小・中学生平和作文コンクール(令和元年度)

大崎市では、子どもたちの平和に対する思いや考えを発表する作文コンクールを毎年実施しています。

令和元年度は165作品の応募があり、審査の結果、最優秀賞として小学生の部では古川第三小学校6年 柴田栞那さんの「水島上等兵を演じて考えたこと」が、中学生の部では三本木中学校3年 瀬戸裕太さんの「私の願い」が選ばれました。入賞作品は下記のとおりです。

 小学生の部

市内小学校11校から28作品の応募がありました。

 小学生の部

 最優秀賞(敬称略)          

 

平和作文コンクール小学生の部最優秀賞

題名

学校名・学年

氏名(敬称略)

水島上等兵を演じて考えたこと(ページ内リンク)

古川第三小学校6年

柴田栞那(しばたかんな)

 優秀賞(敬称略)

                 

平和作文コンクール小学生の部優秀賞

題名

学校名・学年

氏名(敬称略)

祖母から聞いた話(ページ内リンク)

古川第四小学校5年

伊藤綾音(いとうあやね)

ぼくの感じた戦争(ページ内リンク)

古川第四小学校6年

髙泉翔太(たかいずみしょうた)

八月六日に生まれて(ページ内リンク)

鹿島台小学校6年

藤原遼(ふじわらはる)

ひいおばあちゃんから学んだ事(ページ内リンク)

沼部小学校6年

熱海心琉(あつみここる)

 

中学生の部

市内中学校7校から137作品の応募がありました。

 中学生の部

 最優秀賞(敬称略)

           

平和作文コンクール中学生の部最優秀賞

題名

学校名・学年

氏名(敬称略)

私の願い(ページ内リンク)

三本木中学校3年

瀬戸裕太(せとゆうた)

 優秀賞(敬称略)

                

平和作文コンクール中学生の部優秀賞

題名

学校名・学年

氏名(敬称略)

世界が平和になるために(ページ内リンク)

古川東中学校2年

遠藤菜摘(えんどうなつみ)

「平和」と私たち(ページ内リンク)

古川東中学校3年

佐々木みちる(ささきみちる)

本当の「平和」について考える(ページ内リンク)

古川西中学校1年

門脇あみ(かどわきあみ)

原爆を学んで(ページ内リンク)

古川北中学校2年

柳澤芽依沙(やなぎさわめいさ)

 

平和作文集

小学生の部【最優秀賞】

  

水島上等兵を演じて考えたこと

古川第三小学校6年  柴田 栞那

 

 今年の学芸会で私達の学年はビルマの竪琴に挑戦しました。六年生一二八名が心を一つに力いっぱい演じました。その中でも私は水島上等兵という役を演じました。

 水島上等兵は、仲間がいるムドンへ向かう途中、戦争でやられてしまった死骸を見て帰るわけにはいかなくなりました。水島上等兵から隊長への最後の手紙には、生涯をここビルマで果てるかと思うと書かれていました。水島上等兵は家族のいない死骸を守り、お墓をつくることで、苦しみながら生きているのかなと思いました。

 私が演じていて印象的だったのは三角山のシーンです。日本が負けてしまっているのに、戦いを続けていました。なぜそのような行動をするのかに私は理解できませんでした。命よりも大切なものなど私はないと思っています。戦争は、命よりも国のために戦うことを優先した考えに、人々を変えてしまいます。戦争は、命の方が大切だというあたりまえの順番をくるわせてしまうものなのです。

 私は今、家族と幸せに暮らしています。休みの日には家族と出かけ、多くの思い出をつくったり、夜にはみんなで温かいご飯を一緒に食べたりしています。ねる時は、父、母、妹とその日あった出来事を話し、温かい布団でねむりにつきます。

 私が普通に過ごしているこの生活と比べると、家族と離れ一人で、命も保証されない暮らしを水島上等兵は送っていました。十分な睡眠もとれず、くるいそうな環境で過ごしていたと思います。そのことを思うと、戦争は、人々の日常をこわし、家族や友人を失わせてしまうおそろしいものだと改めて思いました。

 戦争は自分の得だけを優先する考え方がそのきっかけをつくっていると私は思います。その戦争がなくなるためには、自分のことだけを考えるのではなく、相手のことを考えることがとても大切です。私達も、友人と意見が合わずにきまずくなってしまうことがあります。戦争もその考えのズレが大きくなっておきているように思います。

 言葉や文化はちがっていても、夢と夢が出会うこと。願いが一つになることで世界が一つになると私は信じています。だれもが幸せで、何不自由のない生活を毎日送るために、戦争のない世の中を私達若者が手を取り、つくっていければ良いと思います。

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小学校の部【優秀賞】

 

祖母から聞いた話

古川第四小学校5年  伊藤 綾音

 

