平和作文コンクール(令和3年度)
小・中学生平和作文コンクール(令和3年度)
大崎市では、子どもたちの平和に対する思いや考えを発表する作文コンクールを毎年実施しています。
令和3年度は152作品の応募があり、審査の結果、最優秀賞として小学生の部では敷玉小学校6年 品川詩葉さんの「考えよう、戦争と平和について」が、中学生の部では三本木中学校2年 山田紗矢香さんの「忘れてはいけないこと」が選ばれました。入賞作品は下記のとおりです。
小学生の部
市内小学校8校から19作品の応募がありました。
最優秀賞(敬称略)
題名 |
学校名・学年 |
氏名(敬称略) |
---|---|---|
考えよう、戦争と平和について |
敷玉小学校6年 |
品川詩葉(しながわうたは) |
優秀賞(敬称略)
題名 |
学校名・学年 |
氏名(敬称略) |
---|---|---|
知らなかったでは済まされないこと |
古川第二小学校6年 |
竹内智治(たけうちともはる) |
平和の大切さ |
古川第三小学校6年 |
佐藤陽向(さとうひなた) |
目の中の戦争 |
古川北小学校6年 |
守谷凰甫(もりやおうすけ) |
平和について考える |
鳴子小学校6年 |
小島未希(おじまみき) |
中学生の部
市内中学校8校から133作品の応募がありました。
最優秀賞(敬称略)
題名 |
学校名・学年 |
氏名(敬称略) |
---|---|---|
忘れてはいけないこと |
三本木中学校2年 |
山田紗矢香(やまださやか) |
優秀賞(敬称略)
題名 |
学校名・学年 |
氏名(敬称略) |
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私が考える平和 |
古川東中学校3年 |
瀧島千聖(たきしまちさと) |
当たり前の幸せ |
三本木中学校1年 |
横山愛莉(よこやまあいり) |
平和な国づくり |
岩出山中学校3年 |
小嶋久美(こじまくみ) |
平和のバトンを受け取って |
鳴子中学校2年 |
阿部珠希(あべたまき) |
平和作文集
小学生の部【最優秀賞】
考えよう、戦争と平和について
敷玉小学校6年 品川 詩葉
夏休みに、国語の教科書の「ヒロシマのうた」を読んだ。それまでに、戦争についてくわしく知る機会はなく、戦争についての知識はほとんどなかった。
重く、つらい話だなと思いながら、読み進めていくうちに涙が出てきた。空襲でけがをした目が見えないお母さんが、赤ちゃんを抱いたまま亡くなっていた場面がとてもつらかった。様々な場面で、空しゅうの様子がくわしく書かれていて、残酷さが伝わってきた。赤ちゃんや兵隊の方が、このような残酷でつらい現実でも、生きようとしている姿に感動した。
そのことを母に話した。これまでに戦争についてじっくり話したことはなかった。母がそう祖父の戦争体験について教えてくれた。
終戦から七十六年、戦争を実際に体験し、語れる人は身近には誰もいない。両親も祖父母も戦後生まれで、そう祖父は八年前に亡くなった。母の話では、そう祖父「南郷のぴいじいちゃん」は、働き者でおしゃべりで明るいおじいちゃんだったそうだ。でも戦争については、多くは語ろうとしなかったそうだ。今思うと、思い出すのもつらい記憶だったのではないか、と母はふり返る。
大正十三年生まれのぴいじいちゃんは、二十才の時、兵士として満州に出征したそうだ。二十才の若者が、ある日突然兵隊になり、知らない国に行かされる不安と恐怖は、はかりしれなかったと思う。いつ殺されるか分からない、死ととなり合わせの恐怖。それが昼夜続き、いつ終わるか分からない絶望感。もしかして、仲間の死を目の当たりにすることもあったかもしれない。そんな恐怖と絶望感の中を、二十才のぴいじいちゃんは生きていたのだ。もし敵にそうぐうしたら。殺される前に殺す。そうしないと自分が殺されてしまう。何の迷いもなく殺せるだろうか。相手も自分の国に帰れば、普通の人かもしれない。家族がいるかもしれない。それでも、相手を殺さなければいけないのだ。それは人殺しになる。人を殺してはいけないという当たり前のことを、国によって強要されるのだ。戦争の中では、人を殺してはいけないという当たり前が、当たり前ではなくなってしまうのだ。
今となっては、ぴいじいちゃんが戦地で何をして、何を思っていたかは分からない。もしかして、誰かの命をうばい、そのことをむねにしまって、その後の人生を生きていたのかもしれない。戦争は、とても残酷で苦しく、誰も幸せにならないのではないか。
