平和作文コンクール(平成18年度)

更新日:2021年02月26日

市では、子どもたちの平和に対する思いや考えを発表する「小・中学生平和作文コンクール」を毎年実施しています。

平和作文コンクール

小学生の部

最優秀賞

佐々木志穂さん 西古川小学校5年 終戦61年・これからの未来

優秀賞

  • 高橋果夢さん 鳴子小学校6年 爆心地、広島
  • 若林誓也さん 古川第四小学校4年 世界中に友だちをつくりたい

中学生の部

最優秀賞

田中志歩さん 古川東中学校3年 戦争について

優秀賞

  • 有川みゆきさん 鳴子中学校3年 戦争と向き合う
  • 湯山和佳さん 三本木中学校3年 平和の中の本当の幸せ

応募数

89作品

平和作文集

終戦61年・これからの未来

西古川小学校5年 佐々木志歩

私は、小学校5年生なので、戦争を知らない子供の一人です。
でも、戦争のドラマをみたり映画をみたりして、戦争がどんなにおそろしく、つらいことだったかということは、少し分かります。

家のおばあちゃんは、68才になります。戦争が終ったころ、ちょうど小学1年生でした。だから、あまり戦争についての記おくがないと言っていました。しかし、周りの人達から聞いた戦争があったころのいろいろな話を私にしてくれました。

例えば、学生や結こんしようとしていた若い人達が、「お国のためだ」と言われ、戦地に行ったそうです。たくさんの鉄ぽうの玉やばくだんが飛んできて、「死ぬか」、「生きて帰れるか」分からない戦地に行かなければならないなんて、かわいそうだなと思いました。

また、仙台の空しゅうがあったときに、おばあちゃんが子供のころに住んでいた西古川からも、空しゅうの様子が見えたそうです。仙台からかなりはなれている西古川からも、空しゅうが見えたなんて、すごくはげしいこうげきだったんだと思います。もし、わたしの住んでいる西古川に空しゅうがあったらと思うと、とてもこわくなりました。

戦争中は、食べ物は簡単に買えずに、「配給」と言われ、決まった量の食べ物しか配られなかったそうです。だからおなかいっぱい食べられなくて、病気になった人もいたそうです。私達のようなまだ小さい子供は、なくなってしまうこともあったそうです。

食べる物がなくて、病気になったり、死んでしまう人がでてくるなんて、信じられません。私は、おなかがすくと、冷ぞう庫を開けて、「あれにしようかなこれにしようかな。」と、まよいながら、家の人が買っておいてくれていたおやつを選んで食べます。戦争中と、今の時代は、大きくちがっていたんだなぁと思いました。

私は、おばあちゃんから戦争の話を聞いて、本当にその時代に生きていなくて良かったなぁと思いました。むりやり戦争に行かされることもないし、空しゅうにおびえながら生活することもありません。もちろん、食べ物がなくて、こまるということもありません。戦争の無い平和な生活がすばらしいことなんだなと思いました。

この平和な、あたりまえだと思っている生活がいつまでも続くように、戦争のない未来のために、今、私にできる事は、相手の事も考えて行動するという事です。自分のやりたい事や言いたい事を言うのでなく、相手の気持ちを考えてあげる事で、けんかにならなかったり、すぐ仲直りできると思います。

世界の人達と協力し、仲良くできる平和な世界を作る大人になりたいです。

爆心地、広島

鳴子小学校6年 高橋果夢

私は2年前に原爆の爆心地である広島に行って来ました。1945年(昭和20年)8月6日。人は、いつものように街を歩いていました。大人は、いつものように仕事場に行っていました。子供は、いつものように学校に行っていました。アメリカとの戦争中ということ以外は広島の街も人も何の変わりもない、いつものような日が過ぎてゆくはずでした。

その日の朝8時15分、アメリカの軍の空爆飛行機が広島の上にやって来ました。戦争中いつも行われている空爆ですが、その日はいつもより大きい、戦後60年以上も語りつがれるつめあとを残していきました。それが原爆。原子爆だんでした。

2年前に私が広島に行った時、実際に原爆を、戦争を体験した山岡ミチコさんという方のお話を聞く機会がありました。ミチコさんは、家や仕事場での被爆後の出来事などをとてもくわし話してくれました。あの日の広島を知っている方の高齢化も進む中、戦争を知らない人達がどんどん増えています。私達の世代はもちろん、私のお父さんお母さんも知りません。そんなときに、『広島』でおきたことを伝えてもらって、教えてもらって、私はとても素晴らしい体験をしました。