 「甘い物をこんなに食べられるなんて幸せだね。」

 最初、この言葉を聞いた時、私は理解することができませんでした。私の祖母は昭和四年生まれの九十才です。もちろん戦争を体験しています。私は生まれた時からずっと、祖母にかわいがられて育ってきました。祖母は、一年を通してさまざまな行事の時には、おいしい物をたくさん用意してくれました。それは、私にとって当たり前の行事の過ごし方でした。

 五年生になった私は、本や新聞で少しずつ戦争のことを知り始めました。また祖母は、時々思い出したように、戦争時代の細かな生活を教えてくれました。祖母の話で印象深かった内容がいくつかあります。戦争が始まってしばらくはふだん通りだったけれど、戦争がはげしくなってからは世の中から色々な物がなくなっていったそうです。お金は持っていても、お店に置いていないから買うことができなかったのです。中でも祖母にとって手に入らずつらかった物は、衣類、文ぼう具、甘い食べ物だったとのことです。私の知っている祖母がいつもおしゃれできれいな服を着たがり、古くなったノートやえん筆を大切にし、甘い物をうれしそうに食べている理由が分かりました。それから、夜に電気をつけたくても外に明かりがもれないように、電気のかさに黒い布でおおいをしていたそうです。これは、外を飛ぶてき国から攻げきされないためにしたのです。また、学生の時には団体で愛知県の軍事工場に行かされて、武器を作るための点検をしていたとも話しました。空しゅうけい報のサイレンが鳴ると、みんなで走って防空ごうに入りひなんしたと聞きました。とてもこわかったと祖母は言いました。

 いつものんびりとほがらかに生活をしている祖母が、そんなおそろしい経験をしたなんてとても想像がつきませんでした。考えてみたら、祖母は勉強したい時に明かりも十分につけられず、勉強道具もたりない上に働いてばかりで、満足に学ぶことができなかったのでしょう。だからこそ、九十才になった今でも日記を書いたり新聞や本を読むことが大好きなのだと思います。

 私の今の生活と、祖母の若いころの生活には、大きな差があるのです。自分の生活がとてもぜいたくに思える時があります。それでいて、たくさんの物や時間に恵まれているのに、精一杯やれない自分がいます。どうしてなのだろうと考えました。恵まれた平和な毎日が、当たり前になっているからだと思います。祖母が体験してきた事を本気で考えた時、今のままの自分ではいたくないと思いました。ついついなまけてしまう私ですが、祖母の話を大切にしてがんばっていきたいと思い始めています。食べ物も着る物も十分にあって幸せな私を喜んでくれて、いつも応えんしてくれる祖母を大切にしていきます。

 日本に今、戦争はありません。しかし、世界のあちこちでは争い事が絶えません。平和な世の中のために、私ができる事は何だろうと考えてみました。行き着いた考えは、おたがいに相手をみとめ合うことができたら、良い方に向かっていくのかもしれません。平和というものは、とても価値のあるもので、世の中が平和ではないと、一人一人の幸せもなくなってしまうという事が、大好きな祖母の話から分かりました。大切な事を気づかせてくれた祖母に、とても感しゃしています。

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小学校の部【優秀賞】

 

ぼくの感じた戦争

古川第四小学校6年  髙泉 翔太

 

 ぼくたちは、毎日学校に行って勉強したり、友達と遊んだり、楽しく過ごしています。時間がくればご飯を食べ、お風呂に入って、ゆっくりねることもできます。

 けれども、たった七十四年前まではそうではありませんでした。日本は戦争をしていたからです。ぼくたちと同じ位の子供でも戦争の道具を作るための手伝いをしたり、空しゅうが始まると、親とはなれてそかいしたりしました。自由も楽しみも、色々なことをがまんしなくてはなりませんでした。食べるものもどんどん少なくなって、さつまいもなどを米がわりに食べたそうです。学校に行っても勉強できるわけでもなく、国のために色々な手伝いばかりだったそうです。

 戦争も終わりごろになると、国内のあちこちに空しゅうが始まりました。アメリカのばくげき機が日本まで飛んできて、あちこちにばくだんをおとすようになるのです。

 もう亡くなりましたが、ばあちゃんの一番上のお兄さんは畑仕事をしている時にばくげき機がきて、ねらわれたそうです。必死でにげて助かったと戦後しばらくしてから教えてくれたそうです。空しゅうは昼だけでなく、夜もありました。十万人が亡くなったとされる東京大空しゅうが有名ですが、古川でもあったのだと新聞を読んで知りました。自分が住んでいる所で、空しゅうがあって、亡くなった人もたくさんいると知り、びっくりしました。