戦争はなぜ起こるのだろう。何のために戦争をするのだろうか。それは国を守るため?土地や資源を確保するため?しかしそのために、たくさんの命が失われる。今現在も、戦争を続けている国もある。どんな理由があっても、どんな目的があっても、多くの悲しみを生む戦争はやってはいけない。
私にできることはなんだろうか。私は考えてみた。たくさんたくさん考えてみた。戦争を止めるなんて、私にできるとは思えない。だから、考えることなんだと思う。「もし、父が兵士として出征したら。」「もし弟が出征したら。」「もし大崎のこの地に原子ばくだんが落とされたら。」自分のこととして考える。そのことを誰かに伝えよう。体験を語ってくれる人はもういないが、実感を持って「戦争はしてはいけない。」と語りついでいかなければいけない。それが私にできる一つだ。
平和は当たり前にあるものではない。平和は、みんなの努力によって保たれるものだと思う。「ヒロシマのうた」のヒロ子ちゃんのような悲しい思いをする子がもう二度といないように、自分ができることをしていきたい。
小学生の部【優秀賞】
知らなかったでは済まされないこと
古川第二小学校6年 竹内 智治
この夏、東京でオリンピックが開催されました。僕はオリンピックをとても楽しみにしていました。開会式の前日、父が仕事から帰ってくると「明日は本当にオリンピックの開会式ができるのかな」と言いました。どうしてだろうと思っていると、開会式の演出担当の人が、過去にホロコーストをお笑いのネタにして問題になっていることが分かりました。
ホロコーストについては、第二次世界大戦中にヒトラーやナチスの人たちがユダヤ人を迫害していたということを聞いたことはありましたが、僕が知っていたよりずっと残酷なことだと分かりました。
ホロコーストは一九三三年から一九四五年までドイツのナチス党がユダヤ人を迫害し、障がいを持っている人を含めて、約六百万人の人が殺されたと言われています。六百万人とは、宮城県の人口の二倍以上の人が殺されてしまったのです。ホロコーストから生き延びた人は、初めは差別的な言葉から始まったと話しています。不景気で町中に失業者が溢れる中で「あいつらが悪い」とユダヤ人を差別するようになりました。差別は次第にひどくなり、ダビデの星をつけられると一目で分かるようになり、社会の中で線引きされて暮らしも別にされました。そして犯罪者扱いされ、ついに虐殺の対象となったのです。迫害はドイツだけでなくドイツ周辺やヨーロッパの各地に広がりました。ドイツから逃げても周りの国で見つかってしまうと、捕まえられて強制収容所へ送られてしまったのです。ポーランドに作られたアウシュビッツ強制収容所では、くさった食事しかもらえず、朝から晩まで働かされ、不衛生な環境におかれました。しまいには、シャワー室と見せかけたガス室に入れられ、多くの命が一瞬で奪われました。あまりにもひどすぎて現実のことと思えませんでした。どうして何の罪もない大勢の人が殺されて、なぜ多くの人が関わって殺めることになったのか分かりません。このようなことをお笑いのネタにしてしまったのです。世界の人たちはとても反発しました。世界の人々にとってホロコーストはとても大きな出来事ですが、日本人は無知と言っていいほど知りません。一方で、日本に落ちた原爆も外国の人はくわしく知らないのかもしれません。しかし、これらは本当にあった悲しい歴史です。悲しい歴史をくり返さないために、世界中の人々が学ばないといけないと思います。
ぼくがホロコーストについて学び思ったことの一つは、自分たちと違うということで差別したり、悪口を言ったりすることをやってはいけないということです。考えが違ったら話し合いをする。思いやりを持って相手を理解しようと努力する。見た目や勝手な思い込みで判断しない。もう一つは、権力のある人の考えや見聞きするニュース、出来事について、本当かなと一旦考える。何が正しいのか自分に問いかけよう。自分が正しいと思う行動をしたいと思いました。
東京オリンピックを観戦していて、女子のスケートボードの選手たちが国が違っていても失敗したらお互いに励ましたり、難しい技を決めたとき喜び合ったり、選手同士がハグしていた姿に感動しました。
宗教や考え方、能力、国籍など様々な違いを超えて、一つ一つの命が尊いという考えを一人一人が持てば、平和な世界になるはずです。何が起きたかを知るだけでなく、今を生きる自分たちが悲劇を繰り返さないためにも何ができるのかを考えていきたいです。
小学生の部【優秀賞】
平和の大切さ
古川第三小学校6年 佐藤 陽向
