平和作品コンクール(令和6年度)
小・中学生平和作品コンクール(令和6年度)
大崎市では、子どもたちの平和に対する思いや考えを発表するコンクールを毎年実施しています。
令和6年度は小学生の部の応募形式を絵画部門と作文部門で募集しました。小・中学生合わせて計55作品の応募があり、審査の結果、最優秀賞として小学生の部は古川北小学校5年村上結香さんの「平和について考えたこと」、中学生の部は鳴子中学校3年小島未希さんの「私たちが作る平和への道」が選ばれました。入賞作品は下記のとおりです。
小学生の部
小学生の部(絵画部門)
結果 |
題名 | 学校名・学年 | 氏名(敬称略) |
---|---|---|---|
優秀賞 | 世界が平和になるように |
古川北小学校・4年 |
吉野 太士(よしの たいし) |
優秀賞 「世界が平和になるように」 古川北小学校4年 吉野 太士

小学生の部(作文部門)
結果 | 題名 | 学校名・学年 | 氏名(敬称略) |
---|---|---|---|
最優秀賞 | 平和について考えたこと | 古川北小学校・5年 | 村上 結香(むらかみ ゆいか) |
優秀賞 | 戦争を知るという事 | 古川第三小学校・5年 | フルタ 雅輝(ふるた まさき) |
優秀賞 | 祖父母から聞いた話 | 古川第三小学校・6年 | 伊藤 碧人(いとう あおと) |
中学生の部
中学生の部(作文部門)
結果 | 題名 | 学校名・学年 | 氏名(敬称略) |
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最優秀賞 | 私たちが作る平和への道 | 鳴子中学校・3年 | 小島 未希(おじま みき) |
優秀賞 | 平和と幸せをすべての人に | 鹿島台中学校・2年 | 尾形 いのり(おがた いのり) |
優秀賞 | 特攻隊について考えたこと | 古川中学校・2年 | 蓮沼 朱音(はすぬま あかね) |
平和作品文集
小学生の部
最優秀賞 「平和について考えたこと」 古川北小学校5年 村上 結香
八月になるとテレビやニュースでよく話題になる戦争ですが、私は戦争のことはあまり知りませんでした。七十九年前の八月に広島と長崎に原ばくが落とされ、罪のないたくさんの人たちの命がうばわれたことは知っていましたが、昔のことで自分にはあまり関係のない話だと思っていました。
しかし、ロシアとウクライナの戦争の様子がテレビで放送された時、私はその映像にとってもおどろきました。昔のできごとだと思っていた戦争が、テレビに映っていたからです。とてもこわかったです。世界ではまだまだ争いは起きていて、日本のように平和ではないのだと思いました。とくにかわいそうだなと思ったのは、泣きさけぶ子どもたちの姿でした。何も悪いことをしていないのに、家をこわされて、お父さんやお母さんや兄弟とはなればなれになって、命をうばわれたり、けがをして、痛い思いをしたりしている子どもたち。学校にもいけない。この子たちはどうなってしまうんだろう。学校にも行くことができて、自分の家もある私はとても幸せで恵まれているんだなと思いました。
私が平和のためにできることは、まずは身近なところでの争いごとを、ぼう力や言い争いではなく、きちんと話し合い、お互い不満が残らないような結論を見つけられるようにしていくことだと思います。また、自分が、「戦争はダメですよ。」と言っても、戦争がなくなるわけではないので、できるだけ多くの人たちに伝えていければ、少しずつでも争いが少なくなっていくのではないでしょうか。
戦争を経験したり、実際に戦った人たちも年をとって亡くなり、今後は戦争について語り伝えられる人の声も聞くことができなくなります。
私たちにできることは、体験談などを聞いて発信したり、学校で戦争についてみんなで考える機会を作ったりして、戦争の記おくを切れさせないことだと思います。
戦争は、たくさんの人をきずつけ、人を不幸にします。誰も幸せになりません。少しでも早く世界中の戦争が終わって、二度と戦争が起こらない、平和な世界になってほしいと思います。世界中の子どもたちが笑顔になり、安心してくらせる世界になりますように。
優秀賞 「戦争を知るという事」 古川第三小学校5年 フルタ 雅輝
ぼくのお父さんは、日系アメリカ人です。お父さんの家族は、明治時代にアメリカに移住しました。それからずっとアメリカに住んでいます。そのせいか時々、戦争について、家族で話します。
