平和作文コンクール(平成21年度)

更新日:2021年02月26日

小・中学生平和作文コンクール(平成21年度)入賞者が盾を持って並んで写っている写真

市では、子どもたちの平和に対する思いや考えを発表する「小・中学生平和作文コンクール」を毎年実施しています。

平成21年度は、小・中学校から162作品の応募があり、審査の結果、最優秀賞として小学生の部では古川第四小学校6年佐々木文香さんの「平和への一歩」が、中学生の部では古川中学校3年角田萌さんの「平和について思うこと」が選ばれました。

平和作文コンクール

小学生の部

最優秀賞

佐々木文香さん 古川第四小学校6年 平和への一歩

優秀賞

  • 佐々木由衣さん 古川第一小学校5年 未来へ伝えたい
  • 佐藤樹々さん 古川第一小学校5年 人々を苦しめた戦争
  • 佐藤亜衣さん 長岡小学校6年 くり返してはいけない戦争
  • 鹿野修司さん 東大崎小学校5年 わすれてはならないこと

中学生の部

最優秀賞

角田萌さん 古川中学校3年 平和について思うこと

優秀賞

  • 一関愛海さん 古川中学校3年 平和について
  • 川嶋正太郎さん 古川西中学校1年 戦争について
  • 松本優さん 古川南中学校1年 戦争と平和を考えて
  • 鈴木絢乃さん 古川南中学校3年 戦争

応募数

162作品

平和作文集

平和への一歩

古川第四小学校6年 佐々木文香

今、ここに、私がこうしていられるのは、世の中がおだやかで戦争のない国、日本にいるからだと思います。今年で終戦64年目を迎えた日本ですが、いくつかの悲惨な戦争で悲しい涙がたくさん流されてきたからこそ私達の平和な暮らしがあるのだと思います。

私は、教科書やテレビなどから戦争とはどういう事なのかを学んできました。国のために若くして命をささげた人達、1日だけしか結婚生活を送ることのできなかった花嫁さん、父親の顔も知らずに生まれてくる子供達。私の心の中にはこんなにも悲しくて、どうしようもない思いは一つもありませんが、そういった思いを胸にかかえて生きるしかなかった人々はどんなにか戦争をにくんだ事でしょう。日本国のためと、若者達が戦争に出兵しなければならないその時の気持ちは一体どんな思いだったのでしょうか。

私の母が、私のひいおじいさんの話をしてくれました。私のひいおじいさんは、二等兵で19歳の時に国から出兵命令が出たそうです。その時の写真が今でも残っていてひいおじいさんを見送る両親の顔はとても悲しそうでした。よく見るとひいおじいさんのかたには大きなたすきがかけられていてそれには自分の名前と『おめでとう、ばんざい』と書かれてありました。ひいおじいさんは戦争の話を多く語らなかったそうです。でもこの話を母から聞いて戦争のおそろしさがよく分かりました。

ひいおじいさんは、船で北ボルネオ島という所に行かされたそうです。何日も何日もジャングルを歩き回り食べる物もなく野ねずみをつかまえて食べていたそうです。ジャングルの中で高熱が出た時は、ミミズをにて飲むと熱が下がったそうです。ひいおじいさんの部隊は日本が負けた事を知らずにボルネオ島の海の中に3日間、鉄砲を頭の上に置いて殺されるかもしれないと思いながらじっとしていたそうです。そして日本が戦争に負けた事がしばらくの間信じられなかったそうです。

ひいおじいさんは、7年前に亡くなりましたが、戦友のことをとても大切に思っていたそうです。私のひいおじいさんは、戦争でどんな事を考えどんな思いで生きて帰って来たんだろうと思うと戦争の恐怖とおじいさん達のおかげで今の平和な日本でいられることを心から感謝しなくてはならないし、この世界で起きた戦争の恐ろしさを伝えて行かなければならないと強く思いました。

二度と、くり返してはならない戦争、多くの人達が流した涙を私達は決して忘れてはならないのです。戦争によって心にも体にも傷をおってしまった人達のためにも、この世の中から戦争というおろかな争いを無くしていかなければ平和はやってこない気がします。戦争でとおとい命を亡くされた人達の分まで私達が平和という輪をつなげて行けたらと心から願います。