広島にある「原爆資料館」では、原爆で亡くなった方達の遺品や資料、原爆で形の変わってしまった人のつめまで展示されていました。原爆が落ち、暑くてたまらなくなった人の様子を再現したものが展示されていました。その展示品を見ると、たとえ本当の人でなくても原爆のおそろしさがわかります。展示品として有名な「まっ黒なおべんとう」もありました。一つ一つの展示品や、それの説明を見ると「まっ黒なおべんとう」のような悲しいお話がたくさんありました。

佐々木禎子さんのお話も原爆資料館で見た悲しいお話の一つです。2歳で被爆し、12歳で亡くなるまで、禎子さんは病室で一生懸命鶴を折り続けました。「生きる」という望みを捨てないために毎日毎日。今も平和公園には毎日毎日、日本各地や世界各国から折り鶴が届くそうです。二度と、戦争をしないために。二度と広島をくり返さないために。

今も、広島で知ったこと、広島でおきたことを思い出すととても悲しい気持ちになります。だけど、広島でおきたことは決してくり返してはいけないことです。そのためには、自分が知ってるだけではいけないと思います。このことが、どんどん忘れられてしまってる中で、私はこのことを周りのみんなに伝えていこうと思います。一人でも多くの人に、広島を忘れられないために。
「ノーモア・ヒロシマ」私の心に刻みたい言葉です。そして、みんなにも知ってほしい言葉です。「ノーモア・ヒロシマ」

世界中に友だちをつくりたい

古川第四小学校4年 若林誓也

夏休みのある日、ぼくは、近くに住んでいる、おばあちゃんの口から、しょうげき的なことを聞いてしまった。

おばあちゃんは、若いころ、白衣の天使、かんごふさんだったそうだ。どうりで、けがをしたり、病気になったりした時、あわてないで手当てをしてくれたなあ~と思い出した。そして、戦争の時代は、りく軍病院のかんごふさんとして、秋田県に行っていたそうだ。りく軍病院とは、戦争でいろんなところへ行かされ、その戦争で傷を負ったり、病気になったりしたへいたいさんが、自分のふるさとに帰ってきて、入院、ちりょうをする病院だそうだ。

おばあちゃんの働いていた病院は、傷や病気の重さによって、うめ・まつ・さくらの三つのグループに分けられていて、約300人ぐらいの人が入院していたとのこと。ぼくは、その入院している人の数を聞いただけでも、びっくりしたが、そのひとりひとりのけがのようすを聞いて、さらにびっくりした。敵のじゅうだんが、足にあたり、足のない人。大ほうのたまで、手がとんでなくなった人。頭にじゅうだんがあたり、かんぼつしている人。目が見えなくなった人。次々と、おばあちゃんの口から、とんでもない想ぞうのつかないような話しが飛び出してきた。

おばあちゃんは、そのきずついた人達に注しゃをしたり、消どくをしたり、包たいを巻いたりと、毎日とてもいそがしく働いていたそうだ。また、おばあちゃんは、「体のきずも大変だったけど、兵たいに行った人達の心のきずは、もっと深かった。」と話してくれた。目の前で、友だちやなか間がたまにあたり、死んでいく姿や、からだごととばされていく姿を思い出すと、入院している人の中には、夜ねむれなかったり、うなされたり、イライラしたりと、とてもかわいそうだったそうだ。だから、おばあちゃんは、元気いっぱいの声と、笑顔で、入院している人達をできるかぎり、はげまし続けたそうだ。

ぼくも、おばあちゃんのように、大変な人がいたら、はげましてあげられる人になりたいと心から思った。
そして、おばあちゃんは、
「この世の中で、戦争は、もっともいけないことだよ! お兄ちゃんやせいちゃんが、いっぱい勉強をして、いっぱい友だちをつくって、戦争のない世界にしていかないとね!」
と言ってくれた。

ぼくは、おばあちゃんのはなしを聞いて、世界中に友達をつくって、‟戦争は、もっともいけないこと!!”を伝えていこうと思った。そのために、ぼくは、今ぼくができる努力、勉強や運動を一生けん命がんばろうと思う。

戦争について

古川東中学校3年 田中志歩

8月6日、なに気なくテレビを見ていたら、広島市の平和記念公園で、平和記念式典が行われた様子が映し出されていました。小さい子供からお年寄りまで、また今までの中で一番多い、35ヶ国からの外国人が「厳粛」に犠牲者の冥福を祈っていました。毎年、テレビで見る光景ではありましたが、いつもとは違い映像を見ながら、平和や原爆について考えてしまうことがありました。それは今年の国語の時間に習った「わたしが一番きれいだったとき」、「ごはん」や、英語の時間に習う「A Mother’s Lullaby」を読み、作者の心情や情景を考えると、心に残るものがあったからです。