お父さんの家族は、日本とアメリカが戦争をしている時、日本人強制収容所に連れていかれたとひいおばあさんから聞きました。ぼくは、戦争の事は、知っていましたが、日本人強制収容所の事は、知らなかったので、ぼくのひいおばあさんは、とても大変だったんだなあと思いました。
ぼくは、そのひいおばあさんと日系アメリカ人の博物館へ行った事があります。そこで初めて、アメリカのために多くの日系アメリカ人の若者が日本軍と戦い、戦死した事を知りました。日系アメリカ人は、アメリカ人としてみとめられず、日本人としてもみとめられず、つらかったと言っていました。ぼくはその事を聞いて、戦争が終わっても、つらい記おくは長くのこりつづけるんだなあと思い、かなしい気持ちになりました。
真じゅわんに行った時には、日本のこうげきで亡くなった人の写真やこうげきの様子の写真を見ました。ぼくは、それを見て、日本は、戦争で色んな人をきずつけてしまった事を知りました。
ぼくは、小さいころ、原ばく資料館に行った事があります。小さかったのであまり覚えていませんが、きずついた人たちの写真がしょうげき的で、核ミサイルがとても怖かったです。後で調べたら、約十四万人の人たちが亡くなった事が分かりました。たとえどんな事があっても、多くの人の命をうばう核ミサイルを二度と使ってはならないと思いました。
アメリカで聞いた戦争の話、日本で聞いた戦争の話、どちらも本当の話で、おたがいにきずつけ合ったのだなあと感じました。その二つを自分の目で見て、その事に気付く事ができました。
戦争は、多くの人の命をうばい、苦しめます。二度と同じ事を起こさないために、日本で起こった事、日本がした事を「知る」事が大切だと感じました。これからもっと、日本の歴史だけでなく、世界の歴史も勉強していきたいです。
優秀賞 「祖父母から聞いた話」 古川第三小学校6年 伊藤 碧人
ぼくの祖父母は、広島に住んでいて、毎年祖父母に会いに行っている。祖父母と話していると、原爆や戦争の話を多く聞くことがある。それは印象強くぼくの心に残っている。
まず、曾祖父の姉が原爆で亡くなったこと。曾祖父は、爆心地からはなれた島にいたので無事だったが、姉は爆心地の近くで働いていた。八月六日八時十五分に原子爆弾で、爆風や三千から四千度の熱線であとかたもなくなった。曾祖父は姉を探しに、働いていたところに来たが、姉は見つからず、見えているのは悲惨な光景だったという。
この話を聞いて、ぼくは原爆資料館で見たくずれた建物や原爆で変形した物などを思い出した。そして当時曾祖父が見たであろう町の姿が頭に浮かんだ。ぼくは二度と起こってほしくないと思った。一つの原子爆弾は約十四万人の命をうばい、一つの都市が一瞬で荒野になるほどの威力をもつ。そのようなものを、広島・長崎に落とし、罪のない人を、たった一つしかない命を、大勢の命を簡単にうばってしまった。二度とこのような悲惨なことは起きてほしくない、いや起こしてはいけない。
そして曾祖父の弟がロシアのシベリアで抑留され、シベリアで死んだ話も印象に残っている。抑留とは、外国人や船などを自国に拘束することである。シベリア抑留はどんなことかというと、日本が武装解除したときに、ソ連の最高指導者が、「日本人将兵を五十万人捕虜とせよ。」という命令を出して、旧満州や朝鮮などにいた日本人五十七万人が、収容所に強制連行され、その一割の五万四千人が、過酷な労働や食料不足で死亡したことである。このようなことは許されないことだと思う。
曾祖父の弟は、どこかに出兵して、ソ連に連行され、亡くなったという。先にもいったように、このようなことは許されないことだ。
ぼくは祖父母から話を聞いて、戦争は絶対に起こしてはいけないと分かった。戦争のえいきょうで、亡くなった人もたくさんいて、家がなくなった人も、罪なく死んでしまった人もいる。戦争には何も得がない。戦争は何がなんでも起こしてはいけない。
中学生の部
最優秀賞「私たちが作る平和への道」 鳴子中学校3年 小島 未希
「平和と公平をすべての人に」平和な世界の実現は、SDGsの目標の一つとして掲げられています。過去に世界で起きた戦争や紛争などの歴史を通じて、多くの人々には平和な世界にしなければならないという考えが定着していると思います。平和を守ることは私たちの大切な使命であり、誰もが幸せに暮らせる社会を作るために欠かせないものです。しかし、今の世界は平和を脅かす争いや差別、貧困などの重大な問題を抱えていると思います。