未来へ伝えたい

古川第一小学校5年 佐々木由衣

8月15日、私はふと、テレビのリモコンを手に取りました。スイッチを入れると、戦争をテーマにした番組が放送されていました。私は以前から日本の歴史に興味があったので、おもしろそうだなあと思って見ていました。ですが、見ているうちに、とても悲しく不安な気持ちになってきました。なぜなら、戦争をよく知っている人達が、戦争の話を涙ながらに話していたからです。そして、ある人の言葉が心につきささりました。

「戦争に正しいやり方はない。あの時、みんなが平和を望んでいた。」

それは、今、平和な時代に生きている私にとって、とてもしょうげき的な言葉だったのです。戦争の恐ろしさも悲しみも本当には分からない。だけど、戦争を知っている人にたくさん話を聞いて、いっしょに語り合えばきっとわかることができる。そう考えて、私は祖母に話を聞くことにしました。

私は祖母の家に行く間中、ずっと不安でした。戦争はつらかった、とテレビで言っている人が多かったので、もしかしたら話したくないかもしれないと思っていたのです。

しかし、祖母は日常の話をしてくれるように普通に戦争の話をしてくれました。

戦争当時、祖母は幼く、周りで何が起こっているのかよくわからなかったそうです。しかし、次々と周りの人達がいなくなっていくのがとても怖く、「いつか自分も死んでしまうのではないかという恐怖心でいっぱいだった。」 と話してくれました。私はその話を聞いて、自分がもし祖母と同じ立場で生活していたら、と思うと、とても怖くなりました。自分もそのうち死んでしまうかもしれない、という恐怖心を、当時幼かった祖母が考えていたのかと思うと、とてもかわいそうになりました。やはり、戦争は恐ろしいものだったんだと、自分のことのように感じることができました。

そしてもう一つ、祖母から戦争で亡くなった親せきの話を聞きました。話を聞いているうちに、私はその人に以前、会ったことがあるような気持ちになりました。亡くなった人達の分も一生けん命生きたい、と心から思いました。

私は戦争のことについて考えていく中で自分自身のことについても考えさせられました。今まで人を大切にするということができていたように思っていましたが、本当はできていなかったのだと。自分の感情に流されて、周りの人のことよりも自分のことを優先していました。しかし、これからは、周りの人達の気持ちをだいじにし、平和の大切さについても、考えていきたいと思います。

そして、いつか私が大人になった時に、祖母が話してくれたことや、自分が感じた平和の大切さを、未来にも伝えていきたいと思います。

人々を苦しめた戦争

古川第一小学校5年 佐藤樹々

「戦争とは、いったい何のためにあるのかなあ。」とわたしは、思います。

「人々を苦しめて、にくしみ合って、何がよいのか。」とも思います。

ある時、お父さんが、おじいちゃんとおばあちゃんから聞いた話をしてくれました。

「60年以上前の戦争で、ひいおじいちゃんの兄弟が何人も亡くなったんだよ。」

ひいおじいちゃんは、わたしが1歳のときに亡くなってしまいました。だから、どんな人だったのか分かりませんが、とても元気で面白かったそうです。そんなひいおじいちゃんが戦争で兄弟を失った人とは結び付きません。きっとひいおじいちゃんは、兄弟をうばった戦争の悲しさを忘れたくて、思い出したくなくて、逆に、面白く元気にふるまっていたのかもしれません。

また、おばあちゃんは、空からふってくる鉄ぽうの玉をよけながら、みんなで手をつないで逃げたことがあるそうです。

「あとほんの少し横を通っていたならば、お父さんや樹々は、この世にいないんだよ。」と話してくれました。これらの話を聞いているだけでも、とてもこわく、悲しい気持ちになってしまうのに、実際に、その時を生き、戦争を体験したおじいちゃんやおばあちゃん、ひいおじいちゃんは、こわかっただろうなと思います。いつ死んでしまってもおかしくない世界が、とってもこわかっただろうなと思います。そう思うと、とても悲しい気持ちになりました。自分が、そんな時代にいたならばと思うと、こわくてたまりません。自分は、今の時代に生まれて、とても幸せだなと思います。もしも、戦争がなかったならば、おじいちゃんやおばあちゃん、ひいおじいちゃん、同じ時代に生きた人が、どれだけ幸せだったのだろうかと思います。

