平和作文コンクール(平成19年度)

更新日:2021年02月26日

市では、子どもたちの平和に対する思いや考えを発表する「小・中学生平和作文コンクール」を毎年実施しています。

平和作文コンクール

小学生の部

最優秀賞

太田美希さん 長岡小学校5年 ヒロシマを訪れて

優秀賞

  • 二階堂真実さん 古川第一小学校6年 みんなで美しい空を見つめたい
  • 横田洋樹さん 古川第三小学校6年 野球のできる平和
  • 白鳥友万さん 古川第三小学校5年 原爆を知って考えたこと
  • 玉川里奈さん 長岡小学校6年 伝えたいこと

中学生の部

最優秀賞

栗生恭輔さん 古川東中学校2年 平和について考えたこと

優秀賞

須貝ひかるさん 古川東中学校1年 戦争と平和

応募数

138作品

平和作文集

ヒロシマを訪れて

長岡小学校5年 太田美希

8月4日、私は広島を訪れた。「ピースアクション・イン・ヒロシマ」に親子で参加するためである。初めて訪れた広島は、思っていたよりも暑くなく、大都会だった。テレビなどで知っている62年前のヒロシマとは、ちょっとだけ遠い場所のような感じがした。

私がヒロシマに行ってみたいと思ったのは、小学校3年生の時。「つるにのって」という本を読み、そのモデルとなった佐々木貞子さんや原爆に興味を持ったことがきっかけだった。

「原爆ドームを見てみたいな…。」

広島では、原爆ドームや平和資料館、爆心地に近かった袋町小や本川小平和資料館、折り鶴を保管している旧日銀など、いろいろなところを見て回った。実際の原爆ドームは、目をおおいたくなるようなこわれ方をしていて、私の戦争に対する考えが甘かったと思わされるようなものだった。

私が特に戦争の怖さを感じたところは、本川小平和資料館と原爆死没者追悼平和祈念館だった。
平和資料館には、焼けてボロボロになった銃や焼け溶けたガラスや瓦があって、とても驚いた。平和祈念館では、原爆を落とされた直後のヒロシマの様子が再現されていて、背すじがピンとなるような緊張感があった。

また、ここでは被爆の体験記を見ることもできた。私が見た体験記には、
「『助けて!助けて!』と助けを呼ぶ声が聞こえても、助けられなかった。」
と書いてあった。私は、助けてもらえなかった方もかわいそうだけど、助けてあげられなかったことを今でも悔やみ、自分を責めている方のことも、とても気の毒に思った。

今回、被爆した方のお話も直に聞くことができた。被爆者の瀬木さんは、
「今でも(原爆の)爆音が聞こえている。」
と話していた。背中にガラスの破片がささった兄弟の話や、父親をさがしに行った時、川に死体があふれていた話など、本当は思い出したくないだろうことを、瀬木さんは一生けん命話してくれた。

広島は大都会に復興した。でも、広島の人々は、62年前の戦争や原爆投下の悲しみや怒りを忘れてはいない。戦争や原爆で苦しんでいる人は、戦後62年の今もいる。原爆の爆風でできたケロイドのせいで差別されたり、放射能のせいで病気になった人々もたくさんいるそうだ。

私は、このようなことが二度と起きないように、戦争や原爆の怖さ、おろかさを考えていきたい。そして、私たち一人一人が今できること―いじめや差別のない学校や社会をつくろうと努力していくこと―が、平和へ近づく第一歩なのではないかと考え始めている。

みんなで美しい空を見つめたい

古川第一小学校6年 二階堂真実

私は、今、学校生活を楽しく過ごしています。上を見れば、きれいな青空が広がっています。でも、そんな時、ふと、思うことがあります。ほんの少し前までは、まだ、この国も戦争をしていたのだなぁ……と。

夏休みにおばあちゃんの家に遊びに行きました。そして、たまたまテレビを見ていると戦争の話が流れていました。おばあちゃんも戦争経験者です。私は、その時の様子を聞いてみました。おばあちゃんは、何かをほりおこすように、目に涙を浮かべながら戦争の苦しさを話してくれました。昼だろうが夜だろうがかまわず爆弾が落ちてくる……。サイレンがなると、明かりを消して声をひそめる……。明日の食べ物だってわからない……。話を聞きながら、日本にもたいへんな時代があったことをあらためて感じました。戦争を体験した人はもちろん、熱心に話を聞いた人なら戦争をすることが大きな過ちだと気づくでしょう。そして、二度と起こしてはならないことだと心にちかうでしょう。