 また日本は、世界でただ一つのひばく国です。広島と長崎にかくばくだんがおとされ、多くの人が一しゅんで亡くなりました。その時は助かってもひばくして、苦しみながら亡くなった人もたくさんいます。長崎の平和公園には平和像や泉があり、ハトが飛んでいて今はとてもきれいな公園なのですが、昭和二十年八月九日、かくばくだんが落とされた中心地なのだそうです。公園内には石ひがあって、水が飲みたくても水がなく、人の血や脂のういた水を飲んだと書いてありました。ぼくはその石ひを見つけて読んだ時信じられませんでした。今の時代には飲み水がないことは考えられないからです。たくさんの人が亡くなって、その血や脂のういた水を飲むなんて、どんな状態だったのか、小さい時に見てこわくて泣いた地ごくのようだったのだろうと思いました。何万人が亡くなったと教えられてもわかりませんが、この石ひの文章で少しだけ分かった気がします。

 日本でただ一つ、国内戦があった沖縄にも行った事があります。とてもきれいな海が真っ赤にそまり、あちこちにケガをした人や亡くなった人がいたそうです。ひめゆり部隊の資料館には、ひめゆり学徒隊として兵士のケガの手あてなどをした人達の写真がかざってあります。十代なかばの、今の中・高校生位の女の人達が、写真のない名前だけの人もたくさんいました。びっくりしたのは生死不明の人がとても多かったことです。最前線にいたのに急に部隊の解散があったのだそうです。食べるものも守ってくれる人もいない戦場で、ぼくたちとあまり歳のちがわない女の子が、どれだけこわかっただろうか、どんな最後だったのか考えると苦しくなりました。亡くなった人もくやしかったと思いますが、大事な人を亡くしてしまった人もどれだけ悲しかったかと思うと、戦争は絶対にしてはいけないと思いました。

 平和な時代に生まれたばかりのぼくたちは、戦争の苦しみ、悲しみを忘れることなく、これからも戦争のない平和な時代にしていかなくてはいけないと思いました。

 日本だけでなく、世界が平和になって、みんなが仲良くできるしょう来になってほしいです。

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小学校の部【優秀賞】

 

八月六日に生まれて

鹿島台小学校6年  藤原 遼

 

 ぼくは、八月六日に生まれました。この日は広島県に原爆が投下された日だと知ってはいましたが、どんなことが起きたのか詳しく分からなかったので、調べることにしました。

 まず社会科資料集を読みました。最初に分かったことは、原爆投下によって、たくさんの人が亡くなったということです。昭和二十年八月六日に落とされた原爆の被害にあった人は約十六万人もいたと書かれていました。ぼくが住んでいる鹿島台の人口は約一万二千人なので、十三倍以上の人が亡くなったことに対し、一瞬でそんなにたくさんの命を奪う原爆は恐ろしい兵器だと思いました。

 次に分かったことは、原爆の放射能による影響です。まず原爆の高熱によって巨大なキノコ雲ができました。キノコ雲は地表に接し、強烈な放射能をもたらしました。熱気は上空で冷やされて雨となり、これは黒い雨と呼ばれ、建築物や河川を放射能で汚染しました。このような放射能の被害を受けた者を二次被爆者というそうです、その時に命を落とすだけでなく、何年も人の体に影響を及ぼし続ける二次被爆は、自分や家族がなったらつらいなと思いました。またそのようなつらい思いや苦しい体験をした人の話が直接聞けなくなってしまうのも、問題ではないかと感じました。

 最後に、その後の広島市について調べました。一九四八年には広島平和祭があり、一九五二年には平和記念式典、原爆戦没者慰霊碑除幕式が行われました。一九九六年には原爆ドームが負の遺産としてユネスコの世界遺産に登録されました。今でも毎年八月六日には広島で平和式典が行われ、今年も広島市長が平和宣言を発表していました。その宣言の中では、戦争を起こさないために世界が協調体制をとっていくことや、戦争を知らない若い人に戦争をより深く知ってもらいたい旨の内容が書かれていました。ぼくは、この宣言の内容に、強いメッセージ性を感じ、とても心に残りました。

 確かに、ぼくは戦争を経験していないし、祖父母も戦後生まれです。よって戦争を経験した人の話を直接聞いたことがありません。夏休みになると、終戦記念日に黙とうをしたり、ドラマで戦争中の生活が出てきて見たりしたことはありますが、どこか自分とは関係のない話のような気がしていました。しかし七十四年前に、ぼくとあまり年の変わらない人が、国のために、家族のために、戦地に行き命を落としたり、両親を亡くして一人ぼっちになったりしていたのだと思うと、やはり二度と戦争を起こしてはいけないと改めて感じました。