「安らかに眠って下さい。過ちは繰返しませぬから」これは、広島市の平和記念公園の石碑に書いてあった言葉です。私は二年前の夏休みに広島に行きました。原子爆弾が落ちてから七十六年も経っているのに、原爆ドームが今もその姿を残していることに驚きました。原子爆弾に関する資料が展示されている広島平和記念資料館にも行きました。そこで見たのは、黒こげのお弁当や少女の下駄、原子爆弾が落ちたときに座っていた人の黒い影の石など、原子爆弾によって人々の生活が一瞬で奪われた様子でした。怖くて見ることができない写真などもありました。戦争は本当に怖くて恐ろしくて、平和なことはとてもすてきなことなんだと強く感じました。
私はどうしてこのような戦争をしたのだろうかと考えました。その理由として、自分の国を豊かにさせたかったということが挙げられると思います。日本は石油や鉄鉱石があまりとれませんでした。だから隣の朝鮮半島や中国を攻撃しました。しかし、それにより日本はアメリカと太平洋戦争を始めることになってしまいました。戦争をして自分の国だけ豊かになることを考え、他の国で多くの人が血を流したり、死人が出たりしても気にしないなんておかしいと思います。戦争を始めてしまうとたくさんの人が亡くなるだけではなく、動物などの多くの生き物、建物、森林などが焼けたり壊れたりします。私たちの環境を破壊していると思います。
私は戦争を行うことに強く反対です。戦争が起こると、広島や長崎のように核兵器を使うことがあるかもしれません。核兵器は何十万人以上の人の命を奪い、一瞬で人々の幸せな生活を消してしまいます。広島や長崎に落とされた原爆の放射能によって病気になり、戦争を終えた今でも、まだ苦しんでいる人がいます。これ以上、戦争によって亡くなったり、苦しんだりする人がいてはいけないと思います。
平和な世の中を作るために大切なこととして、私は「戦争をしないこと」、「核兵器を持たないこと」の二つが大切だと考えます。戦争は、お互いの国が自分の国のことばかりをを考え、関係が悪くなることで起こります。互いを思いやる心を持ち、仲良くすることができれば戦争は起こらないと思います。
核兵器を落とされた日本は、「核兵器を持たない、作らない、持ち込ませない」という非核三原則を作りました。今年の一月には、核兵器禁止条約が発効されました。世界中が核兵器を持たないという思いを一つにして前に進み始めています。
今、私は平和な世の中で暮らしています。「過ちは繰返しませぬから」その言葉のとおり、人 の幸せを奪う戦争を二度と繰り返してはいけないと思います。人々が安心して暮らせる平和な世の中が、これから先の未来においてもずっと続いてほしいと強く願っています。
小学生の部【優秀賞】
目の中の戦争
古川北小学校6年 守谷 凰甫
「ババババ、バキューン。ゴー。」
戦争をテーマにした番組のテレビから聞こえてきた。母から
「目をつぶってごらん。」
と言われてぼくは目を閉じた。テレビから聞こえてくる音は、まるで映画やアニメの音とそっくりだった。目を開けると、電車がひん曲がって吹き飛ばされていたり、人の影がかべに焼き付いていたり、三輪車があり得ない形になっている映像が映っていた。ガレキの中で立ちすくんでいる人もいた。よく見ると、真っ黒になった人たちがたくさん横たわっていて、手や足どころか頭が無い体もあった。ゆっくりと歩く人たちの服はボロボロでうでやおしりなどの肌が見え、赤くただれてはれているようだった。また、両うでを前に伸ばして、同じような姿勢でいる人たちがいた。その人たちのうでの先には、何かぶら下がっているものが見えた。破れた服が張り付いていると思っていたが、うでの皮が手首までめくれている状態だと、あとで戦争体験者からの話で知った。想像をはるかに超えた映像を見ながら、しょうげきを受け、僕は絶対に戦争は起こしてはいけないと思った。
もし今、ここで戦争が起きたら、今ここでばくだんが落とされたら。僕はまた目をつぶって想像してみた。走って逃げている自分が見えた。いつ自分が殺されるのかという恐怖でいっぱいだった。学校には行けず、戦いに行かされるかもしれない。二度と家族に会えないかもしれない。ばくだんによって、家族や友達を目の前で失うかもしれない。僕は怖くなって目を開けた。となりに姉の顔が見えてほっとした。僕は今、本当に幸せなんだと思った。僕たちは空しゅう警報などにおびえることなく暮らしている。戦争という悲劇は二度とくり返してはならない。そしてこの平和を守っていかなくてはならないと強く思った。私たちの日常生活をうばい、大切な命をうばい、残された人たちの未来をもうばってしまう。数えきれないたくさんの人たちに向けて、ミサイルを打ってきた元アメリカ兵は、心的外傷後ストレス障害に苦しみ、日常生活が送れずに苦しんでいた。戦いに勝っても負けても、最悪な記おくと、体や心に傷を残すだけで、だれの得にもならないと思った。