ある71才のおばあさんが、61年前の原爆が落とされた日のことを鮮明に覚えていました。当時、10才だったことを今もなお記憶に残っているということは、よほど悲しく、つらい思いをされてきたということが分かります。その悲しい思いを背おいながらも、私達に伝えてくれていることを知りました。

また、60年が過ぎた今でも、原爆の放射線で苦しんでいる被爆者がいることも知りました。こんなに被害にあっていることが世界に知れわたっているのに、核兵器が今もなお他の国で作られていることや、核兵器が進化していること、ボタン一つで発射できることが、とても怖いように思えます。

戦争について、親や私は知りません。でも祖母に聞くと、曾祖父が戦争に行ってしまい不安だったこと、B29の戦闘機が低空飛行しているのを見たり、夜はサイレンが鳴るたびに、電球に布をかぶせて暗くし、みんなで隠れていたことなど、いろいろなことを教えてもらいました。祖母は戦争の話になると悲しそうな表情をしていました。今まで祖母とは、戦争について話をすることがありませんでしたが、この機械にいろいろと聞くことができました。子供の頃は戦闘機の音におびえ、自分達が食べる物を一生懸命に作り、苦労してきたことが分かりました。
原爆のニュースを見たり、聞いたりしているうちに、
「私に何かできることはないのだろうか…?」
と、考えてしまいました。

それで私は、戦争中を過ごした人達の話を聞いたり、ニュースやインターネットなどを通して、戦争のことを知り
「戦争によっての被害」
「原爆の恐ろしさ」
を年下の人達に伝えられることが、できるのではないだろうか…と思いました。戦争を昔の話にするのではなく、伝えていくことによって、戦争の悲劇を忘れられずに、いてもらえるのではないのだろうか…と思いました。

夏休み中も、北朝鮮によるミサイル発射やイスラエルのレバノンへの侵略などで、毎日ニュースが流れていました。イラクでも、まだ混乱が続いていて、たくさんの人達が犠牲になっています。家を失ったり、攻撃から逃げていたり、私と同じ年くらいの人がケガをしています。
私は一日でも早く、この世界に戦争やテロがなくなり、みんなが平和に暮らせる日がくることを願っています。

戦争と向き合う

鳴子中学校3年 有川みゆき

8月15日、小泉純一郎首相の靖国神社参拝。テレビや新聞はこのニュースでもちきりでした。
戦死した人を敬い、参拝するのだから別に何も悪いところはないのではないか。それなのになぜこんなに騒ぎになるのかと疑問に思いました。それで歴史に詳しいおじに聞いてみることにしました。するとこんなことがわかりました。

「靖国神社には戦死した人たちだけじゃなく、A級戦犯で死刑になった人たちも一緒にまつられている。だから首相がそこを拝むということは、A級戦犯つまり戦争を指導した人達の存在を認めている、というふうに中国や韓国はとらえている」。へぇ、と思っていると、その話を聞いていた父が日本の東南アジア進出をドラえもんに例えて、日本はジャイアンのような横暴な存在だったことを説明してくれました。納得していると、今度はその話に対して祖父がこんなことを言いました。

「日本だってやりたくて戦争をやったわけじゃない。強い国に対抗し、色々あって最後にしかたなくはじめたことなんだ。俺の世代に言わせると日本がいいことになってしまうからな。もう俺は話さないようにする」。

さらに今度は祖母まで話に加わり、
「祖父の父親も戦死して靖国神社にまつられているんだから、ばあちゃんとしては参拝してもらった方がいいと思うよ。」といいました。家族の中でもこんなに意見があるのだから、小泉首相の参拝に色々な意見がでるのも当然なのかな、と思いました。そして私は家族の話を聞いてから、報道を聞いたりした中でA級戦犯を除く、すべての戦争物故者に対して参拝するべきではないか、という考えをもちました。

日本人の私もこのように考えたのだから、中国や韓国のように戦時中日本の侵略を受けた国の人たちは、小泉首相の靖国神社参拝を快く思えないのはわかるような気がしました。
ところでこの話をしているときに、祖母が何か古びた賞状のようなものを出してきました。それは曾祖父が載った新聞と、戦死した後、国から送られてきた賞状でした。私はその新聞記事を見てとても驚きました。