戦争によってできた傷はすごく深いものだと思います。だって、戦争が終わってもう何十年もたつのに、おばあちゃんの心の中に忘れたくても忘れられないものとして深くきざまれているからです。一度できてしまった傷を新品みたいになおすのは無理だと思います。だけど、少しずつ、傷を埋めていくことは、可能なのではないかと私は考えます。傷をつけてしまうのも人間だけど、埋めるのも人間にしかできないことだと思います。一人では無理でも、みんなで助けあい、心をまとめていくことが大切です。そして、まだ戦争を続けている人たちに、やってもしょうがないことだと言い続けなければなりません。

「強い」ということは、力が強いということでもあるかもしれませんが、私が心から思う強さは、何かを守ること、そして、助けてあげることだと思います。みんなも私の考えと同じなら、とてもうれしいです。国を変えていくことはとてもむずかしいことなのだとおばあちゃんは話してくれました。ひとりひとりの意識が変わっていかなければならないのだなぁとつくづく思いました。

私は、今、あたりまえに学校へ行き、あたりまえに家に住み、あたりまえに友達と遊んでいます。そんな、何でもないことが一番しあわせなことなのかもしれません。私は、今日も、青く美しい空を見ています。いつか世界中の人々が、けむりや爆弾でよごされた空ではなく、私が見ている空とおんなじ空を見ることができる日が来ることを私は心から願っています。

野球のできる平和

古川第三小学校6年 横田洋樹

「あっついなー」「のどかわいたぁ」

僕は、野球の練習をしていました。30度を超えてしまうような暑さの中、真っ黒になりながら練習していました。そういえば明日は地元の高校の甲子園大会2回戦の日です。

「甲子園はもっと暑いだろうな。」

翌日、お墓まいりに行く途中の車の中で、ラジオから高校野球が流れていました。地元の投手が制球に苦しむ中、試合が一時中断されました。

「ここで一分間のもくとうになります。」

そうです、今日は終戦の日だったんです。
僕が戦争と聞いて思いつくのは、「イランイラク」「ベトナム」「第二次世界大戦」あとは「原爆」くらいです。

この間もテレビで被爆者代表のおじいさんが、自分と妹の被爆体験を話していましたが、とてもそれが現実とは思えないものでした。
僕が毎日当たり前のようにやっている野球も、戦争をしている時にはやれるわけがありません。

「そういえば沢村栄治。」

ベーブルースを三振にさせた沢村栄治も野球では勝っても、戦争のため大好きな野球をすることが出来なかったのは無念だったろうなと思います。
「戦争はどっちが勝ったとか負けたとかいうけど野球なんかとちがって、始めた時から両方負けなんだよなぁ。」
と、お父さんがいってました。

沢村選手みたいな大投手だけではなく、下手だけど野球が好きで仕方なかった人が、何かわからない戦争にまきこまれて、日本という国や、大切な人を守るために戦い、大好きな野球をすることをあきらめなければならなかったと考えると胸が痛みます。

ニュースで見る戦争は、僕たちにとっては本当に遠い国の出来事のように思われます。でもそれが、僕たちの地球の上で行なわれていることは、事実です。
今、日本は平和です。でも、地球のどこかで戦争をしている限り、地球は平和ではありません。いつか地球が平和とよべる日がくればいいと思います。日本はもちろん、地球上のどこでも戦争はしてはいけない事です。

僕たちやその子供たちや世界中のみんなが、自分の大好きなことが力いっぱい出来るような世界になればいいと思います。
とりあえず僕は今日も真っ黒になりながら、野球の練習にはげみます。

原爆を知って考えたこと

古川第三小学校5年 白鳥友万

「この辺りからは、まだ人骨が出てくるんですよ。もう、戦後62年もたつというのに。」
と、タクシーの運転手さんは、原爆資料館に向かうと中で話し始めました。お店や家なみの続いている町の中から、なぜ人骨が出てくるのか不思議に思って、運転手さんに理由を聞いてみると、ぼくたちの乗ったタクシーが走っている辺りは原爆の被害を受けた地域だと話してくれました。

