をつないで行ったふみちゃんなど、みんなのことが一気に思い出され、「どうしてどうして私だけになってしまったの」と悲しみと嬉しさが一つになり、オンオンと声を出して泣いてしまいました。

 昭和二十年八月十五日の終戦と同時に、恐怖に駆られ、追われるようにして、命からがら一年がかりでやっと日本に引き揚げてきました。窓のない貨物列車や貨物船における暗闇軌道のこの一年は、地獄をさまよっているようで、辛く長いものでした。出発の時に渡された毒薬を、私もいつ飲まされるのかとハラハラしていましたが、母は約束通り強い信念を貫き、私を生きて日本に連れて帰ってくれました。

 「かあちゃん、命がけで私を守ってくれてありがとう。弟のよっちゃんの分も頑張って生きるからね。」

  

十一、若人の悲惨

 母と手をつないで、小牛田行きの汽車の出る駅へ向かう私は、身も心もルンルンとし、跳んだりはねたりしていました。日本の空気は、とても美味しく感じました。

 それからは、ふるさとのおじいさん、おばあさんと一緒に暮らしました。

 母は九十二歳の生涯を終えるまで、ずっと一緒にいて私を見守ってくれました。

 母ちゃん、本当にありがとうございます。お疲れ様でした。

 あれから六十有余年、私でさえ七十歳を越えました。あの坊主頭になった若い娘さん達は、もう八十歳から九十歳近くのご高齢と思いますが、あの厳しい試練を乗り越え、平和になった日本のどこかで穏やかに過ごしていると推察します。いや、そう信じたいのです。だからこそ、私は「戦争絶対反対」を主張します。

 子供の頃の記憶をたどり、自分のことだけを書いてきましたが、満州開拓団として、大陸に「王道楽土(おうどうらくど)」(注)を夢見て渡った三十一万人は、日ソ開戦により関東軍に見捨てられ「棄民(きみん)」(注)とされ、約八万人が非業の死(注)を遂げました。残酷きわまる悲惨なその話を、子供ながらに固唾を呑みながら聞きました。極寒の中、ほとんどの人が飢餓や病気で亡くなられ、私達以上に大変なご苦労をされたそうです。

(注)

  • 王道 王の行うべき道。仁徳をもとにして行う政治の方法。
  • 楽土 安楽な土地。安楽な国。
  • 棄民 関東軍に見捨てられた人々。
  • 非業 罪のむくいによらないこと。事故、災難などで死ぬこと。

 

十二、戦争が憎い、憎い

 お国のためとはいえ、こんなにたくさんの若人の尊い命を犠牲にしなければならなかったのかと、書きながら涙がとめどなく流れ、「戦争が憎い」と叫ばずにはいられません。お国のために捧げし御魂に、ご冥福をお祈り申し上げるばかりです。

この人達の尊い命の犠牲を、決して無駄にしてはいけません。戦争は、絶対絶対反対です。

 

十三、日中友好

 父と師弟関係があり、中国から生還された方の手記を拝読する機会に恵まれました。

 ここで、その内容について少し触れさせていただきます。

 それによると、中国側のご厚意により、日中友好の願いを込めて「極楽世界」の碑を建てることが出来たそうです。敗戦から五十六年後の日中友好訪中の際、前面中央に「極楽世界」と金文字で刻まれた碑が、逝きし友らの安らぎの苑として立派に建設されていたそうです。碑の前にはお花やお菓子、果物、線香などがたくさん供えられており、安らかに成仏されますようお祈りをしたとのことでした。

 また、満州族小学校では熱烈な歓迎を受け、頭に赤、黄、白の花をあしらった冠を被った小学生たちが、花束を高く掲げながら合掌をして下さったそうです。本当に愛らしく、優しい子供達だったようで、許されるなら何らかの方法でプレゼントをしたかったとのこと。今度もし訪中することがあれば、ぜひお土産を考えたいとありました。これこそが、本当の「日本人の心」ですよね。「この友好よ、いつまでもいつまでも」と願わずにいられません。

 私が在住する宮城県では、松山の開拓義勇軍犠牲者・百余名の拓魂碑が、入町桃源院のお坂の中段に建てられています。桃源院にお出での折には、ぜひお祈りをしてあげて下さい。生還された数名の有志と協力者四十五名と役場からの補助で平成二年三月に建てられたそうです。

