平和作文コンクール(平成22年度)

更新日:2021年02月26日

小・中学生平和作文コンクール(平成22年度)入賞者が盾を持って並んで写っている写真

市では、子どもたちの平和に対する思いや考えを発表する「小・中学生平和作文コンクール」を毎年実施しています。

平成22年度は小・中学校から82作品の応募がありました。審査の結果、最優秀賞として小学生の部では池月小学校6年大沼逸美さんの「平和な時代に生まれなかったら」が、中学生の部では古川南中学校1年高橋亮介さんの「平和について思うこと」が選ばれました。入賞作品を紹介します。

平和作文コンクール

小学生の部

最優秀賞

大沼逸美さん 池月小学校6年 平和な時代に生まれなかったら

優秀賞

  • 高橋沙耶さん 古川第一小学校6年 今、平和?
  • 大谷一輝さん 古川第二小学校6年 平和への挑戦状
  • 藤木祐衣さん 古川第四小学校5年 私のしらない心のいたみ
  • 佐々木春菜さん 古川第五小学校6年 本当の幸せ

中学生の部

最優秀賞


高橋亮介さん 古川南中学校1年 平和について思うこと

優秀賞

  • 伊藤英樹さん 古川西中学校3年 平和
  • 佐々木千夏さん 古川南中学校3年 祖母の話から考えたこと

応募数

82作品

平和作文集

平和な時代に生まれなかったら

池月小学校6年 大沼逸美

ぼくが生まれた年は、平成11年です。戦争は、もうずっと昔に終わっています。でも、もし戦争の時代に生まれていたら、どうなっていたでしょう。

学校で、原子爆弾の事を知りました。ぼくが住んでいる宮城県には落とされなかったけれど、広島県と長崎県に落とされて、たくさんの人が亡くなったそうです。建物が跡形もなく消えた街の写真も見ました。戦争から60年以上もたった今では、街は昔以上にきれいになりましたが、そこに暮らす人の中には、まだ原爆症で苦しんでいる人がいるのだそうです。とても悲しい出来事です。

この戦争の時代の話を、おばあちゃんに聞きました。戦争の時代には、女の人は畑で食料を作り、男の人は18才くらいになると、兵隊さんになって戦場に向かったのだそうです。自分から進んで兵隊さんになろうと思わなくても、国から「赤紙」というはがきがくると、強制的に兵隊さんにならなくてはなりませんでした。もし、「嫌だ。」と答えてしまうと、非国民と呼ばれ、ひどい扱いを受けたそうです。

「兵隊さんも、苦しくて、悲しい思いをした。」と、おばあちゃんは言っていました。ぼくはたとえ非国民と呼ばれても、「戦争に行かなくて良かった。」とほっとした家族もいたのだろうと思いました。

戦争が終わるころには、原爆が落ちたり、沖縄にアメリカ軍が上陸して激しい戦とうが続いたりしたそうです。「敵につかまるくらいなら…。」と、自害した人もいたそうです。沖縄県は、戦争が終わった後も、何十年もアメリカの支配を受けました。今でもアメリカ軍の基地があるそうです。沖縄県の戦争はまだ終わっていないように、ぼくは思います。

おばあちゃんに聞いた話の中で、ぼくが1番驚いたのは、特攻隊の話でした。特攻隊とは、敵に体当たりする飛行機の部隊のことです。片道分しか燃料を積まないので、死ぬつもりで出発しなければなりません。20才前後の若い人が、飛行機に乗りこむことも多かったようです。

もっとやりたいことや、もっと楽しいことが、先にはあったはずなのに、何もできないまま死んでしまうのです。悲しく、戦争の悲さんさがこんなところからも想像できます。ぼくなら絶対に嫌だと思いました。戦争の時代には生まれたくないとも思いました。

しかし、おばあちゃんに聞いたような時代があり、乗り越えて、今の平和な時代があることも感じます。この時代に生まれてよかったと、今のくらしに感謝します。家族がいて、おいしくご飯を食べ、夢に向かって進めるということは、幸せなことです。

世界にはまだ兵器がたくさんあるそうです。世界中の平和を願うなら、兵器を捨て、争いをやめてほしいと思います。ぼくは兄弟げんかをしてしまうけれど、相手を傷つけ、ダメージを負わせるようなことはしません。それはお互いの心の底に、相手を思いやる気持ちがあるからだと思います。世界の本当の平和のために、みんなで考えたいことの一つだと思いました。

今、平和?