現在も行われている戦争の一つとして、ロシアのウクライナ侵攻が挙げられます。2022年から始まったロシアのウクライナに対する全面的な軍事侵攻は、二年経った今でも勢いが収まることはなく、多くの人の尊い命が奪われています。戦争や紛争は、心身に消えることのない深い傷を負わせ、大切なものすべてを一瞬で奪う恐ろしい凶器となります。そしてニュースの取材に応じた人々は、涙を流しながら悲しい表情を浮かべていました。昨日まで隣で笑っていた家族や友人にはもう会うことが出来ない、そんな悲しい状況下に置かれている人が多くいるのだと痛感し、私はとても心が痛みました。
そしてここ数年、目に見えない新たな争いが生まれつつあると私は思います。今も日本のみならず世界中で猛威をふるっているコロナウイルスの影響で、感染症予防が呼びかけられ、私たちはマスク着用やアルコール消毒の徹底を強いられました。そして、学校に行って授業を受けることも出来なくなり、当たり前だった日常が一変した瞬間だったように思います。毎日テレビをつければコロナウイルスの感染者数が取り上げられており、その数は元の生活に戻りたいと強く願う人々の思いとは反対に増えていくばかりでした。そんな中、感染した方やその身内の人に対する非難の声があがるようになり、差別などの問題点が生まれていきました。
また、SNSが日常に欠かせないものとなってきた今、誹謗中傷やSNSを悪用した犯罪なども増えていく一方です。SNSは便利な反面、SNSならではの特徴である匿名という点を不正な目的で利用し、心ない言葉をかける人もいます。それによる傷が消えることはなく、中には自ら命を絶ってしまう人もいます。人の命を奪い、心身に傷をつける心ない言葉や差別などの問題は目に見えない攻撃であり、平和を脅かす現代社会の大きな課題だと私は思います。
日本は今年で終戦から79年を迎えました。今この瞬間も自他の命が脅かされ、戦争によって最愛の人を亡くした悲しみに暮れている人がいます。世界中で戦争や差別、貧困などに苦しんでいる人が多くいる今、私たちが出来ることは現実と向き合い、平和な世界の実現に向けて自分事として考えることだと思います。日本では、実際に戦争を経験した人々が気持ちのバトンを繋ぎ、平和な世界を目指し続けてきました。そして次は、これからの未来を担う私たちが気持ちのバトンを繋ぐ番です。平和な世界を作るために。
優秀賞「平和と幸せをすべての人に」 尾形 いのり
「幸せ」の形は、人それぞれあると思います。幸せを感じる瞬間や頻度も、人によって違っているでしょう。
ただ、自分や家族が、健康に過ごし、生命を脅かされずに「平和」に生活できている事、それはすごく幸せな事だと私は思います。
人は誰しも、平和に暮らせることを望んでいるはずです。しかし、世の中には、戦争や紛争が続いている国があるなど、幼いころから貧困に悩まされ、病気にかかってしまう子供がいて、望んでいる平和な生活を、手に入れられる事が難しい人達もいます。
今でさえ戦争はありませんが、かつて日本も、第二次世界大戦において、広島や長崎に原子爆弾が落とされ、多くの犠牲者が出るなど、平和とは程遠い状況にありました。二度とあのような悲劇をおこしてはいけません。
では、今の平和な世の中を守っていくために、私達は何を大切に生きていけばよいのでしょうか
一つ目は、世界にある、「紛争問題」、「貧困」、「難民」などの国際問題について、興味を持ち、現状を知る事です。自分が暮らしている地球で起きていることを知り、受け入れる事が必要なのです。そしてそれを、家族や友達にも伝えて下さい。情報を発信して、多くの人がそれらの問題について考えを持つ事が大切です。
二つ目は、ボランティア活動や募金などでの支援の協力です。初めは出来ることから始めてみましょう。続けていけば、きっと大きな力になります。「困っている人達の力になりたい」という気持ちがあれば、積極的にそういった活動について調べてみて下さい。
このように、まず世界で起きている事について知り、それを色々な人に伝え、自分が出来る活動から始めていくこと。これがこの先も平和に暮らしていくためには大切だと思います。
そして、これから生きていく上で忘れてはいけない事があります。それは、「今、自分達が平和に暮らせている事がどれだけ幸せか」というこです。ご飯を食べる事、友達と遊ぶ事など、どれも当たり前のようで、すごく幸せなことだと、あなたは気付けているでしょうか?