 なお、お金持ちの満人のおじさんにふみちゃんのことをお願いしたお母さんは、日中友好訪中の際に無事再会することが出来たそうです。ふみちゃんは幸せなご家庭に育てられ、今では結婚して二人の母親になっているそうです。良かったね。

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近くて遠いふるさと

堀野 ツヤ さん(田尻地域)

 私は北方領土で生まれました。北方領土とは、歯舞、色丹、国後、択捉の四島からなり日本国有の領土であるにもかかわらず、日本人が自由に行くことのできない土地です。その中の国後島が私の故郷です。

 国後島で漁師をしていた父のもとに、母は岩出山から、十八歳で嫁ぎました。親元を離れる前日、お母さんにぎゅっと抱きしめられ「夫婦は喧嘩すればする程、旦那の床に甘えて入りなさい」と教えられ、遠く離れた国後に来ました。父と母は六人の娘に恵まれましたが、三人は幼いうちに亡くなりました。私は六番目の末娘として昭和十八年に生まれました。その頃にはすでに戦争中で、父は軍事工業の一環として、漁師のかたわらコンブからヨードやカリ(注)を製法する事をしていました。

 昭和二十年八月に戦争が終わりました。戦後すぐにソ連軍が北方領土を占領し、それまで住んでいた日本人は九月五日をもって強制的に故郷の島を追われることになりました。私達家族は、いかだのようなはしけ船に乗せられ、はしけ船には囲いも無く、たくさんの人が押し合って乗っていたので、海に落ちてしまった人もいたそうです。しかし、助けられることもなく、悲惨な光景だったと母から聞きました。

 ナホトカに上陸後、私と家族は捕虜として、ハバロフスクに抑留されました。まだ幼かった私はその頃のことはあまり覚えていませんが、戦争さえなければ…と嘆き悲しむ、つらい日々の中で同郷の仲間が島の思い出を語り合ったそうです。爺々岳(ちゃちゃだけ)がそびえる美しい風景、春には澄んだ雪どけ水が流れ、ハマナスの花が咲き、夏には花咲ガニ、秋にはサケの群れと四季折々の自然の恵みのあった国後を懐かしみ、みんなで励まし合い支え合って、毎日を乗り切りました。三年におよぶ収容所での生活を経て昭和二十三年九月に家族みんなで引き揚げることができました。その後は、父の実家にお世話になったのですが、内地でも食料も少なく、言葉では言い表せない程の苦労がありました。精一杯働く両親を助けようと小学校にあがる頃から、よその家の仕事を手伝う日々が続きました。私は身体も丈夫でしたし、様々な経験を重ねたくましく育ちました。中学校を卒業後、理容師の道に進んだ私は、六年半の修業を積み、田尻町の理容室を営む主人のもとに稼ぎました。大人になってからも国後島のことは忘れられず、千島歯舞諸島居住者連盟に加入し情報を得ていました。千島連盟とは、北方領土から強制的に退去させられた元島民で組織する団体です。平成十五年に北方四島交流訪問に参加する機会に恵まれ、姉二人と一緒に国後に行って来ました。島には幼くして亡くなった三人の姉が眠っています。ふるさとに置き去りになっている家族のお墓参りに行きたいという思いは私達の願いでした。

 平成十五年八月、私は五十八年ぶりに故郷へと向かいました。根室の方々の盛大な見送りの中、花咲港から大型船で出航しました。途中ロシア人による税関手続きがあり、一晩停泊しました。次の日小型船に乗りかえ、その後はしけ船での移動でした。国後島で港があるのはフルカマップだけです。そこには七千人のロシア人がいて、領土に住んでいます。そのほかの土地は全然整備されていません。その日は天候に恵まれ、海も凪いでいました。船上からは、ルルイからトマリまでの百二十キロメートルに及ぶ海岸線、爺々岳などの壮大な景色を眺める事ができました。上陸すると浜は打ち上げられたコンブでいっぱいでした。私達の祖先が心血を注いで開拓した土地は荒れ放題です。当時の浜の様子を知っているご年配の方からは「残念だなぁ」という声が聞かれました。熊よけのため、銃を持ったロシア人狩人二人に付き添われ、雑草が生い茂る荒野で墓参慰霊を終えました。島にはわずか数時間の滞在でした。母が生きている間に来れなかったことは心残りですが、高齢の姉が元気なうちに来ることができ本当に良かったです。