戦後七十六年が経った今、戦争を体験した人が少なくなり、生きていてもとても幼いころのことで、戦争の事実を語れる人が減ってきている。反対に何十年経っても語れない人もいる。母の祖父も戦争のことをだれにも話さなかったらしい。それだけ、人間が人間でなくなるような残こくな体験なんだと思った。でも僕は、話せなかったそう祖父も、戦争のない平和な時代がいつまでも続いてほしいと思っていたと思う。初めは、戦争は遠い昔の話で、遠い国の話のようだった。しかし、映像を観たり、話を聞くことで戦争を起こしてはならないという気持ちを強くすることができ、人の口で語りつぐことの大切さを感じた。語れず亡くなった人達の思いもあわせて伝えられるようになりたいと思った。以前、戦争を知らない子供たちと呼ばれていた母から聞いた話を、今度語りつぐのは僕たちの番だと思う。
小学生の部【優秀賞】
平和について考える
鳴子小学校6年 小島 未希
戦争は多くの人々を悲しませ、大切なものを一瞬にしてうばっていきます。一度残った記憶や傷は二度と消えることはありません。
私はこの作文を書くために、初めて戦争に関する本を読みました。そこには戦争の残骸で遊んでいた子供が、両足のひざから下を失ったり、目を失った子供の写真が載っていました。さらにそのうち一人の子は、一部記憶までも失ってしまったと書いてあったのです。その子供たちは私と年齢も近かったため、より身近に感じ、戦争の恐ろしさを改めて実感しました。さらに読み進めていくと、子供が余計なことを話さないようくちびるをけずり、部隊であるゲリラのやっていることが聞こえないように耳をそぎ、武器を持てないよう手を切り、走って逃げぬよう足を切ったとも書いてありました。私はその悲惨な内容に衝撃を受けました。
戦争は、人々の大切な命を迷うことなく一瞬にしていとも簡単にうばってしまいます。
「戦争は遠い存在、昔の話だから関係ない」
「日本では起こりっこない」
と思ってはいけないと私は思います。
今でも世界では、毎日のように小さな国の中や他国との争いが行われ、何も悪くない人々や、幼い子供の命がぎせいとなっています。世界の平和は一人一人の意識や行動、考え方によって大きく変わるのではないかと私は考えます。
当たり前に学校へ行き、友達と楽しく話したり遊んだり、家族と一緒に過ごせることも戦争地域の子供たちからすれば、当たり前ではありません。毎日を当たり前に暮らせることは、とても幸せな事なのです。
アフガニスタンやシリアなどの国では、今でも戦争が続いている地域があり、悲しみにあふれ苦しんでいる人も多いことでしょう。そのような人々からすれば、私たちの当たり前に過ごしている毎日がどれほど幸せな事なのでしょうか。
今の私たちは戦争や紛争のことについて考える機会として、インターネットや新聞、ニュース番組などで戦争のことなどが取り上げられることも、増えてきました。そのようなものを目にした時に、一人一人が向き合い考えられると、いいのではないかと思います。
一人一人が平和について考えることは難しいかもしれませんが、考えてみると平和であることへの考え方が変わるかもしれません。
私たちの住む日本でも、もう二度と戦争を起こしてはなりません。そのためにもみなさんも平和について考えてみませんか。
中学生の部【最優秀賞】
忘れてはいけないこと
三本木中学校2年 山田 紗矢香
私が思う平和とは、毎日が穏やかで明るく楽しい生活を送れることだと思います。
今年は戦後七十六年ということをニュースや新聞で見ました。七十六年前の夏、広島と長崎に原爆が投下され、戦争が終わりました。兵隊だけでなく民間人も含めた世界の死者数は、六千万人以上にのぼったと書いてありました。戦争を知らない私ですが、死者数を知ったとき戦争はとても恐ろしいものだなと思いました。そのあと私はテレビで戦争の特別番組を見ました。その中には、沖縄戦でガマという沖縄本島南部に多く見られる自然洞窟に逃げた女性の肉声がカセットテープに残されていました。内容は子どもがお腹をすかせて泣いていると、兵隊が来て、「敵に察知されるから泣かすな、泣かしたら撃つぞ」とおどされた話や、赤ちゃん連れの女性が壕に入れて欲しいとお願いしたら「お前たちは戦争の邪魔者だ」と怒鳴られた話がありました。私はこの話を聞いたとき、同じ人間としてそんなひどいことをよく言えるなと思いました。本当なら守らなければいけない大切な命のはずなのに仲間を助けることなく見殺しにするなんて私は信じられません。