しかし、今、戦争している国があります。そこに住む人たちは、きっとおじいちゃんたちが、味わったこわさや悲しさを感じているはずです。だから、世界が、平和で平等で幸せでありますようにと、いつも願っています。

わたしは、この願いをかなえるために、将来は、ユニセフで働きたいと考えています。そして、苦しい生活やつらい思いをしている人を助けてあげたいと思っています。

戦争は、他の国をうらんで攻げきし、相手の国は、攻げきしてきた国をうらんで反げきし、そのことによって、よけいにうらみが強くなってしまうという悪じゅんかんです。そのことを、戦争をしている国々に伝えたいのです。そうして、わたしがおばあちゃんになっているころには、すべての戦争がなくなり、世界中がとても幸せな世界になっていることを願っています。

くり返してはいけない戦争

長岡小学校6年 佐藤亜衣

「おめでとうございます。」赤紙配達人はこう言って召集令状を、戦争に行く若者達にわたします。私はなぜ、おめでとうなのだろうと、不思議に思いました。

私は、戦争に行く人達はきっと、もう二度と帰れないかもしれないという不安と怖さで、いっぱいなんだろうと思っていました。ところが、当時の人達は、(戦争に行けるなんて、とても名誉なことじゃないか。絶対負ける訳がない。)と思っていたことを、戦争について調べるうちに分かりました。でも、きっと心のおくでは、不安や怖さがあったんだろうと思います。

戦争についての映画やテレビを見て、悲惨な状態になった死体が、そこらじゅうにごろごろと転がっていたり、原爆によって道に影が焼きついていたり、人々のうめき声、わめき声が聞こえてきたりという場面があると、あんなにすさまじく恐ろしいことが現実にあったなんて本当に信じられないことだと思いました。また、今、この時代に生まれて、毎日学校に行けて、けがや病気をすればすぐ治りょうしてもらえ、あたり前のようにご飯を食べられるということが、なんて幸せなんだろうと感じました。そして、こういう幸せを当時の人達は望んでいたんじゃないかと思うと心が締め付けられました。

実際に戦争を体験した人達の高齢化が進み、どんどん戦争についての生の声が聞けなくなってきている今こそ、私達はもっと積極的にそのような話が聞ける場をつくっていかなければならないと思います。そして、今度は私達が未来の人達に戦争の恐ろしさや、今の自分達がどれだけ幸せなのかということを伝えていかなければならないんだと、強く思いました。

わすれてはならないこと

東大崎小学校5年 鹿野修司

このまえ、ぼくは終戦記念日にニュースを見て戦争とは、とてもひさんであり、悲しみしか生まれないものなのだなと、思いました。

ぼくのおじいちゃんと、おばあちゃんは、実際に戦争を見たことがあるので、話を聞いてみると、アメリカの飛行機が雨のように、たくさんのばくだんを落としていったそうです。それによって、たくさんの人がなくなり、大けがをしたり、家や学校や工場など、人々が大切にしていた所が見るもむざんに焼きつくされたそうです。

戦争中は、ばくだんがたくさん落されやすい所に住んでいる子どもは家族の元をはなれて、学校の仲間といっしょにばくだんが落されることがかなり少ない田舎に、ひなんする子どもも、少なくはなかったそうです。ぼくは、このようなかこくな条件に立たされている子どもがいたということを知って、とてもかわいそうに思いました。

戦争はもう終わりましたが、そのつめあとはまだいろいろな所に残っています。その一つが日本でも見つかる不発だんです。工事現場でときどき土の中から、見つけられることがあります。飛行機が落したばくだんが、何十年もの間うまっていて、いつばくはつするのかわからない、すごくきけんなものなので発見すると、とても大さわぎになってしまいます。

二つ目は、日本にうめられていませんが、じらいというとてもきけんせいの高いばくだんが、今でもたくさん外国の土の中にうまっていて、あやまってふんでしまうと、足や最悪のばあい命を失ってしまう人もいます。しかもじらいは、まだたくさん外国にうまっていると、ニュースで聞きました。