「阿修羅の三勇士」
新聞には曾祖父や他の二人の名前や、ロシア兵を倒したという詳しい内容などが書いてありました。また、仏壇の写真でしか見たことがなかった曾祖父の写真も載っていました。他の人に比べて背の低い人でした。曾祖父が戦争に行ったのは知っていたけれど、実際にどういうことをしたのかは知らなかったので、私はとても驚きました。

そして戦争という言葉が胸に響くように感じたのです。そんなことがあってから、テレビやニュースなどで「戦争」という言葉を耳にすると、注意して見るようになりました。わからないことは家族に聞くことが多くなりました。

今でも世界の中では戦争が起きている地域があります。何の罪もない小さな子や、それまで幸せに暮らしていた人たちが、戦争に巻き込まれ犠牲になっている姿をテレビ等で見ると胸が痛くなります。なぜその人達は、自分の意志で戦争を始めたわけではないのに、殺されなければならないのでしょうか。自分と同じくらいのとしの子が銃などの武器を持ち、戦闘に加わっている姿など、私にはとても考えられません。

平和とは一体なんなのでしょうか。私が考える平和は戦争がなく、殺人などがなくて全ての人たちが笑顔で暮らせる世の中です。

私には戦争を止める力はありませんが、私に出来る事があるとすればこの夏、少しだけ身近に感じられた戦争というものに、さらに関心を持ちながら、戦いという手段は決してよくない、最終的手段であってもならないと訴えていける一人である事だと思います。

平和の中の本当の幸せ

三本木学校3年 湯山和佳

バーン、バーン。大きな音が村中に響き渡った。それとともに、「爆撃だー、爆撃だー。」という声も響き渡った。その当時私の祖母は8歳であった。ここは樺太。私の祖母は戦争時代に樺太に移民していた。

その日、祖母は祖母の母と姉と一緒に町に買い出しに行っていた。祖母の家は、町から遠く離れた山奥にあり爆撃もあまり当たらなかったそうだ。買い出しの帰りに、背後から爆撃の音がした。母と姉と祖母はいそいで防空壕の中に飛び込んでいった。祖母は、心の中で「無事に…無事に…」とずっと叫んでいたそうだ。

そんな思いをして、祖母は、「今の世の中は食べる物もたくさんあるし、飛行機も飛んでこない。和佳はね、平和な時代に生まれたんだからもっと今の時代を大事にしなさい。もうつらい思いをしたくないからね。」と、言っていた。

今の世の中は、祖母から見ればとても平和。私は、あの戦争時代にいたことがなく、体験もしていない。だから、祖母の話を聞き戦争とは、考えがつかないくらいにとても苦しく残酷な人間どうしの戦いなんだなぁと思った。

祖母には今でも生々しく覚えている体験があるそうだ。その日祖母は、妹と弟、祖母の祖母と四人で家で留守番をしていた。その当時は、日本は終戦していて樺太にはソ連人が多く移民していた。祖母は、ガラガラという荷車の音に気付いた。その瞬間祖母は息を殺して固まった。「ロスケだ…」。当時の人、ソ連人のことを「ロスケ」と呼んでいた。祖母の不安どおり、ソ連人が乗っている荷車が祖母の家の前で止まった。祖母は怖くなって急いで祖母の祖母のところに走っていった。

次の瞬間、土足で家の中にソ連人が入ってきて祖母たちに銃を荒く突き立てた。ソ連人は何人かいて、銃を持っていた男以外は全員祖母の家の中を荒らしていった。祖母たちに銃を向けていたソ連人はさらに大きな声をだしてあばれていたそうだ。そのとき祖母は、もう死んでしまうのかなぁと死ぬ覚悟までしていた。しかし、ソ連人は祖母たちの家の中から去っていったそうだ。そんな体験をして祖母は、戦争のテレビや殺人事件などを観るたび、「せっかく戦争が終わったのに、なんで人はまだ人を殺そうするのかな…。」と口癖のように言っている。

私は、この言葉を聞くたびに、戦争時代と戦争が終った今とでは、本当に今の世の中の方が平和なのだろうか、といつも考えてしまう。戦争時代は、人情が強くありともに助けあったりしていたと、祖母に聞いた。私が考える平和とは、人が人を思いやり、他人であても同じ人なのだから、お互いに助け合い笑って過ごすことのできる世の中が本当の幸せだと私は思う。戦争のことを子供たちに伝えることも未来の幸せに繋がると思う。

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