 戦後七十年(※)の現在も四島返還のめどは立ちません。先祖から受け継いできた、かけがえのない土地である北方領土の返還は、日本国民にとっての悲願です。四島の一日も早い返還を実現するには、私達一人一人が関心を持ち理解を深める事が大切だと思います。

 残念なことですが、世界では罪もないたくさんの人々がテロや戦争で命を落としています。戦争はつらく悲しいことです。悲惨な戦争を二度とくり返さず、穏やかな日々が続いていくことを心より願っております。

(注) 

  • ヨード・カリ ヨウ素。カリウム。海藻類に含まれ、医療、工業分野に利用するために製造。

※体験記応募当時

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夜光虫

海老主 林吉 さん(三本木地域)

 私は、昭和十八年十二月、応召(おうしょう)(注)で神奈川県の東部八八部隊に入隊、昭和十九年七月、輸送船(九千八百トン)でバシー海峡(注)をマニラに向けて航行中、午前三時頃、米潜水艦の魚雷攻撃を受けた。船倉内の暑さのため眠れぬまま就床中、甲高い金属音と船腹への衝突音とともに、船体を揺るがす耳をつんざく爆発音、瞬時に電灯は消えて全くの暗闇となった。

 船倉には何十名、何百名いたかは定かでなかったが、一隻に数千名は乗っており、我々がいた最下部の船倉は最も犠牲者が多かった。同部隊からの十六名のうち半分は船と運命を共にした。闇の中で泣き叫ぶ者、天皇陛下万歳と叫ぶ者、阿鼻叫喚(あびきょうかん)の地獄と化した。蚕棚(かいこだな)状の寝床(注)から手探りで這い出し、通路にかろうじて下りた時は膝の上まで海水が浸水していた。上甲板に通ずる木製の階段に辿り着こうと思っていたが、腰の辺まで増えてきていた海水を気にしながら階段とは逆の方向に進んだらしい。不幸中の幸いというか、勢いよく流れ込んできた海水に押し流され、傍にあった小さな階段を駆け上り、上の船室に出たが、ここでも上甲板までの出口を探すのに闇の中で苦労する。

 上甲板までやっとの思いで出た時、兵隊が盛んに暗い海に飛び込んでいるのが月明かりで見えた。乗船の折、船は簡単に沈むものではない、また沈む時は退船ラッパを鳴らすと指示されたが、未だラッパが鳴らないのに波の高い暗い海に飛び込むのはどうしたことかと様子を見ていたが(船底でラッパは聞こえなかったらしい)、月明かりで海面が平常より低く感じた。

 自分の気のせいか危急の場に直面した場合、自分でも変に思うくらい、冷静になる性質だ。これが船の沈む時、渦の中に巻き込まれる破目になってしまった。突然に船体が右舷に傾き、船首の方から高い波が津波のように押寄せて来たと思ったが、後で考えると船首が右に傾いて突込んで行ったのだった。夢中で何かに両手で掴まったが渦の勢いは物凄く、木枯しに枯葉が吹き飛ばされるように略帽(軍帽)のあごひもは引きちぎられ、靴もむしり取られ、巻き込まれた渦の中で海水の塩辛さを感じ、次には普通の水を飲むのと同様に海水を飲み、子供の頃、近くの河で幾度か溺れかかり口と鼻から水を飲んだことを瞬時に感じながら意識不明となった。

 幾時間過ぎただろうか。遠くで呼ばれたような声がする。近くで浮いていた人が横面をたたいてくれ正気に戻る。夜が明けて四、五人が周りに浮いている。飲んだ海水を吐き出すと気分が良くなり、助かったと感じた。

 気がつくと無数の溺死体に囲まれている。四、五人の横面をたたいてみたが、いずれも蘇生するものはなかった。持っていた水筒の水を一気に飲み干した時の美味は未だ忘れられない。

 船に積んであった筏が偶然近くに流れてきた。漂流者がそれに集まり十人位、高い波に揺られながら漂流が始まる。時計を見ると午前三時半、海水のため止まっていた。

 遠くにぼんやりフィリピンの山が見える。海軍の救助艦が海流の下の方でロープを投げて救助活動をしていたが、漂流者が多すぎてかロープが筏まで届かず、救助されないでしまう。筏についていたロープで体をしばり、次の日の八月一日正午頃、救助されるまで三十数時間の漂流が始まった。この時になってようやく、両親や兄弟のことなど考えるようになった。郷里は田舎だから空襲もないだろうし親もまだ五十代前半、兄弟も昔から丈夫な方だったから大丈夫だろうと思ったり、ただ自分が戦争で生き残れるだろうか、また、私より先に軍隊に入った弟は無事だろうかなど。