そのほかにも、たくさんのばくだんや、へいきが世界中にあるらしいですが、いろいろな国のえん助を受けてばくだんなどを、取りのぞく作業がすすめられ、数が減ってきています。

ぼくは、平和とは、みんなが仲よく争いがなくなることだと思いました。

戦争はとてもひさんなものだけど、同じあやまちをくりかえさないためにも、ぜったいにわすれてはならないと思いました。

平和について思うこと

古川中学校3年 角田萌

毎年、8月になると、テレビや新聞が64年前の日本の悲劇を取り上げ、特集を組んで報道する。大好きな映画番組なども、戦争のテーマ一色になり、残酷で悲惨な画面が嫌でも目に飛び込んで来る。アニメだからと喜んで、「火垂るの墓」に、「はだしのゲン」を小学校の頃、テレビの前に座り真剣に観て気分が悪くなったことがある。先日は、「戦場のピアニスト」という映画が放送されていた。ショパンのうっとりするようなピアノ曲で始める映画だが、2、3分もしないうちにきれいなピアノの音色は砲声に変わり、優雅な演奏をしていたピアニストは砲弾で崩れかける建物の中を逃げ回る…という画面に一転する。私はこの衝撃的なシーンが苦手で、2年前観た時は5分程で断念した。また、この映画同様に気になりながらも、どうしても読めない1冊の本があった。わずか15才でこの世を去った悲劇の少女「アンネ」の本だ。彼女の名前はあまりにも有名で、どんな生涯だったか大筋知っていた。2年間もの間、屋根裏で地獄のような生活を強いられたあげく、捕われの身となって収容所に送られ、そこで2度と自由を手にすることなく、15才と9ヶ月でその短い生涯を閉じた…という一人の少女が書き記した日記だ。

私は、今14才。アンネが屋根裏で地獄の生活を送っていた年齢だ。同じ年代に、激動の時代を悲しい運命を背負って生きた…と思うと、彼女のことは、今、全て知っておかなければ…と、ハラハラしながらも、その生い立ちを一部始終読むことにした。

読み終えた時、アンネの無念さを思うと本当に悔しくてならなかった。戦争が憎いと思った。迫害なんて許せないと思った。腹立たしくてならなかったが、ふと自分の置かれた境遇を思った。

毎朝静かな朝が訪れ、食卓には食べ物が並び、明るい太陽の下、青い空を見上げながら学校に通える。学校では友達とおしゃべりをして、放課後は大好きなサックスを思いきり吹ける。そして、毎日、大好きな人たちが笑っている…。これがアンネと同じ年を生きる、今の私の境遇だ。なんて幸せなことだろうと思う。私のまわりには、幸せがありふれていると思った。銃声や砲声に怯えたこともないし、食べ物が無くて困ったこともない。毎日、好きなことをして、何の心配もなく安らかに眠りにつける。本の内容と比較しているだけに、一方はまるで小説のような錯覚を抱いてしまう。しかし、戦争とはそうではないと言うことを存分に思い知らされた気がした。

実際に、親せきにも戦争体験のある叔父がいて、話を聞いたことがある。60年経った今でも悲惨な記憶は鮮明で「思い出したくない」と目をうるませ、語っていた。中でも食べ物に困り、水たまりのカエルの卵をすくって煮て食べた話や、雑草はもちろん飢えをしのぐため、ヒバと言う、匂いをかぐだけでも精一杯の臭いイガイガした木の枝を、ガムのようにかみ続けた…という話が忘れられない。この話を聞いた時、遠い昔の消えかかりそうな悲惨な事実が自分のことのように思えたのを覚えている。

しかし、この叔父も88才。最近はだいぶ体も弱り、家の中だけで生活するようになって来た。叔父以外の戦争体験者たちも同じように高齢となり、どんどん少なくなっていると思うと危機感めいたものを感じる。私のように、悲惨な事実から目を背く者ばかりの世の中になったらどうなるかと…。

アンネの本の一部に、「過去に目を閉ざす者は、現在にも盲目となる。」とあった。私のことだと思った。事実、先日パレスチナのガザ地区の現在を取材したニュースを、「見たくない」とチャンネルを換えたし、毎年放送される終戦記念日の式典も他人事のように見ていた。