他にも私は「火垂るの墓」という戦争映画を観ました。火垂るの墓は、主人公の少年清太と幼い妹節子の戦時中の様子がかかれた物語です。私はこの物語を観て、胸が熱くなりました。清太は今の私と同じ年齢なのに家事や料理もできて、すごいなと思いました。私なら逃げることで精一杯になってしまい、妹の体調を気遣うことができないと思います。節子が病気になった時も節子の好きな食べ物を買ってきてあげたり、素敵なお兄さんだなと思いました。当時は空襲で家が燃やされたり、食事が満足にとれなかったり、私達が想像する以上に大変だったと思います。だからこそ、戦争の話を語り継ぐことに意味があると私は思います。そして私たちは今不自由なく暮らせていることに感謝しなくてはなと思いました。改めて今、幸せに暮らせることはあたりまえではないということを考えさせられる作品でした。
今現在、日本では新型コロナウイルスが流行していて、一年以上たった今でも勢いは止まりません。コロナウイルスは目に見えない恐ろしさがあり世界中で猛威を振るっています。コロナウイルスに感染しないために私達はマスクの着用、アルコール消毒の徹底があたりまえの生活になっています。他にもコロナウイルスのせいで旅行や外出をひかえたりといろいろ我慢することが増えました。現在では感染者数が合計で一六八万人を超え、私が住んでいる県でも百人を超える日が多くなってきています。なかには重症者の人もいて、いつどこで容体が変わるか分からない状態の人もいます。それなのにお見舞いに行くことができず顔を見ることないまま亡くなってしまう人もいます。そんな中、コロナウイルスに感染した人に対し、心ない言葉を言う人もいます。私はこの状況を平和とは思えません。ストレスで犯罪へ走ってしまう人もいるし、感染者数も増える一方です。だけど医療従事者の方々は自分がいつ感染するかわからないなか毎日頑張っています。だからこそ今、国民全員で協力し合うことが必要だと思います。
このように日本では現在も課題があります。それは日本だけではありません。世界もそうです。世界では今でも人種差別や戦争がある国があります。それは相手も良いところを理解していないから起こってしまうのではないかなと思いました。だから差別や戦争がある国はもう一度考え直し、相手の良いところを探してみれば差別や戦争は減ると思います。
私が思う平和になるために必要なことは、自分のことばかり優先するのではなく相手のことを思いやること、仲間を大切にすること、そして今の生活があたりまえではないということを忘れてはいけないということです。一人一人の心がけ次第平和な世の中に近づくのです。
今年で戦後七十六年。戦争は二度と起こしてはいけないことです。これから日本を守っていくのは私達。未来を創っていくもの私達。明るく平和な日本を創っていくために戦争があった時代のことを更に次の世代へ受け継ぎ日本を守っていきたいです。
中学生の部【優秀賞】
私が考える平和
古川東中学校3年 瀧島 千聖
昔、日本を含めた世界各地では、多くの戦争が起こっていました。今、私たちが生きている日本では戦争は起きていません。そのため日本は、昔と比べたら平和になったと思われます。終戦の月と言われる八月。私は最近、テレビで戦争の様子や、戦争を実際に体験した方が戦争について語る姿を多く目にします。それを見る度に、戦争の残酷さや苦しさ、辛さなどを改めて感じ、戦争は二度と起きてはならないことだと強く思います。そして、平和な社会を目指している人達はたくさんいるのだということを知り、私が「平和」について深く考えるきっかけをくれたと思いました。
私が考える「平和」は、戦争を起こさないということもありますが、小さな争いもなくして、良い社会を創っていくことだと思いました。もちろん、多くの人々を犠牲にし、街中に大きな被害を与えた戦争は決してあってはならないことだし、それをなくすことで、平和な社会への大きな一歩となるとても重要なことだと思います。しかし、それは国と国の問題なので、私達のような小さな人間には国同士の関係を良くすることも、国を動かすことも難しいと思います。そのため、私達は、自分ができる最大限のことをして平和を目指していく必要があると考えました。私達の身近では、毎日たくさんの問題が起きています。