爆弾が投下された中心地から半径3キロメートル付近までは特に被害も大きく、新しい建物を建設するため地面をほり起こすと原爆で命を失った人々の骨が出てくると聞いて、ぼくはその話にひどくびっくりした。(まだ、たくさんの人々が見つけてもらえず土の中でほり出してもらうのを待っているんだろうか。)原爆のむごさと悲しさで暗くなっていく自分に気付きました。

その後も、タクシーの運転手さんは、ぼく達に、原爆のことをいろいろと教えてくれました。なぜ、長崎に原爆が落とされたかということ。被害の大きさのこと。原爆が落とされたことを伝え残っている物のことなど。ぼくはおどろきながらも運転手さんの話に真けんに耳をかたむけ、頭の中で悲さんな町の様子を思いうかべていました。

資料館では運転手さんが教えてくれたことの他にもたくさんの資料が写真やもけい、実物で、展示されていました。その中で特に印象に残ったのは、人の頭の皮ふがとけ、骨に鉄粉がかかっている写真でした。顔は、そのままだが頭と耳を入れて半分の皮ふがとけていてそこにおおいかぶさるように鉄粉がかかっていました。ぼくはそれを見て、(なんてひどいんだろう、この人はすごく悲しい思いをしただろうな。)と思ってなりませんでした。そして思わず目をつぶってしまいたくなりました。

原爆のもけいを見たときには、おそろしくて立ち止まってしまいました。もし、大崎市にもこのような爆弾が落とされたら、ぼくは死んでいるにちがいないし、生きていたとしても長崎で被爆した人達のように後い症に苦しんでいるのかも知れないと思いました。どの展示物からも、焼けただれた町の中にいた、たくさんの人達のさけび声が聞こえてくるようでした。

ぼくが長崎から帰った次の日は原爆記念日でした。テレビを見ながら長崎で聞いた話や資料館で見た物を思い出しました。平和公園に集まったたくさんの人達の平和を願う気持ちが画面からぼくにも伝わってくるような気がしました。そして、テレビを見ながらぼくは、「ノーモア広島。ノーモア長崎。」という言葉を思い出しました。

今まであまり気にしない言葉でしたが、長崎の旅を通してその意味が少し分かったように思います。戦争は、多くの人の命をうばうとても悲しくムダなことだし、これからも二度と戦争で悲しい思いをする人が出てほしくないと強く思いました。

伝えたいこと

長岡小学校6年 玉川里奈

小さいころ、おばあちゃんの家の仏だんにある軍服姿の男の人の写真を見て、おばあちゃんに、
「この人だれ。」
と、聞いた事がありました。

おばあちゃんは、
「この人は、戦争で死んだ里奈のひいじいちゃんだよ」
と、教えてくれました。その時の私は、まだ幼くて、
「ふーん。そうなんだ。」
としか思いませんでした。

今年の夏も、おばあちゃんの家に遊びに行きました。でも、いつも見ている、ひいじいちゃんの写真の見方が今年は、変わりました。それは、学校で戦争について話し合う授業があり、戦争でたくさんの人が死んでいったことが分かったからです。私のひいじいちゃんも、戦争の犠牲者なんだなぁと思いました。

ひいじいちゃんが戦争に行く時、3人の子供を残し、海軍の兵士として、戦地に行ったそうです。ひいじいちゃんが戦地に行っている間に、家の近くの海岸にも、たくさんの飛行機が飛んで来て、爆弾が落とされ、大変怖い思いをしたそうです。今でも海岸には、その時落とされた爆弾の跡があるそうです。
「火の海になったようだった。」
と、話してくれました。

今年、ひいばあちゃんは、94歳になります。今でも、戦争の事を聞くと、くわしく話してくれます。ひいじいちゃんは、海の上で亡くなったそうです。

5年生の時の授業でも、沖縄での悲さんな戦争の話を聞きました。空しゅうや、攻げきだけでなく、アメリカ軍においつめられ、自ら海に飛びこんで、自決した人がいると聞きました。沖縄だけでも、20万人もの人が亡くなったそうです。

今、私の身近では、戦争は起こっていませんが、日本から遠くはなれた国では、今でも、戦争をしています。私は、それを止める事はできませんが、そう祖母に聞いた戦争の話を妹や弟に話してあげたいです。そして、将来産まれてくる、子供達にも、(絶対、戦争は、くり返さないで。)と、伝えていきたいです。