この夏、嫌いだった戦争の映画を見て、気が重くて読めなかったアンネの本を読んで目がさめたように思う。
「戦争を起こすのは、たしかに人間。しかし、戦争を許さない努力ができるのも人間」。 これは、沖縄の平和祈念資料館の「アピール」だが、私は、これからどんな事にも目を背けることなく、他人事に思うことなく、この「努力」を忘れずに生きていこうと思う。

平和について

古川中学校3年 一関愛海

そもそも、平和とは何なのか。と考えたときに、私は三つの視点からの平和があると思いました。世界にとっての平和と、自分にとっての平和、あと一つは人間以外の生きものにとっての平和です。いずれにしても今の世界や日本は「平和」とは言い切れません。

私は世界にとっての平和とは何かをまず初めに考えてみようと思いました。「世界」や「平和」という言葉を聞いて思い浮かぶのは戦争です。戦争のことや、当時の様子は、社会の歴史の授業やテレビなどで見て、学びました。一番よく知っているのが太平洋戦争。都市への空襲や原子爆弾によるあまりにも悲惨で生々しい映像や写真を目にしたとき、私は心が痛みました。なぜ人間はここまでして戦争をしていたのかと強く思いました。その映像は時にリアルに悲惨さを語ってくることがあります。人によっては、見ていられないという人もいると思います。私は目をそらさないべきだと思います。当時のことや様子を知っておかなければ、戦争のない平和な世界や日本をつくろうと思えません。二度と繰り返すまいと思うことが大切です。私はその悲惨な映像から目をそらせば平和をつくることから目をそらすのと同じことだと思いました。世界でも戦争はおこっていました。今でも国の中での紛争がおきている地域もあります。ヨーロッパの国では私と同じくらいの年の子どもが働いています。子どもがなぜ働かなければならないのだろうと思いました。幼い赤ちゃんなどは飢えて死んでしまうという貧しい国もあります。日本はこのような国と比べると豊かな国です。そんな国に住んでいるのだから、私たちは世界の戦争のことをよく知り、自分たちは何をすべきかを考えるべきだと思います。

自分にとっての平和とは何でしょうか。身近なことで考えてみました。それは、自分や自分の家族、友達がいつも笑って幸せに生きることのできる日常だと思います。私は笑うことが好きです。つらい事や嫌な事があっても笑えば元気になるからです。なので友達が落ち込んでいるときにも、笑って励ましてあげたいです。しかしこれだけでは平和とは言い切れません。なぜなら私たちの日常にはいつも悪質な犯罪などによる危険があるからです。テレビのニュースを見ていても、いじめや人が人を殺してしまう事件など悪いニュースが良いュースより遥かに多いと感じます。中でも「いじめ」は私の身近でもっとも起こりやすいことです。今の私の身近では、いじめは起きていないと思いますが、もしかしたら知らないところでいじめが発生しているかもしれません。実際、いじめられ自殺をしてしまったというニュースを見ていると、自殺してからいじめに初めて気付くというケースも見受けられます。いじめを防ぐために、見かけたら注意しよう。とよく言われますが、それでは遅いのではないでしょうか。いじめの発展を防ぐのであれば、まず「発見したら」ではなくて、「発見する」ことに重点を置かなくてはいけないと思います。

そして、人間以外の生きものにとっての平和。つまり動物にとっての平和です。今、誰もが知っている「地球温暖化」。科学者や研究者は必死にこれを防ごうといろいろな研究をしています。地球温暖化により困るのは地球上に住むすべての生き物です。このような結果を招いたのは、人間だと知ったときに私は大変驚いたと同時にショックでなりませんでした。私たちの何気ない行動で、地球の温暖化は刻々と進んでいるのです。どうして何気なく生活しているだけなのに……と考えたところ、人間の生活の便利さが関係していると思いました。生活が便利になっている事と、地球温暖化の進境をグラフで表したとすると、同じ右上がりのグラフになります。私たちの生活が便利になると温暖化の原因となる二酸化炭素はどんどん増えていきます。なので「ストップ!温暖化」というよりは、「ストップ!便利な生活」のほうが私は良いと思います。私たち人間は、動物たちや地球のために少し反省しなければなりません。