 ぼくはこの夏休みに、広島原爆投下について調べて、このような悲惨なことが起こらないように、そして、戦争がなくなってほしいと以前より強く思うようになりました。そして、そのために自分ができることは何かを考えました。今の自分ができることは、戦争を経験した人の話を聞き、伝えていくことです。日本の若い人たちだけでなく、唯一の戦争被爆国として世界の人たちにも平和の大切さについて知ってもらいたいです。

 ダイナマイトの発明で知られるアルフレッド・ノーベルは、発明によって命を落とす人が多かったことを悔い、その開発で得た巨万の富を「人類のために最大たる貢献をした人々に分配されるものとする」としてノーベル賞を創設したそうです。ぼくも将来、世の中の役に立つ物作りがしたいと考えています。そのことが世界の平和につながるように、二度と戦争が起きないように、八月六日は自分の誕生日ということだけでなく、広島に原爆が投下された日ということも忘れずにいたいです。

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小学校の部【優秀賞】

 

ひいおばあちゃんから学んだこと

沼部小学校5年  熱海 心琉

 

 平和に関するニュースが夏休みになると毎年多くなります。それは、なぜかと言うと終戦記念日や原ばく投下の日と重なっているからです。私はテレビを見ていて沖縄県とか戦争という言葉を聞くと一番最初に思う事があります。それは、私のひいおばあちゃんの事です。私のひいおばあちゃんは戦争で大きな被害を受けた沖縄県生まれなのです。そして戦争によって大阪府、宮城県へとやってきた人なのです。ひめゆりの塔の話を私は、祖母から聞いた事があります。十代の若い女の子達で結成されたかんご学生のお話です。日本のためとは言っても、もしかしたら明日死んでしまうかもしれない戦場へ行く不安な気持ちや勇気はどこにあるのでしょうか。私には想像できないくらいの大変な事です。その戦場に行った人達だけでなく親や兄弟などの家族の人達の気持ちもつらかったと思います。だからこそ、こうして七十四年たった今も戦争や平和を強く語りつがれてきているのだと思います。結果、戦争で日本は大変な思いをして、長い間きずついてきましたが、その中でも戦争をしてはいけない事や平和の大切さを学んだと思います。

 私のひいおばあちゃんは、自分が沖縄県に生まれ、十代まで育ち、そして戦争によって大阪府まで来ました。そして、宮城生まれのひいおじちゃんと出会い、この大崎市まで来ました。戦争によってひいおじいちゃんと出会い、祖母が生まれ、母が生まれ、こうして私がいます。ひいおばあちゃんは、九十三才になった二年前亡くなりました。はげしい、おそろしい戦争にもたえて、戦争を乗りこえて、祖母や母に自分の体験した事を長い間語りついできたのです。私は直接ひいおばあちゃんの口から戦争や平和についての話は聞けませんでしたが、その分祖母や母から聞く事ができています。戦争によって自分の生まれた沖縄県になかなか帰ることもゆるされなかった事や、沖縄生まれと言うだけでけっして住みやすいかんきょうではなかった事、そして昭和二十年七月の終戦ま近で祖母を暗やみの中で生んだ事、ひいおばあちゃんの母が沖縄県で亡くなる知らせがとどいた時は沖縄はアメリカの国になっていて帰るのにパスポートをとらなくてはならなくて、すでに大崎市で住んでいたひいおばあちゃんにとっては悲しい知らせではありましたが、なかなか行動にできなかったことなど私たち家族には数えきれないくらいのひいおばあちゃんと戦争の話があります。その一つ一つの話を聞くことで、何も知らない私が戦争のおそろしさ、戦争を起こしてはいけない事、平和の大切さを知る事になったのです。テレビで戦争のドラマやニュースが流れるたび、あっ、ひいおばあちゃんもそうだったんだろうなぁとどこかで戦争とひいおばあちゃんがつながって、他人事や昔の事だけとは思えません。戦争が終わって七十四年、終戦ま近ひいおばあちゃんから生まれた私の祖母も七十四才、戦争があった事を昔の事だと思わずに私はこれからも戦争について忘れず、平和について考えていきたいと思います。

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中学生の部【最優秀賞】

 

私の願い

三本木中学校3年  瀬戸 裕太

 

 私は思いました。「なぜ、争いは起こるのだろうか」と。争いがなかったら、大切なものを失うこともないし、住むところがなくなることもありません。争いはデメリットしか生まないと思うのです。それなのに、なぜ争いは生まれるのでしょうか。

 争いが生まれる原因は、考え方の違いだと思います。人間は皆、同じ考えを持っているわけではありません。中学校で生活していると、そう感じることがあります。

 私のクラスでは、毎日、良くも悪くも、いろいろなことがありますが、友人同士で意見がくい違うこともよくあります。クラスで何か決め事があるとき、考えがまとまらないこともあります、そんなとき私は、「どうして、そういう考え方になるのか。」「なんで、そんなことをするのか。」と、理解できないことがあります。