平和について考えたこと

古川東中学校2年 栗生恭輔

僕がこの作文を書くことになったきっかけは、8月15日の新聞に太平洋戦争のことが書いてあったからです。その新聞には終戦を迎えた時のことが書いてありましたが、僕は太平洋戦争自体よくわからないので、本で調べてみました。すると、太平洋戦争とは日本とアメリカが3年8ヶ月の間戦争したことだとわかりました。日本は大空襲や原爆などで大きな被害を受けましたが、戦争の恐ろしさはそれだけではありません。

兵士の戦争体験があったので、読んでみました。この兵士はビルマという戦地で戦った人ですが、そこの戦地ではマラリアや餓死で多くの人が亡くなりました。また、川を渡る途中で力尽きておぼれて死ぬ人もいたそうです。それらの人はみんな、もう一度日本の土を踏みたい、親に逢いたいと思いながら死に、その死体は鳥についばまれて悲惨な姿になったそうです。こんなに残酷なことは現在の日本では想像できません。しかし戦時中の東南アジアではどの戦地へ行ってもこのような光景があったのです。

また、硫黄島では2万人の兵が玉砕しました。爆弾をかかえて敵の戦車に体当りして自分も敵も死ぬのです。僕は映画「硫黄島からの手紙」を見たことがありますがとても悲惨なものです。最初から戦えば全員死ぬとほぼ確定しているのにただひたすら応戦したのです。負け戦で自爆しなければいけない兵の気持ちは苦痛すぎて想像できません。その兵だって自分の家に帰れば家族がいて、自分の暮らしがあるのです。人を紙くずと同じように使う戦争はあってはならないことです。戦争は誰も幸福にはしません。しかし、実際に身をもって体験しないとわからないものが戦争というものなのです。

戦争でつらい思いをしたのは海外に出征した兵だけではありません。終戦まぎわには、特攻隊と呼ばれる人たちも登場します。特攻隊とは、太平洋戦争末期に敵の軍艦を破壊するため飛行機に爆弾をつんで体当りするという作戦です。飛行機に乗った人は必ず死ぬので百死零生の攻撃とも呼ばれたそうです。この作戦にはアメリカもすごく怖がったそうですが、僕は考えただけでもすごく恐いです。神様から授かった生命を自爆という形で破壊するのは非常に悲しいことだと思います。今の世界では考えられません。

一般の民間人も空腹と空襲で大変過酷な生活を強いられていたようです。東京などの小学生は空襲がくると危険ということで疎開しましたが、苦しい生活をしていました。戦争に反対した人は非国民と言われて警察に捕まりました。広島と長崎に原爆が落とされて多くの人が死に、今も後遺症で苦しんでいる人がたくさんいます。中国でソ連(現ロシア)の人達に捕らえられてソ連に連れて行かれ、戦争が終わった後も重労働をさせられて死んだ人もいます。すべて戦争がもたらした被害です。

しかし、太平洋戦争後も各地で戦争がおきています。1950年には朝鮮戦争、1964年にはベトナム戦争、そして2003年のイラク戦争など戦争や紛争が後を断ちません。

第三次世界大戦がおこれば地球は壊れると言われています。なぜなら第三次世界大戦は原爆を使った戦争になるからです。どの国も敵に原爆を落とし合ったら大変なことになるでしょう。世界のたくさんの都市が広島や長崎のようになり、世界は破滅します。一度にたくさんの原爆を落としたりなんてしたらそれこそ大変でしょう。だから日本は世界でただ一つの被爆国として核廃絶を呼びかけなければいけないのです。原爆をこの世からなくす使命が日本にはあるのだろうと思います。

そして、戦争のない世界を作らなければいけません。さっきも言ったように、戦争は誰も幸福にはしません。人と人が殺し合いをしたって何の得にもならないと僕は思います。仮にどこかの国が戦争に勝って領地や金を手に入れたとしても、それには必ず犠牲となった人がいるはずです。一部の人だけが幸せになるのは幸福だとは思いません。みんなが幸せになって初めて幸福になるのだと思います。だって一人が幸せな思いをしてもう一人がつらい思いをするなんて不公平だと思うからです。