この三つの視点からの平和で、今の世界・日本を十分に平和と言えるために私は何ができるのか、最後に考えてみようと思います。世界で平和が起きるには、一人だけではできません。しかしこの一人一人の意識が大事だと思いました。困っている人々のために例えば募金活動など小さな事から始めたいです。自分や、周りで平和が起こるために、私はまず色んなルールを守りたいです。そして正しい事を行って、楽しく学校生活を送りたいです。それだけで何かは変わると思います。そして地球温暖化の進行を止めるために、例えばエコバックを使用したり、ゴミを分別したり、これもできる事から始めていきたいです。一人一人の意識で世界は平和になるでしょう。

戦争について

古川西中学校1年 川嶋正太郎

テレビのニュースでときどき、イラクやアフガニスタンのテロの様子を放送しています。なんの関係もない人たちもまきぞえになってたくさんの人たちが、けがをしたり、死んだりしています。子どもたちは、安心して学校へさえ行けません。テロで家族をなくしてしまった子どもたちもたくさんいます。戦争の理由は、宗教上の考え方の違いだそうです。どうしてこんな無駄な戦争がいつまでも続いているのか、ぼくにはわかりません。どんなに科学技術が進歩しても、一番大切な命が守られていないので意味がないと思います。

日本でも、60年以上前には、戦争をしていました。ぼくから考えると、ずっと昔のような気がしますが、祖父や祖母は戦争を体験しているのです。話を聞いてみると、祖母は女学校のときに、神奈川県の、横須賀に連れていかれて、工場で武器を作らされていたそうです。その頃は、日本中すべてが戦争一色だったので、武器を作る事が、日本に役立つ事だと思って、ぼくの祖母やその仲間たちもがんばって作っていたそうです。しかし、今のぼくから見ると、人殺しの手伝いをしていたのと、変わらないと思ってしまいます。でも、当時の人々は、それが正しい事だと教育されていたので、そういうところからも、戦争はおそろしいと思います。

また、戦争中は自分の考えを自由に、発言する事もできませんでした。だから、当時にも、戦争はまちがっていると思っていた人もいましたが、その事を、言葉にすることは、できませんでした。もし言葉にしてしまうと、警察に捕まって、ひどいごうもんを受けたり、ころされたりした人も、いたそうです。思ったことも自由に言えない社会なんて、おしゃべりなぼくには、とてもたえきれないと思います。今は、言論の自由があるので、どんな人でも世の中をよくするために、思った事は、何でも発言した方がいいと思います。

戦争をなくすためには、アメリカ等のように武力で解決しようとすると、それだけで、多くの犠牲者が出てしまいます。そうするとやられた人たちがこんどは報復して、いつまでも悪循環です。だから武力で解決するのではなくて、争うには、争うだけの理由があると思うので、ちゃんと自分の言い分は自分の口で言うべきです。無駄な犠牲を出さないためにも、ちゃんと国や民族どうしで、十分に話し合いを重ねる方がいいと思います。

とにかく戦争はぜったいよくない事です。宇宙飛行士の人が言っていた話ですが、空から地球を見ると、国境はないそうです。これは当たり前の事かもしれませんが、とても大切な事だと思います。国境は人間の頭の中で作られた物なのです。言葉がちがっても、肌の色がちがっても、信じる宗教がちがっても、元々の祖先は同じなのです。だからぜったい理解しあえるはずなのです。

それに地球は戦争をしている場合ではない状況のはずです。地球温暖化の事、食料不足や貧富の差、色々な問題が山づみです。各国で、軍事費に、ばくだいなお金を使うくらいなら、もっと有効な役に立つ使い方があると思います。地球温暖化を止めるための開発とか、学校に行けない子どもたちに教育を与えるとか、色んな事ができるのに、と思います。

オバマ大統領は核をなくすとも宣言しました。広島や長崎の被爆の話を読んだり聞いたりして、その大変さを知っています。そんなおそろしい事が、二度と起きないよう、核を絶対なくしてほしいです。

最後に、ぼくたちに出来ることは、世界の出来事にいっぱい興味を持って、いろいろ知る事から始める事だと思います。無関心が一番よくないと思います。なるべく、テレビのニュースを見たり新聞を読んで、政治の事も理解できる大人になりたいと思います。そして、戦争のない、平和な世界を作る一人になっていきたいと思います。