私達は、普段起きている事件などの身近な問題に向き合っていくべきだと思います。また、コロナ禍の今、世の中ではたくさんのいじめや差別、誹謗中傷などの問題が起きているとニュースで話題になっています。私達にも、平和を目指すためにできることは、たくさんあると思います。一つの例として、クラス・学校での生活です。学校でのいじめや悪口をなくすことも平和に繋がっていくと思います。同じ環境で生活する一人一人が相手に対する思いやりの心を持ち、悪口やいじめをなくしていくことが大切だと思います。戦争がなくなっても、身近なところで辛い思いをしている人が多くいるのなら、それは平和とは言えないと思います。誰か一人が悪口を言ったり、いじめをすることでその場の雰囲気も壊してしまうと思います。一人一人が誰に対しても思いやりの心を持ち、優しく振る舞うことで身近で起きている問題は少しでも減っていき、平和に近づけるのではないかと思いました。このように、戦争のような大規模な争いではないけれど、平和な世界に向けて、私達が今から取り組める一番のことは、このような身近な問題に対して、他人事だと思わずに真剣に向き合い、思いやりの心を持ち、いじめを起こさないということだと考えます。そして自分自身も平和な社会を目指していくために、普段の生活の中で悪口や陰口を言わないことを心に入れて徹底し、自分がいじめの被害者にも加害者にもならないように思いやりの心を持って接し、楽しく生活できるようにしていこうと思いました。また、この「思いやり」の心を学校や家族の間だけでなく、国や世界に広げていくことも重要だと感じました。広い国や世界の中でごく一部の人たちだけが思いやりの心を持ち、どんなに優しくしていても、遠く離れたところでは、争いが絶えないような状況では、平和へは導かれないと思います。全員が思いやる気持ちを大切にすれば平和へと繋げていけると思います。そして、日本という同じ国の中や、ほかの国同士でも、人や物に対する差別や偏見をなくし、誰もが安心して楽しく暮らせるようになれば良いと感じました。
コロナ禍の今、街中で色々制限されている中で、多くの人たちが辛い思いをし、苦しんでいると思います。そんな中だからこそ、思いやりの心は大切になっていると思います。人との関わりが減り、明るい気持ちや町の様子が薄れてきている今だからこそ、平和な社会を目指していくべきだと思います。戦争がなくなり、少しずつ平和になった今の時代、この見えない感染症はいつまで続くかも、いつ終わるのかも分からず、日々苦しんでいる人が増えていると感じます。こんな時に、様々なお店の方々や医療従事者の方々など、たくさん支えてくださる人たちがいます。私達が感謝の気持ちや思いやる気持ちを持たなければならない人たちはたくさんいると感じます。私は、こんな時代だからこそ、いつも以上に人との関わりを大切にし、コロナを乗り越え、平和な社会を目指していきたいと思いました。平和のために、自分ができること、当たり前のことをもう一度考え直して、今よりもさらに良い生活になるように頑張っていきたいと思いました。
中学生の部【優秀賞】
当たり前の幸せ
三本木中学校1年 横山 愛莉
平和とは、何だろうと考えました。争いがないこと以外にも、十分な食事がとれることや安全に学校に通えること、生きていることなど、人それぞれ、いろいろなイメージがあると思いますが、私は、「当たり前」であることが平和だと考えました。
今、世界では新型コロナウィルスが流行していて、約二億人が感染し、そのうち約四百二十万人が死亡したと言われています。最近ワクチンが開発されましたが、まだ当然のようにマスクを付けて生活し、外出もあまりできません。残念ながらいろいろなことを我慢しながら生活する日々が続いています。そんな今の生活は「当たり前」を奪われた生活です。
同じように、今から七十年以上前にも、「当たり前」が失われる出来事がありました。それは戦争です。戦争は、三百万人もの日本人の命を奪いました。その数は、現在の宮城県の人口よりも約六十万人も多いということです。戦後七十六年、戦争を経験した人は、もうほとんどいないでしょう。では、どうやって戦争のことを伝えていけばよいのでしょう。おそらく、私たちのような若い世代が、その役割を果たさなければならないと思います。
私は、学年があがり、戦争のことを勉強するたびに、その悲惨さを感じました。まだ幼い頃、「戦争」という言葉を聞いたときは、「国と国がケンカをしているのかな」としか考えていませんでした。しかし、勉強すればするほど、戦争が残酷で、悲惨なものであることを知りました。