古川第一小学校6年 高橋沙耶

今、世界は平和なのだろうか。人々は幸せに暮らしているのだろうか。

今、日本は平和だ。他の国と比べると、とても幸せだ。寒いときには温かい服を着たり、何より、食べ物がたくさんある。それを人々は、好き嫌いをして残す。きれいな水でご飯がたけるだけで幸せなのに、残しているのだ。食べるものが少ない国の人が見たらどう思うだろう。

戦争が絶えないカンボジアでは、内戦時代が20世紀後半から続いている。同じ国民同士が、敵と味方に分かれ戦争をしている。戦争が始まる前まで、協力し合っていたかもしれないのに。国民の間に大きなみぞができてしまった。

カンボジアだけでなく、他の国でも戦争は起きている。銃を手にして戦わなければならない子供たちもいる。わたしたちとほとんど変わらない年齢の子供たちが銃を手にして戦っているのである。おどろきというより信じられない。もし、自分が銃を持って戦わなければならないことを考えると、こわくてこわくてたまらない。しかし、やりたくなくてもやらなければならないのだ。何と恐ろしいことだろう。

なぜ、戦争は起きるのだろう。なぜ「戦争」という言葉があるのだろう。わたしは、この言葉がなければよいのに…と思った。しかし、戦争がないからといって平和と言えるのだろうか。食べ物がなければが死する。服を着ていなければ不衛生だ。戦争がなくなったとしても、決してみんなが幸せ、平和になるわけではない。

戦争から兵隊が帰ってくるのは、奇跡だ。戦場で命を落として帰ってこれない人々がたくさんいる。帰ってきた人たちでも片足、片手が切断されたり、けがをしている人たちがたくさんいる。それでもその人たちは、希望を失わずに生きている。でも、各国で自ら命を絶とうとしている人たちもいる。そんなに命がいらないなら、心臓病や重い病気で生きられない人たちに譲ればいいのにと思う。人は精一杯生きてこそ、最高の人生と言えるのではないだろうか。

カンボジアでは、あちらこちらにまだ地雷という爆発物が土の中に埋められている。それを知らずに踏んでしまうと大けがをしてしまったり死んでしまうことさえもある。それを取ってくれるのが「地雷撤去チーム」だ。自分が死ぬかもしれないのに、子供たち、そこに住む人たちのために撤去してくれている。

このように、世界各国で未だに戦争が行われたり、戦争の影響が残ったりしているところがある。小学6年生のわたしに今できることは少ないけれども、募金に協力し、今生きていることを大切にしていきたい。世界中から戦争が無くなり、人々が幸せに暮らせることを願いながら、精一杯生きていきたい。

平和への挑戦状

古川第二小学校6年 大谷一輝

今、世界は平和なのでしょうか。

日本はどうなのでしょう。

日本は、これまで65年間は戦争がなく、平和と言えるでしょう。

しかし、1941年に太平洋戦争が起こり、広島、長崎には原爆が落とされ、たくさんの人が命を落とし、悲しみに包まれていました。

その後、もうこのような過ちをおかさないように、広島では毎年8月6日に、長崎では8月9日に、平和記念式典が行われるようになりました。

では、他の国々はどうなのでしょう。

アメリカ、ロシア、中国は現在核を保有しています。しかし、アメリカのオバマ大統領の発言で、アメリカとロシアとの間でモスクワ条約が調印されました。その時のオバマ大統領の発言とは、