世の中には、そんな当たり前を手に入れられずに、辛い思いをしている人がたくさんいます。こういった当たり前の日々でも、周りの人達への感謝を忘れずに毎日過ごしていきたいと思っています。
私の曽祖母はよく、「昔は、戦争で食べ物も無かったし、安心して寝ることも出来なかった。でも今は、美味しい食べ物もあるし、平和に暮らせて幸せだね。」と言います。本当にそうだと思います。
いつか、地球に住む人達全員が、平和に過ごして、幸せになれると良いなと思います。
そんな未来が実現されるように、あなたも一歩踏み出して、自分に出来ることを始めてみましょう。
優秀賞「特攻隊について考えたこと」 古川中学校2年 蓮沼 朱音
「あの花が咲く丘で、君とまたあえたら」という映画を自宅で親と一緒に見ました。現代の高校生が1945年の戦時中の日本にタイムスリップしたことから始まる物語りで命をかけて戦地に飛び立つ運命である特攻隊員が現実に向きあいながら、初めて人を愛することを知っていく姿が描かれていました。
戦争は二度としてはいけないものとは思ってましたが、特攻隊員の存在は名前しか知りませんでした。インターネットなどで特攻隊を調べてみました。第二次世界大戦中に日本はアメリカを中心とする連合国と太平洋戦争を始めました。その戦争中に、日本が行った「特別攻撃」という作戦で重さ250キログラムの爆弾を積んだ戦闘機で敵の船に体当たりし沈没させるのが目的であると書かれていました。なぜ生きて帰ってくる方法を考えなかったのか、とても気になり、更に調べていくと当時の日本では「軍人は、国のために命をかけて尽くすことは当たり前」と教えられていました。戦争が長引き戦況が悪化する中で、経験豊富なパイロットや飛行機を多く失っていたことを新たなパイロットの養成や飛行機の生産が追いつかなかった理由も重なり、少ない飛行機とパイロットで大きな船を沈める可能性のあった特攻作戦が行われたのです。更に年代を調べてみると十七歳から三十二歳の男性で、今の高校生や大学生と同じ世代になります。学生や小さな子どもがいる父親もいました。私は、愕然としてしまいました。戦争のない平和な時代に生まれ、今まで命の危険を感じることなく生活してきました。好きなものを集めたり昼寝をしたり、おいしいものを食べ、ゲームなど自由に楽しみいろんなことができます。
ほとんどの特攻隊員は、出撃前に家族や友人に宛てた遺書や手紙を残していました。その手紙の内容を見て悲しい気持ちになりました。命を失うにも関わらず家族の幸福を祈ったり、国のために命を捧げることに誇りを感じていることが、より悲しく感じ、信じられません。彼らの家族はきっと裏では、嘆き悲しんだのではないかと思います。最後まで、命を懸けて戦ってくださった人たちには、感謝の気持ちでいっぱいです。私たちは、このような方々に恥じることのない世界を作っていかなければなりません。
平和を望むためにはこのような兵士たちの思いをもっと知り、二度と繰り返さないために学習する必要があると思います。若い兵士たちの死を無駄にしないためにも私たちはこの世界の平和を守っていかなければならないと改めて思いました。
最後に祖母へ、今回特攻隊についての作文を書いてみたいと話すと曾祖父は病気で亡くなっており会ったことがないのですが、戦時中に特攻隊員に選ばれ、戦地に向っている直前で終戦となり、行かずに済んだと教えてもらいました。曾祖父が特攻隊に行っていたら今の自分はいなかったのだろうと思うと、驚きと鳥肌が止まりませんでした。常に感謝の気持ちを忘れず生きていこうと思いました。
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更新日:2025年04月23日