 夜になり一番の恐怖は眠りとの戦いだった。互いに眠らないように隣同士で励まし合い、朝まで頑張ったが、前日まで軍歌などを歌って元気の良かった二人が、眠るが如く死んでいた。

 七月三十一日の夜から八月一日。朝にかけて、筏の周辺に無数の蛍のような光る物体が我々を取巻き、手の甲、衣服等に登ってくる。海に蛍がいる筈がなく、手で掴んでみたが、手応えがない。誰かが闇の中で夜光虫だと呟いていた。

 いつまでも我々と行動を共にするかのように筏の先になり後になり取り巻き、いつか消えて行った。船と運命を共にし、また、船から脱出しても救助されないまま南海に散って行った数多くの戦友の霊魂が、我々を見守ってくれたのではなかっただろうか。今でも夢の中に夜光虫が出てくる。

(注) 文中「蚕棚状の寝床」とは、あまり天井の高くない船室を、更に上下に棚を作り兵員を倍増して輸送した構造のこと。立って歩けない状態だった。したがって脱出も困難で犠牲も多かった。また、「バシー海峡」は台湾とフィリピンの間の海峡で南方戦線に向う船舶の輸送路で大量の兵員、物資が失われ、少なくとも十万人以上が犠牲となり通称〝海の墓場〟といわれていた。

 

あとがき

 原稿は十二年前に故人になった兄の書き残したものです。一生のうちで特異とも言える体験だったようで、手記の形で書いたようです。八十一歳で亡くなりましたが、遺品整理中に出てきました。

 文中、弟の私のことがありますが、兄より先に陸軍少年飛行兵として十五歳で軍隊に入ったので、兄の先輩になります。昭和二十二年にシンガポールから復員しました。

                                                     海老主 吉郎

 (注) 

  • 応召(おうしょう) 召集に応じて軍務につくこと。

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飛行予科練習生時代を想う

青沼 寛 さん(鹿島台地域)

 昭和十六年十二月八日、太平洋戦争勃発。

 当時私は十二歳の中学一年生であった。

 教師より米英と戦争状態に入った事を、淡々と伝えられた。そして八日の八の字に重要な意味があると。八紘一宇(はっこういちう)(注)の盟主となる始まりの日となる事だと。私には何の事か理解できなかったことを覚えている。

 この年は、日中戦争開戦より四年が経過していた。南方の国々にも日本軍が進出しており、戦果は我が軍の勝利と連日報道された。日本人の多くは信じて自分の生活を切りつめ、我慢して国に協力していた。そんな中、私は軍人になることを考えるようになった。

 昭和二十年五月一日、海軍飛行予科練習生として、青森の三沢航空隊に入隊する。

 同年の八月十五日、終戦となる。約四カ月軍隊生活を体験する。

 短期間の予科練生活は、記憶の中では断片的であるが、想い出すまま記す。

 

入隊の動機について

 昭和二十年、この年度より中学は五年制から、四年制へと変更になる。その目的は、若い戦闘員の確保にあった。十六歳の軍人の誕生は国策であった。

 中学校の学科に、修身という科目がある。採点は、日常と学業の態度、そして一番重点をおいたのは国を想う態度であった。担当教師は、国策に協力的であった。陸軍士官学校、海軍兵学校、飛行予科練習生等に応募した生徒は、修身の科目を百点にするという、そんな噂があった。

 私は修身の科目で百点を取ろうと思った。予科練応募が最も近道と考えた。後で成績表を確認した時、百点ではなかった。がっかりした事を覚えている。幸か不幸か予科練合格の通知が届く。

 通称、予科練といわれているが、正しい呼称は飛行予科練習生である。甲種と乙種があり、中学四年卒は甲種に分類された。

 

訓練と体罰について

 「七つボタンは桜に錨」(注)、に憧れ入隊した。十六歳の練習生は、厳しい精神修養の日々を過ごすこととなる。

 競技と体罰は一体であった。競い負けた方が罰を受ける。例えば棒倒し競技では、相手を撲り倒してでも棒を倒せ、守るより攻めろ、何がなんでも勝てといわれ、予科練魂とは、攻撃精神と不撓不屈(ふとうふくつ)の精神であると教えられた。