その中でも、「お国のため」と命を落としていった兵隊たちの言葉は衝撃的でした。同時に、私には、その気持ちが分かりませんでした。なぜかというと、私は命を大切にしたいと思っているからです。同じ人間同士、なぜ傷つけ合わなければならないのか、どうして自分の命を犠牲にしなければならないのか私には理解できませんでした。同じ大切な命を落とさざるを得なかった兵隊さんたち。その生きたかった兵隊さんたちのためにも、戦争という過ちを繰り返さず、戦争の無意味さを伝え続ける義務が、私たちにはあると思いました。
しかし、戦争や内戦が起きないことだけが平和なのでしょうか。そう願うことだけが平和なのでしょうか。確かに、戦争や内戦がない世界は平和と言えるかもしれません。でも「当たり前」を守っていくことこそが平和なのではないかと思いました。
私は小学六年生の時に、修学旅行に行けるか行けないかという状況を経験しました。でも、何とか行けることになり、私はとてもうれしかったです。そのときは、友達と久しぶりに買い物をすることができました。そして向かい合いながらご飯を食べることができました。
以前は当たり前にできていたことができるようになり、私はとても幸せでした。たくさん努力してくれた先生方に、とても感謝しています。
失って初めて気が付く「当たり前」であることの幸せ。私は、コロナウィルスの流行で大変な思いをしたことや、我慢しなければならないことがたくさんあって、悪いことばかりだと思っていました。でも、1つだけよかったことは、「当たり前」の大切さに気が付けたことです。きっと、戦争を経験した人たちも「当たり前」の幸せが続いていくことを願っているはずです。
戦争や新型コロナウィルスの感染拡大という恐怖を経験した日本。その経験から得たことを未来に語り継いでいくことが、平和を守ることにつながるのだと思います。私も、その担い手の一人だということを忘れずに生きていきたいです。
中学生の部【優秀賞】
平和な国づくり
岩出山中学校3年 小嶋 久美
私は社会の授業が一番好きです。なぜならば、スマホ一台があればなんでもできる世の中ではなく、知恵をしぼり生活していた昔のことを知ることができるからです。ですが社会の授業は楽しいことだけを学べるわけではありません。
例えば、震災について学んだり、戦争についても学びます。私は今年、第一次・第二次世界大戦について学びました。第二次世界大戦は、ドイツのナチス党がポーランドに侵攻したことで、ポーランドと同盟を結んでいたイギリス、フランスがドイツに対抗し宣戦布告したことで始まりました。初めは枢軸国が有利に戦争を進めていました。ドイツが北ヨーロッパや、オランダ、ベルギーなどの西ヨーロッパの国々を攻撃し、フランスのパリを占領しフランスを降伏させました。
しかし、一九四二年の後半から連合国が反撃を開始しました。太平洋戦争が始まり連合国側に巨大な経済力と軍事力を持つアメリカが加わったことで、枢軸国を追いつめていきました。日本の指導者は、勝利の見通しを失った後も、戦争を続けました。日に日にアメリカ軍の空襲が激しくなっていきました。一九四五年三月、東京大空襲が起きました。同じ時期に沖縄にアメリカ軍が上陸しました。民間人を巻き込む激しい戦闘により、約十二万人以上が犠牲になりました。七月に連合国はポツダム宣言を発表し、日本に民主主義の復活などを求めました。しかし、日本はすぐに受け入れませんでした。八月六日、広島に、九日、長崎にアメリカが原子爆弾を投下しました。ソ連が八月八日に日ソ中立条約を破って宣戦布告し、満州や朝鮮に侵攻してきたことで、ようやく日本はポツダム宣言を受け入れ降伏しました。こうして第二次世界大戦が終わりました。
日本の指導者が、勝利の見通しを失っていたなら、早く降伏していればよかったのにと思います。そうすれば原爆が投下されることも多くの犠牲者が出ずに済んだのにとも思います。
日本は核兵器を「持たず、つくらず、持ち込ませず」という非核三原則があり原爆を投下されてしまった国だからこそ核兵器を作ることは危険なことで、持っていることも戦争につながってしまうから国の方針になったんだなと思います。今ミャンマーではクーデターを軍が起こし、それに国民が対抗しデモ活動をしています。抗議デモを武力で弾圧してしまうことは戦争と同じだと思います。武器を使って国民を支配し、抵抗するなら拘束したりと武力だけで国づくりをしてしまうと国民が安心した生活を送ることができないし国民と軍の争いが絶えない国では国が成長することができないと思います。日本は武器を持たないことで、国民が安心した生活を送ることができ、平和で豊かな国づくりができているのだと思います。武力で縛り付けるのではく、言葉を使い国をまとめることで平和で豊かな国ができると思うので、ミャンマーの軍の方々に武器を使わない方法で国をまとめてほしいです。