戦争と平和を考えて

古川南中学校1年 松本優

2009年8月15日。日本は、64回目の終戦記念日をむかえました。そして、6日、9日には人類初の原子爆弾を投下された広島、長崎で慰霊祭が行われ、人々は被爆者へと黙祷をささげていました。

そんな中、私は新聞にのっていたある記事を読みました。それは、当時「特攻隊」として戦地に立った矢ノ目さんの記事でした。特攻隊とは、爆弾を積んだ戦闘機で敵戦艦に体当たりして攻撃するというもので、矢ノ目さんは16才という若さで特攻隊員になったのだそうです。特攻隊のほとんどは20才未満の若者ばかりだったそうで、戦死者はおよそ4,500人。そのうちの約4,000人は、途中で待ち構えていた敵に撃墜されたのだと言います。

私は、この記事をここまで読んで、自分が撃墜されると知っていながら、なぜこの人達は飛び立っていったのだろうと、どうせ攻撃にならないのに、意味のないことではないのだろうかと思っていました。でも、矢ノ目さんは「特攻隊員達は、日本が新しい国に生まれ変わることを信じ、そこで暮らす愛する家族のために命をささげた。」と、記事の中で話していました。出撃する隊員の名前は前日夕に黒板に書かれたそうです。矢ノ目さんの名前は記されることはなかったのですが、95人もの仲間を見送ったと言います。

出撃する人、見送る人、それぞれの瞬間に何を思ったのでしょう。特攻隊になった時てんでもう家族とあうことはないのだろうという覚悟を決めていたけれど、最後にはふるさとを思い、涙を流しながら飛び立っていったのでしょうか。死ぬとわかっている人を悲しく、悔しいような気持ちで見送ったのでしょうか。それを考えると、絶対に意味のないことなんかじゃなかったんだ?と、改めて思い直しました。

戦争の悲しい記憶や爪あとは日本各地に存在しますが、その中で私が実際に見てきたのが沖縄県にある"ひめゆりの塔"です。沖縄戦で戦没した「ひめゆり学徒隊」とそのほかの犠牲者を祭った慰霊塔です。私は、学徒隊の人達が必死で逃げてきて、最後にはガス弾を投下されて亡くなったという大きな洞穴を見学してきました。深く、真っ暗なその穴はひめゆり学徒隊の悲しみと戦争の恐ろしさを物語っているかのようでした。

戦争とは、悲しくてあさましいものです。

では、平和とはどういうものなのでしょう。日本は、戦後、激的な進歩を遂げました。自動車やコンピューターなどたくさんの便利な道具が発明され、食べ物も豊かになりました。また、あの恐ろしい戦争をしたアメリカをはじめとするたくさんの国々とも同盟を結び、日本は完全に平和になったかと思われました。

でも、私はそうではないと思います。

最近、犯罪や殺人などがひんぱんに起こっています。争いごと=戦争という風に思いがちですが、感情にまかせて人を傷つけたり殺したりするのも立派な"争いごと"だと思います。罪のない人にまで被害を加える無差別な事件が起きることも少なくありません。

こんな犯罪のニュースが絶えない毎日ですが、私達中学生に全く関係のないわけではありません。万引きがその一つです。「殺人とかの凶悪な犯罪が多発しているっていうのに…万引きなんて…」と思うかもしれませんが、万引きだって窃盗罪という罪になります。「本当の平和」につなげるには私達一人一人の行いも大切なのではないかと思います。
私の考える「平和」というものは、食べ物や、くらしが豊かになるだけでなく、人間一人一人の「心の豊かさ」も大切ではないかと思います。みんなが優しくて、想いやりのある広い心を持てるようになった時が本当に平和になったと言えるのだと思います。

今、日本はとても平和だとは言えません。そして、世界も完全に平和になったわけではありません。今も内戦などで苦しんでいる人々がたくさんいます。核やミサイルを開発している国もあります。私達は次の世代に戦争の恐ろしさをしっかりと語り継がなければいけません。そして、いつの日か本当の平和を築きあげたいと思います。

戦争

古川南中学校3年 鈴木絢乃

「臨時召集令状の赤紙は、現在のはがきより紙質が悪く、薄くて軽い。だが、この赤紙を役場の人が『おめでとうございます』と届けにくると、ものすごく重い物になるのである」