 負け組には体罰がある。ベットの床マットを背負い、校庭二百メートルを一周する。体力消耗は甚だしい。辛いから勝たねばと頑張る。

 時々二百メートル競走が行なわれる。一レースは一つの班十二名、結果の順位によって罰を受ける事になる。後尾六名で四百メートルを全力で走る。かなりきつい。体に苦痛を与える事が、精神を鍛えると教官が信じていた。私は何度も体罰を受けた。それには理由があった。

 配布された皮靴は、紐なしの部屋履きのような短靴であるが、問題はサイズが選べないことだった。配布された靴に、足を合わせろといわれた。無茶な話である。配布された私の靴は二十五センチメートルであるが、私の足は二十四センチメートルである。速く走れる筈がなかった。走ると靴が脱げる。汗と涙が流れる。

 

生死一如の訓練

 終戦間近になると、隊員の内に、本土決戦ありと噂が流れた。その頃は、格納庫に飛行機の姿は全く見られなくなっていた。

そんな中、日々の訓練は特攻隊を想定したものとなった。飛行場の方々に蛸壺防空壕を掘る。練習生は爆薬を背負い、その中入る。米軍の戦車を待つ。蛸壺防空壕(注)に戦車が接近した時に、間発を入れず、戦車の下に潜り、自分の爆薬に点火。一人一台自爆攻撃によって破壊する。飛行機による特攻隊を、陸上でもやろうという発想だったと思う。

 そんな訓練の中で死に対する恐怖はあったのか、なかったのか、記憶は空白である。ただ訓練だと割切っていたか、訓練に集中していたかだと想う。本土決戦はなく、命を拾う。

 

情報の攻防

 月日は覚えていないが、或る日より、海軍が誇る一式陸上攻撃機が、次々と三沢航空場に集まる。何処から飛来したのか、日本海軍にまだ飛行機が残っていると思った時、すごく嬉しかった。ところが多数の機が集合した頃合に、米軍の艦上戦闘機が、編隊を組んで現れて、機銃掃射(きじゅうそうしゃ)(注)の攻撃が始まる。二日間続けざま容赦なく攻撃を繰り返す。そして一機残らず完全に破壊して去る。

 我々練習生には、午前六時頃、約三キロメートル離れた森林に避難せよと命令が下る。米軍機の攻撃は午前八時頃となる。頭上を旋回する米機から我々も機銃掃射の洗礼を受ける。体を丸め、恐怖に耐える。破壊された残骸を片づける役割は、我々練習生であった。

 不可解に想うのは、何故米軍が日本軍の情報を掴んでいたのか、また日本側も米機の攻撃と日時を知っていたのか。もし米機の情報を掴んでなかったら、私は爆死しただろう。

 

規則の遵守

 予科練で最も厳しかった事は、時間遵守である。一秒でも遅れると体罰ありきである。

 起床の号令と共に整列点呼まで五分以内。初めは守れなかった。起きて服を着る、掛毛布二枚を畳む、歯を磨く。多人数の中での行動で、時間内に終了するのは無理である。軍人は要領よく行動すべしの教訓のもと、教え通り五分以内の時間を遵守するようになる。

 衣服の整理整頓も厳しかった。基本となるのは、平行直角十文字である。縦横四十センチメートル角の収納袋に、七つボタンの夏冬正服と肌着等を収納する。毎月一回、枚数と整理の点検がある。肌着一枚でも不足があれば、鉄拳を覚悟しなければならなかった。だから常に盗難に対処し、自己防衛、管理は怠ることはなかった。整理整頓の美意識は、病的であった。

 「耐えがたきを耐え」の終戦の玉音を耳にし虚脱状態となり、ただ忙然として二日間過ごした事を、昨日の如く想い出す。  

(注)

  • 八紘一宇(はっこういちう) 「世界を一つの家にする」を意味するスローガン。
  • 七つボタンは桜に錨  海軍飛行予科練習生の制服は、桜と錨が描かれた七つボタンの詰襟であった。
  • 蛸壺防空壕(たこつぼぼうくうごう) 敵の襲撃に備えて作った一人用の壕。防空壕。
  • 機銃掃射(きじゅうそうしゃ) 機関銃の銃口を動かし、敵をなぎ払うように射撃すること。

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