中学生の部【優秀賞】
平和のバトンを受け取って
鳴子中学校2年 阿部 珠希
私は中学校の授業で広島原爆の物語「碑」を勉強しました。また、小学校六年生の頃、劇で演じた「はだしのゲン」は今でも自身に強く印象に残っている作品の1つです。そして去年の夏、「平和のバトン」という本に出会ったことで、改めて戦争を体験した証言者の記憶と広島で起きた原爆の記録を知り、平和とは何かを考える機会を得ることができました。
「平和のバトン」は二〇〇七年にスタートした絵画プロジェクトのことが書かれています。被爆した当時を生き抜いた証言者の話を百二十一名の高校生達が、それぞれの証言を一枚の絵として情景を再現するというものです。その本には生々しい当時の状況が一枚一枚描かれていました。
今から七十六年前の八月六日は、広島の町に悪魔の火の玉が降った日です。太陽が落ちたと思うほどのその光は一瞬にして町を叩き潰し、その町に住むものの命を突然に奪いました。たった一発の原爆が、生き残った人々にも地獄のような苦しみを与え続けたのです。戦争が終わってから生まれた現代を生きる私には、被爆の惨禍を想像する事は不可能に近く、とても難しいことです。なぜなら、失われたものの大きさは、私の考えを遥かに超えた計り知れないものであり、悲惨な体験と、暗く深く続く負の感情がそこにあると思うからです。
プロジェクトに携わった証言者の方々にとって、辛い体験や胸のうちを思い返し語ることは容易ではなかったでしょう。だからこそ高校生たちは時間をかけて耳を傾け、一枚一枚を丁寧に描き完成させていったのです。
平和な日常生活から、死に直面したあの日、「この世の終わり」の記憶に連れ戻される証言者の恐怖や苦しみもありました。プロジェクトに関わる全員が原爆の過去にふれる中、ほぼ私と同年代の高校生が思いを受け継いでいこうとする心の強さ、覚悟に身の引き締まる思いがしました。
本当に起きた怖い歴史に、同じ日本人である私達が無関心でいて良いのでしょうか。被爆者の生きた声を聞ける今だからこそ、知るべき事実があるはずです。
また、原爆のボランティアに参加している仙台の友達から、話を聞く機会がありました。その際に、八月九日長崎原爆の日には長崎県内の小中学校は登校日となり、平和学習を実施していると初めて耳にしました。その長崎の平和学習が、私自身の中で震災と重なりました。十年前の二〇一一年に、東北地方に大きな地震が発生し、それに伴う津波により多くの尊い命が失われています。その後、三月十一日午後二時四十六分には、それぞれの場所において一分間の黙祷を捧げています。四歳の私は震災の直接被害は受けていませんが、あの日テレビで見た絶望の景色は、十年経った今で忘れる事はできません。今も長期的な支援を必要とする人がいます。励ましの声や多くの人に支えられ、生きる理由を見つけ前進している人もいます。県内ではあの日生き残った方が、語り部として被災地を訪れた人に体験談を届ける活動があります。震災を伝える、大切な活動だと思います。
原爆についていろいろ知った私は、戦争について家族に聞いてみました。祖父母は戦後生まれですが、曽祖父や曽祖父の兄弟が戦地に赴いた話を聞いたそうです。フィリピンに出征し、過酷な戦線の中、奇跡的に帰った大おじや、戦地で重要な馬の世話をするのが役目だった、曽祖父の話等を覚えているそうです。でも、それ以外は聞いていないといいます。辛くて思い出したくないことだったのかもしれません。語る方も受け取る方も辛いことかもしれませんが、語ることで、戦争の悲惨さや無意味さが次の世代に伝わるのだと思います。
私の思う平和とは、毎日美味しいご飯が食べられて、当たり前に学校に通い、家族と一緒の時間を過ごすことです。
今回この本との出会いを通して、これからも戦争を体験した人々の願いを胸に刻んで生きていきたい、との思いを強くしました。
体験した人からその家族へ、家族からそれを聞いた人へと、時代を回り、次世代の人へ語り継いでいく。そうして、戦争が与える痛々しい悲しみをもう二度と繰り返してはいけない、という思いのバトンが手渡され続けることを願っています。
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更新日:2021年12月22日