 同じ日本で暮らし、同じ年代に生まれた者同士でさえそうなのですから、人種が違い、生まれ育った環境が違えば、考え方が違ってくるのは当たり前のことでしょう。違いを認め合い、互いの考えを受け入れることは、簡単なことではないと思います。それは、これまでの歴史を振り返ってみても分かります。その結果、争いはやがて、戦争という最悪の形になってしまいました。

 私は、社会や国語の授業で、戦争について学びました。第二次世界大戦では、広島と長崎に原子爆弾が投下され、合わせて約十三万から二十五万人の死者を出したといわれています。その他にも、多くの兵士が命を落としました。読む資料は、どれも残酷で悲惨なものばかりで、目をそむけたくなります。

 戦争により、日本では多くの方が命を落としましたが、日本人は同時に多くの人の命も奪いました。だから、戦争に正義なんてないと思います。

 また、世界に目を向けてみると、今も戦争がもたらした負の遺産で苦しんでいる国があります。例えば、スーダンでは、今も土の中に地雷が埋まっていて、それを踏んでしまった子供が命を落とすという悲しい現実があります。今は、地雷撤去の技術が高くなり、毎年埋没している地雷の数は減っているようですが、完全になくなってはいないので、安心して生活できる環境ではありません。死と隣り合わせの日々を送っているのです。

 さらに、戦争で焼かれた森林は、見た人すべてが「死の森」と錯覚してしまうほどの状態になりました。今は木々や緑が生い茂っているところでも、地中には大砲の弾や不発弾が眠っています。一度壊れた自然をもとに戻すことは難しいでしょう。

 戦争という罪は、決して償うことはできません。でも、私たちが二度と繰り返さないことはできるのです。だから、私は変わろうと思います。まずは、違う考えや、これまで否定してきたことを受け入れる努力をしようと思います。最初から拒否するのではなく、受け入れてから自分の考えを伝えるのです。そして、教室の中で互いを認め、尊重し、相手を思いやることができればいいと思います。きっと、異なる考えがあるからこそ、人間は成長できるし、考えを広げられるのだと思います。一人一人が、そう思うことができたら、世界は変わるのではないでしょうか。

 戦争や争いがなくなり、平和な未来が訪れるまでには、時間がかかるかもしれません。少しずつ、ゆっくりでもいい。たとえ時間がかかっても、いつか、皆が相手を思いやり、憎しみが悲しみを生む迷路から抜け出せる日を願わずにはいられません。この思いが、単なる願いで終わらないように、自分から行動しようと思います。認め合おう、尊重しよう、まずは、そこから始めてみよう。今、そう強く思う自分がいます。世界中に笑顔があふれる平和な未来を願って。

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中学生の部【優秀賞】

  

世界が平和になるために

古川東中学校2年  遠藤 菜摘

 

 毎年、七月、八月になると、新聞やテレビで戦争に関する記事や報道が多くなると思います。そこで私は、戦争について考えることにしました。

 私は吉野作造記念館で開催されていた「原爆展」に行ってきました。そこには、痛々しく悲惨な写真が展示されていました。原爆で死ななくても、投下した時の光や熱風で死んでしまったり、重症の人の写真もありました。一番驚いたのは皮下出血の様になってしまっている写真と遺骨だけが山の様に積まれた写真です。皮下出血の人は赤い斑点がたくさんあり目の色は変わっていて、見ると鳥肌が立ちなぜか私も恐怖を感じました。遺骨の山は、たくさんの人が亡くなったという事を目で見て感じることができて、悲しくなりました。それでも作造記念館に展示されていた写真は刺激が少ないものを厳選して展示していたそうです。私は、見た写真で恐怖を感じたのに現実はもっともっとひどい事があったんだなと思いました。

 戦時中の生活については祖父から聞きました。曽祖父は戦地に行っていて、祖父は弟と曽祖母と三人で生活をしていたそうです、祖父も祖父の弟も小学校にあがる前だったので戦時中のことはうろ覚えですが、お父さんがいなくて淋しかった事、食べ物も配給制度だったので食料が手に入らず曽祖母が大変苦労をしたと聞きました。それから祖父たちは小牛田に住んでいたのですが当時は物資を運ぶ主流が鉄道だったので小牛田は東北本線や陸羽東線、気仙沼線、石巻線が往来する町なのでよく戦闘機が飛んでいて怖い思いをしたそうです。私にはとても想像できない生活を身近な人が経験していてとても驚きました。曽祖母は子どもの手が一番かかる時期に曽祖父が戦場へ行ってしまい、近くに頼れる親類がいなかったので大変苦労したという話を私の母をはじめ孫たちにもよく話をしていたそうです。それとは対照的に曽祖父は戦時中の話をあまりしなかったそうです。祖父や母が唯一印象に残っている曽祖父の姿は、八月六日と九日の広島と長崎の原爆の日の投下された時刻と十五日の終戦記念日には何をしていても、どこにいても必ず黙とうをする姿で毎年かかさず行っていたそうです。私が生まれた時には曽祖父は亡くなっていたのでどう思って黙とうをしていたのか分からないけれど、私はきっと戦争で亡くなってしまった人の中にはまだ幼い命もあっただろうし、誰かの大切な人にあたる人が大勢亡くなった中で自分が生き残った奇跡を、亡くなった人の命の重さを考えて黙とうをしていたのかなと思います。それから生まれている人をどう守っていくか、もうこの様な大勢の死者を出さないためにどうしていかないといけないのか曾祖父も考えてくれたらいいなと思いました。