「米国は、核兵器国として、そして、核兵器を使ったことがある唯一の核兵器国として、行動する道義的責任がある。」

「まず、米国は、核兵器のない世界を目指して具体的な方策をとる。」

という内容でした。

このように日本だけではなく、戦争をなくすための取り組みが行われています。

また、今年の広島平和記念式典には、国連事務総長やアメリカの駐日大使などが出席するという、新たな一歩が踏み出されました。

しかし、世界を見てみると、内戦もあり、世界全体が平和という状態ではないように思います。

僕たちの住んでいる地球には、言葉も宗教も考え方も違う人間がたくさん住んでいることを知りました。そのみんなが相手の気持ちや考えを理解し、仲良くなることが平和へとつながるのだと思います。同じ日本人同士でも考え方や感じ方が違い、トラブルもよく起こります。ですから、違う国に住んでいる人のことを理解することはとても難しいことなのかもしれません。しかし、その努力を怠ってはいけないと思います。

では、僕たちにどんなことができるのでしょう。

それは、いつも自分を見直すことではないでしょうか。

具体的に、戦争を起こすのは自分の心なので、心の使い方をいつも、いつも見直す必要があるのです。

だから、「口は人をはげましたり、ほめたりするのに使う。耳は人の話を最後まで聞くのに使う。目は人の良い所を見つけるために使う。手と足は人を助けるために使う。頭と心は人の心を分かろうとするのに使う。」ということを心にきざんでおく必要があるのです。

このように、この使い方をマスターし、違う国の人、違う考えの人、違う宗教の人たちと交流し、相手を分かり、信じ合い、いつかは、全ての国の人と手をつないで話せる日が来るように、みんなで平和に挑戦していくことが、ぼくの願いです。

私のしらない心のいたみ

古川第四小学校5年 藤木祐衣

英霊と書かれた金の位はいが家の仏だんにある。お盆の準備中、祖母は話し始めた。祖父のおじさんは、海軍の兵隊さんで船に乗って南の方の戦争に行った。途中でばくだんの攻げきにあい亡くなってしまった。そのおじさんのものだった。

ウーウーウーゥ。

「空襲警報発令、空襲警報発令。」

みんなが防空ごうに入っていく。古川の台町と美里町の北浦にばくだんが落ちた。B29という飛行機が空を飛び、サイレンがなる。今から約70年前の昭和16年に太平洋戦争が始まる。約5年間、昔の人々はたえたという。最も激しかったのは昭和18年からの3年間。祖母は、ぽつりぽつり話す。いつも祖母は私のためにいろいろな話を聞かせてくれるが、戦争のことになると辛そうに話す。

祖母は6人兄弟で、そのうちの一番上と二番目の人が戦争に連れて行かれたそうだ。「日本に帰って来れたのは」という言葉を祖母が話す。戦争が終わった後、3~4年たってから帰って来たそうだ。「捕りょ」になり、中国やソ連に連れて行かれ、働かされたという。食べ物は満足に食べられず、寒い時も暑い時も、休みなく働かされたと聞いた。「~された。」自分の気持ちとは関係なく、しなければならなかった。そうしないと生きていられなかったのかと思った。今から65年前の昭和20年8月15日に戦争は終わった。でもおじいさん達のように「捕りょ」になった人達は、それで終わりではない。もっと後になって、日本に帰って来て、やっと戦争が終わったのだと思う。

私には想像できないことが沢山ある。防空ごうの中、戦争に行く人を見送る人の気持ち、行く人の気持ち、戦うこと…。戦争に行き、亡くなった人や苦しんだ人、今も心や体に傷をもっている人達は、今の平和を喜んでいるのだろうか。今の日本には戦争がない。けれども他の国では戦争をしているところもある。ばくだんに当たって亡くなった人達は、はたしてこの様子を平和と思うだろうか。