私は、この文章に衝撃を受けた。赤紙を受けとった人の悲しみが、終戦から64年がたった今でも伝わってくる気がした。

久しぶりに新聞を読んでいると、投書のコーナーに目がとまった。そこでは、「戦争って」と題したテーマ特集が組まれていた。よく読んでいくと、戦争を経験した方から投稿されたものが多く、当時の生活の苦しさや戦争の悲惨さなどが書かれていた。戦争を知らない世代の人からも、家族から話しを聞いたり、戦争についての本や遺留品、施設を見たりして考えたこと、感じたことをつづった文章が投稿されていた。

自分が知っていた「戦争」と、経験によって文章化された「戦争」は、あまりにも違いが大きすぎた。私は今まで、第二次世界大戦は東京や広島、長崎、沖縄と遠い外国との戦いで、今ではずっと昔のはなしだと思いこんでいた。東京大空襲や沖縄戦、原子爆弾の投下など、大まかなことしか知らなかったし、それ以上調べようとしなかったからかもしれない。しかし、投書を何日分か読んでいくと、仙台も空襲によって焼け野原と化し、疎開していた人々は、帰るところがなくなった深い孤独感と恐怖に堪えなければならなかったという。初め知った時はすごくショックを受けた。自分が今立っている場所は、昔、焼夷弾が投下されて火の海になっていたのかもしれない…。そう考えると寒気がした。

当時の学校も、今とは全く違うことに驚いた。国民学校に入学した時、国語の教科書には「ススメススメ、ヘイタイ、ススメ」といった文が書かれており、教育勅語や歴代天皇の名前を暗唱しなければならなかったそうだ。戦局が激しくなってくると、校庭で竹やりの訓練をしたり、まきの運搬などをさせられ、終戦後には中学生が、模擬弾や実弾の片付けを手伝わされたらしい。そんなに危険なものを、なぜ中学生に扱わせたのか不思議でならない。いかに戦争中心の生活を強いられていたのかが分かると、普通に授業を受け、正しい知識を与えられていることに感謝しないとな…と思った。

昼夜を問わず鳴り響く空襲警報、庭にはたこつぼのようにぱっくりと口を開けた防空壕、大都市は一瞬で灰になり、いつくるか分からない空襲と赤紙におびえ、食料不足による栄養失調と飢餓に苦しむ日々。日本はゼッタイに勝てると信じ、誤った知識を植えつけられ、苦しい生活に耐え続けた人々は、ラジオから敗戦を伝える天皇の御声を聞いた時、何を考え、感じていたのだろう…。安全で快適な生活があたりまえになった今では、そんな時代があったなんて考えたくもない。でも、これは実際にあったこととして、素直に受けとめなければいけない。日本は戦争をしていたんだ、と。

そう考えると、今、私達が「普通」に生活できるのは、すごくありがたいことなんだと身にしみてくる。それは、日本が「日本国憲法」の中の平和主義や「非核三原則」に守られているからであり、戦後も希望を捨てず、我が国の発展の歴史を築きあげた多くの人々のお陰でもある。戦争によって国内外に多くの犠牲者を出し、核兵器による洗礼を二度も受けた日本は、平和の大切さやありがたみをよく理解しているし、それを堂々と世界の国々に示すことができる数少ない国の一つだと思う。又、世界でも唯一、核兵器を使われた国として、その恐ろしさを多くの人に伝え、核のない世界を実現するために努力しなければならない。戦争から得た負の遺産は、犠牲になった人々のためにも、今後は全人類共通の教訓として生かしていかなければいけないと思うから…。

戦争によって受けた傷跡は、時代と共にうすれていった。慌れた土地は耕され、焼けた街にはどんどん建物が増えるにつれて、その傷は一見癒えたようにも見えるだろう。しかし、戦争を経験した人やその遺族が受けた心の傷は、おそらく癒えることはない。そんな悲惨な過去が風化して忘れ去られるのを防ぐためにも、私達は戦争についてもっとたくさんのことを知り、それを後世に伝えていく責任があるのだと思う。人類が同じ過ちをくり返し、滅亡という名の坂道を転げ落ちるその前に。

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