 祖父のお話や、「原爆展」を見て私は、何人もの人が傷ついて、広島、長崎では建物が消えさったという事を改めて知りました。原爆は何でも消してしまう怖さ、いつ戦争が起こるのかという不安が私の中にはあります。現在、日本と韓国の暴行問題など戦争になってしまうのではないかという様な問題もあります。日本は戦争をしないと言っています。でも実際はそうなのでしょうか。アメリカとも会議をしているけれどお互い不利になる事はいやでも、どちらかがあきらめないと同じ事をくり返してしまいます。多くの死者を出したからこそ反省し、二度としないと誓った事を私たちは守っていくべきだと思います。年々、戦争を経験した人の数は減ってきていて若い人も戦争の話を知らない人も出てくると思います。その中で私たちは、ちゃんと言葉で少しでも多くの人に伝えていくべきなのだと思います。例えば、「原爆展」の様な展示会があるなら自分から積極的に参加してみるなど自分から知っていこうという気持ちが大事だと思います。

 私は、日野原重明先生の本を読みました。そこには「戦争をしないためには、ゆるしの心が必要」と書かれていました。誰かに何かひどい事をされて、仕返しをしていては永久にけんかは終わりません。それがエスカレートすると戦争になってしまいます。実際、私の曽祖父はまったく関係ないのに戦場に立たされて生き残って帰ってきたけれど、もしも死んでいたら、母や私は生まれていなかったということになります。戦争がもし終わっていなかったら次は仙台市に原爆が投下されるといわれていたそうで、少しでも終戦を決めなければ、ここ古川もきっと何もなくなっていたんだなと思いました。私は世界が平和になって世界の全員が笑って生きることができる世界にしたいです。そのために、みんなが「ゆるし」の心をもって生きてほしいです。二度とこの様な悲しい出来事が起こらないように。

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中学生の部【優秀賞】

 

「平和」と私たち

古川東中学校3年  佐々木 みちる

  

 ある晴れた日、なぜか雨の中を走っていた。花火のように光りながら降ってくる、燃える雨の中を。走っても走っても、逃げられない。誰かの悲鳴、倒れている人。まわりの空気は熱いのに、心は冷え切っていた。もう何も見たくない、聞きたくない。私はその場にうずくまり、耳をふさいで目を閉じた。死んだって良い。早く楽になりたい。遠くから聞き覚えのある音が聞こえる。その音は徐々に大きくなり、目を開くとそこは寝室だった。

 夢で良かった。一番はじめに、そう思った。起きてもまだ、胸の奥のほうがなんだかヒヤヒヤとした。これが、「空襲」というものか。これが、「戦争」というものか。本やテレビで見た言葉や映像が一気にあふれ出てきて、なんだかおそろしくなった。

 私は、小学校四年生頃から「戦争」に興味を持ちはじめ、戦争に関する本や番組などを見るようになった。残酷な表現、痛々しい写真。はじめは単に怖いもの見たさだった。しかし、より深く、様々な資料を見るうちに、その気持ちは、違うものへと変わっていった。

 私の祖父母は、戦争中は幼いか、まだ生まれていないかなので、親せきでも実体験のある人はほとんどいない。また、近い親せきでは戦死した人もいないそうなので、被害が大きかったのは都市部だけだと思っていた。ところが、今年のお盆にお墓参りに行ったとき、あることに気がついた。かなりたくさんのお墓があるので、墓石の一つ一つを見てみると、あちこちに「海軍・陸軍戦没者」「戦没者之墓」と書かれた墓石があった。また、亡くなった人の名前の横に「戦没」と書いてあるものもあった。多くは若い人で、私と少ししか年の変わらない人もいた。全く知らない人ではあるが、同じ地域で、こんなにも多くの人が戦争で命をうばわれたのだという事実に驚き、同時に悲しくなった。若くして亡くなった人、残された家族。最後に何を思い、何を願って死んでいったのか。家族の戦死を知り、誰を、何を恨んだのか。考えるだけで胸が痛むし、もし自分だったら、なんて考えたくもない。考えたとしても、いくら考えても、本当の苦しみとつらさは、私には分からない。