戦争は人の心を貧しくするだけだと思います。人は元々弱い生き物なのだから、みんなで力を合わせて生きていかなければいけないし、せっかく考えることができるんだから、戦争をして勝つことではなく、みんなが平和に暮らせることを考えてほしいです。そうすれば、戦争はなくなると思います。太平洋戦争のような悲劇を繰り返さないためにも今こそ改めて考える時だと思います。

戦争と平和

古川東中学校1年 須貝ひかる

今から62年前の8月、広島と長崎に原子爆弾が投下されました。多くの人が、自分に何が起きたのか分からないまま、もがき苦しんで死んでいきました。

原爆を投下して、戦争に勝ったアメリカは、原爆を投下したことを、正統化するような発言をしていました。原爆を使用せず、戦争を続けていたら、日本という国はなくなっていただろう。原爆を使用することで、日本は戦争をする意欲がなくなり、終戦につながったということでした。しかし、原爆が投下される前に、日本には、武器も燃料もなくなっていたということを聞いたことがあります。そうすると、アメリカはただ自分たちの作った原爆の威力をたしかめてみたかっただけではないのか、という話を聞いたこともあります。

原爆によって戦争は終わりました。しかし、原爆によって被害を受けた人たちにとっては、まだ戦争は終わっていません。後遺症に苦しみ、被爆地に行ったというだけで、差別を受けた人々がたくさんいました。これから先でも、その人たちにとってまだ戦争は終わっていないのではないでしょうか。戦争のこと、原爆のことを、多くの人に忘れて欲しくない、死ぬまで語り続けたいとがんばっている人もいます。戦争を知らない私達も、この季節になると、テレビや新聞などで、耳にします。そして、忘れてはいけないことなんだと思わされます。

日本は二度と戦争はしないと、法律に定めて以来、日本が戦争国になるということはありませんでした。これからも、永遠に続いてほしいと思います。

しかし、この地球上のどこかでは、いつでも戦争が続けられています。戦争によって、一番被害を受けるのは、弱い女性や子供たちです。つい昨日まで、家族みんなで楽しく生活していたのに、次の瞬間にはもう、自分の家族や、今まで住んでいた自分の家まで一瞬にして失ってしまうのです。そして、自分の身体に傷を負い、悲しみや苦しみを背負って生きていかなければならない子供達が、今もどこかで生まれているかもしれないのです。

戦争の下で暮らしている子供達を写した写真などをよく目にすることがありますが、みんな暗い顔をして、遠くを見ています。戦争を体験したことがある子供達が描いた絵も、自分たちの住む家を兵隊が焼きはらっている所、自分たちの家族が殺される絵、みんなつらく悲しい絵が本当に多くあります。それでもどんなに戦争の無意味さを訴えてみても、本当に戦争はなくなりません。戦争がなくなるどころか、戦争によって不幸になった子供たちが、戦争に引っぱられていき、少年兵として、戦場に立たされているのです。そして信じられないことに、子供達が自分の考えで銃を持って自分の意志から進んで、戦争に参加しようとしているのです。

私は、戦争のない平和な日本に生まれ、一度だって、命の危険を感じることなく、今まで生活してきました。しかし、世界中の子供達がみんな幸せに暮らしているわけではありません。毎日毎日、生きるために働いている子もいます。そういう子供達は生きることだけで精いっぱいです。私達は、毎日学校に行っています。私達にとっては、あたり前のようなことですが、今もどこかで、生きるために働く子供達にとっては、すごくうらやましいことなのです。本当は、幸せに暮らす子供達より、毎日生きることで精いっぱいな子供達の方が多いのではないのでしょうか。

戦争はいけないことだということは、世界中のみんなが知っていることです。しかし、戦争をすることを望む人がいる限り、戦争はなくなりません。
私は、本当の戦争の怖さを知りません。原爆のこともそうです。しかし、戦争を知っているとか知らないとかではなく、原爆を投下された国として、戦争なんかやめようと大きな声で訴えていかなければいけないと思います。

世界中の国々の人が、協力したり仲よくなれば、戦争なんてなくなると思います。私はそんな日がいつか来てくれると信じて、戦争と平和について考えていきたいと思います。

この記事に関するお問い合わせ先

政策課

〒989-6188
大崎市古川七日町1-1 市役所本庁舎3階

電話番号:0229-23-2129(政策企画担当、地方創生担当、多文化共生担当)、0229-23-2245(日本語学校推進室)
ファクス:0229-23-2427

ールフォームによるお問い合わせ