 でも、その苦しみとつらさを体験する人がこれから先にいてはいけない。戦死した人々は、何のために戦っていたのか。平和のためだ、と私は思う。自分たちが戦って勝てば、平和がおとずれると信じて戦っていたのではないか。しかし、いつの間にか平和のための戦争が、戦争のための戦争と化していった。結果的に「平和のための戦争」という考えは間違っていることになる。でも、「平和のために戦う」ことは、間違ってはいないと思う。戦い方を間違えたのだ。武力は暴力だ。暴力での解決なら、動物だってできる。相手を傷つけ、殺せば済む話だからだ。言葉のない動物世界なら仕方がない。しかし、人間は違う。人間として、言葉と、発達した脳を持って生まれてきた。言葉があるなら話し合い、ときには団結して声を上げることができる。発達した脳は、他人の気持ちを想像する力を持っている。この優れた能力を持った、何十億人もの人間が「平和」という共通の目標に歩みはじめれば、どんなにすばらしい世界ができるだろうか。しかし、世界平和はそう簡単に訪れるものではない。何十億人もの人がいれば、何十億通りの考え方があるからだ。自分と似た考えは味方、そうでなければ敵、そうやって、歴史の中で人々は戦ってきた。自分たちを一番に考えて。

 真の平和を目指すのであれば、「戦争」という選択をするべきではない。平和は、人々の幸せによって成り立つものであり、戦争はそれを破壊するからだ。守るべきものを壊して、何の意味があるだろうか。真の平和は、戦争から絶対につくり出せない。

今の日本は、戦争から立ち上がり、平和な国を目指して歩みだしている。街並も、人々の暮らしも、大きく変わった。しかし、経験した人々の心の傷が治ることはない。終戦をむかえてから七十四年、日本は戦争のない時間を過ごすことができている。これは、平和のために活動する、多くの人々がいるからだ。しかし一方で、軽々しく「戦争で解決すればいい」と口にする人もいる。戦争は、確かに手っ取り早い方法ではある。でも、戦争で得た利益と、戦争で失われる命の重さとでは、どちらが大きいのだろうか。よく考えてほしいと思う。

こうしている間にも、世界では戦争で失われていく命がある。失われる命をなくすために活動する人もいる。戦争は他人事ではない。いつこの生活ができなくなるかも、誰も分からない。だからこそ、一人一人が平和について考え、後世に伝えていくべきだ。平和は、祈るものではない。私たちが、つくるものだ。

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中学生の部【優秀賞】

 

本当の「平和」について考える

古川西中学校1年  門脇 あみ

 

 私は、「平和」とはただただ幸せに暮らすことだと思っていました。ですが小学五年生くらいから戦争の時の様子、戦争について詳しく知っている友達から話を聞いて、戦争はとても怖くて、とても辛かったということが分かり、平和を甘く考えていたと感じました。

 小学生の時に、私の祖母に戦争のことを聞きました。小学生といっても四、五年のころで、あまり理解はしていませんでしたが、小六の時に戦争についての授業を受けて、私の戦争に対する思いがガラッと変わりました。それから私は戦争について調べて、戦争はとても辛くて過酷だったということを知りました。

 私は小学校を卒業する数日前にまた祖母に戦争のことを聞きました。祖母から教えてもらったのは戦争に行った私の先祖は二度と帰ってこなかった。仙台空襲の時に遠くの空が真っ赤に染まっていたこと。大人の人に連れられて防空壕に入ったこと。自分の頭ではとても理解ができず、混乱していました。でも自分がその場に居たと考えると怖くて、私はそれ以上聞けませんでした。

 私は原爆についても調べたいと思い、動画やインターネットで調べました。八月六日に広島に原爆が落とされ、その三日後、八月九日に長崎に原爆が落とされた。B29エノラ・ゲイ号から原爆が落とされ、普通の生活が一瞬にして壊されたこと、何万人、何十万人の人達の命が犠牲になったこと。私は一瞬で言葉を無くしました。やけどを負って水を求め、はいつくばり、がんばったのに、水を飲んだとたん死んでしまう。大切な人を失って悲しみにくれている人などたくさんの辛い出来事が書かれていて、私は胸が苦しくなりました。

 衝撃だったのは、川に何人もの人の死体がちらばっていたことでした。話だけでしたが、それを考えるともう何も考えられなくて数日間ずっとずっと考えていました。あの場に私が居たら、今ごろ私はどうなっていただろう。まだまだ生きたかった人もたくさん居たはずだったのに幼い命さえも失われてしまって、私は胸をしめつけられました。

 また、六年生の時に「ヒロシマのうた」という物語を勉強しました。その話が私の心を強くしめつけました。ヒロシマのうたを呼んだからこそ今の私がいると思います。ヒロシマのうたの最初の方にお母さんが原爆にやられているのに最期まで懸命に自分の赤ちゃんを守ると書いてある部分に悲しさがこみ上げてきました。お母さんは死んでしまうのに最期の最期まで赤ちゃんを懸命に守る姿にとても心を打たれました。

 このような話を聞いたり、読んだりしているうちに私の心の中の「平和」の二文字に対する思いが変わりました。小学校のころはただただ幸せに暮らすことだと思っていましたが、今私が思う平和とは大きな争いも無く人々が仲良く暮らす、この世界に生きていることが一番の平和だと思います。これらを心に留めてこれからも生きていきたいです。

 私は、昔戦争で戦って亡くなられたあの時代の人たちが望んだ平和と、今私自身が考えている平和の両方を心の中に留めて歩んで行きたいと思います。

 もう二度、あの悲しい戦争をくり返さないため。

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中学生の部【優秀賞】

 

原爆を学んで

古川北中学校2年  柳澤 芽依沙

 

 平和とは、戦争がないことだと私は思います。

 私が小学生だった時、広島に行く機会がありました。広島で、まず「広島原爆資料館」を訪れました。資料館には、原子爆弾によってどのようなことが起きたのかが展示されていました。写真も展示されていましたが、とても恐ろしく小学生だった私は直視できませんでした。展示物の中でも一番印象に残っているのは、「被爆再現人形」です。これは原子爆弾投下直後の広島の町を、人形などを使ってリアルに再現したものです。目や内臓が飛び出ていたり、どろどろに溶けた皮膚が垂れ下がっていたり、服は焦げて皮膚にくっついていたり、とても人間には見えませんでした。人間をこんなひどい姿に変えてしまうような大変なことが七十数年前に広島で起こっていたのだと思うと悲しくなって、自然と涙がこぼれました。

 それから、広島平和記念公園にある「原爆の子の像」で有名な佐々木禎子さんを映画にした、「つるにのって」を観ました。禎子さんは足が速くてとても活発な少女でしたが、小学校六年生の時に、よく体調を崩すようになりました。幼い頃の原爆で浴びた大量の放射能の影響で、白血病にかかってしまったのです。医師に「命はもう長くないでしょう。」と告げられたそうです。私が禎子さんだったら、生きる気力を無くしてしまったことでしょう。けれども禎子さんは違いました。「生きたい」と強く思いながら、願いをこめてたくさんの鶴を折りました。私は心の中で、「頑張れ、頑張れ。」と何度も応援しました。しかし、禎子さんの思いは病気に勝てず、中学一年生という若さで亡くなってしまいました。

 この映画を観て、原子爆弾のせいで苦しい思いをたくさんしたのに、原爆投下から何年、何十年経っても、たくさんの被爆者達が苦しんでいたということを知り、改めて原爆は恐ろしいものだと考えさせられました。

 広島平和文化センターでは、被爆者の方達が自分の体験したことを話してくださいました。幼い頃の記憶は覚えていることが少ないはずなのに、被爆者の方達のほとんどが、いまだにあの時のことを鮮明に覚えているのだそうです。それだけ衝撃的なことだったのだと思います。

 ある被爆者の方は、建物疎開の途中で被爆したとおっしゃっていました。その方はたまたま塀の陰にいて助かったそうですが、目の前にいた人は一瞬にして人間の形をした炭に変わってしまったのだそうです。その日は朝から暑く明るかったのに、一瞬で昼間が夜に変わり、人がおばけに変わってしまった。たった一度の爆弾だけで何もかもが変わってしまったなんて、現在の広島からは全く考えられず、とても信じられませんでした。

 原爆にあっても立派に生きていた人はたくさんいました。けれども、お金がない、食料がない、住む家もない。しかも、七十年間草も生えない死の町と言われ、本当につらかったと思います。厳しい状況で生活していかなければならない貧しい生活を当時の人々はしていたと聞きました。私はお金にも食料にも住む家にも苦労したことがないので、本当に恵まれていることが分かりました。そのうえ、自然豊かな大崎に暮らしているので、とても幸せだと思いました。

 私はこれまで戦争のことを授業で学習しても、原子爆弾によって広島や長崎でどんなことがあったのかを知りませんでした。でも、広島に行き、当時のことを教えてくれる人がいたから、くわしく知ることができたのだと思います。戦争という過ちを二度と起こさないためには、私のような若い世代の人達が、関心を持って学び、戦争の悲惨さや、平和の大切さを伝えていくことが必要だと強く思います。広島で受け取った平和のバトンを確実に次の世代につないでいくこと、それが私の使命だと考えて、これからも行動していきたいと思います。

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