私達は、戦争に行った人、亡くなった人、戦争の時を生きてきた人達の気持ちを背負って、今という時を一生けん命に生きていかなければならないと思う。心の痛みで流す涙を見てそう思った。「英霊」とかかれた位はいの人達がいたから、「捕りょ」になって働いてくれた人がいたから、それを見守る人たちがいたから、今の私達がいる。今の世の中がある。もう心が痛くて泣くことがないように、今、私にできることは、戦争を知ることだと思う。祖母の話、テレビでのニュース、おじいさん達の話を聞こうと思う。

戦争をなくすには…。そう、おたがいのいい所を見つければ、戦争がなくなるかもしれません。例えば、日本はアメリカのいい所を。アメリカは日本のいい所を。どうぞ平和な世界になりますように。

本当の幸せ

古川第五小学校6年 佐々木春菜

本当の幸せとはなんなのだろう。文明の発達か?金の多さか?食の豊かさか?結局なんにしてもそう簡単には言葉に表せない。なぜなら、それは人によって異なるからだ。

でも、今のこの世の中をよく見てみると…。

隣近所の人の顔も知らない町。

同じ食卓を囲もうとしない家庭。

お互いに憎みあい、疑い、傷つけあい、信じることをしようとしない人々。

そしてついには、何の罪も無い者でさえも命を奪おうとする。

たとえ、それが家族であっても。

たくさんの人々の努力と血と汗と涙の結晶と言っても過言ではないような文明の裏には、こんなに悲しい、無残な現実があるのだ。

もしそれを、戦争で命を捧げていった勇敢な兵士たちが知ったら…。きっと、とてつもない悲しみ、無念さ、怒り…様々な感情がこみあがってくることにちがいないだろう。

彼らは、日本のどんな未来を思い浮かべながら、南の海へと散っていったのだろう。

焼けただれた大地が、昔のように青々と緑の生い茂る場所に戻ってほしい。

油に染まった海が、元のようにきらきらと光輝くものになってほしい。

焼け去った、平凡で、のどかで、おだやかだった町が、またできてほしい。

そして…

もう二度と、こんな無残で、なんの意味もない争いなんて起こらないでほしい…

こんな思いを胸に秘めていたのではないのか?

でも今、どんな日本になっているのだろう。

たくさんの緑も、輝く海も、のどかな町も、“文明”という大きなものに押しつぶされている。

こんな姿が、彼らが願っていた未来なのだろうか?

文明の発達に気を取られ、“人間に本当に必要なもの”を、どこかに置き忘れてきてしまったのではないだろうか。

私は思う。今、この“現代の戦争”を、ほかならない私たちが終わらせないといけないと。

人々がすべてを愛し、いつくしみ、守りあいながら生き、すべての生き物がのびのび生息し、どんな者でも安心して暮らせる世界を後世に残すため、早急に築かなければならない。笑顔と幸せにあふれた、この“本当に平和な世界”を…

本当の幸せとはなんなのだろう。それは人によって異なるが、きっと、“本当に平和な世界”で生きていけることが、すべての人々の幸せの原点になれるだろう。

Heal The World

世界をいやそう。

平和について思うこと

古川南中学校1年 高橋亮介

今年、65回目の終戦記念日を迎えたことが、テレビなどで報道されていました。今日の日本は景気が悪く、様々な問題を抱えているものの、「平和」といえる範囲にあるでしょう。

歴史をさかのぼってみると、日本も諸外国のように戦争を繰り返してきました。その結果、多くのかけがえのない命や、美しい自然が奪われ、心には深い傷を負うことになりました。戦争や平和に関する多くの報道や番組を見て、今もなお、精神的、肉体的に苦しめられている多くの人々がいることを、私は知りました。私たちの気づかないところで、戦争の傷跡が65年たった今も、違う形で残されているのです。

今の私たちは、物質的に恵まれ、また、特に大きな不自由を感じることなく暮らしています。「平和」の意味を深く考えることなど、ないのではないかとさえ感じます。

しかし、私たちは忘れてはいけません。この暮らしは、かつての戦争によって失われた多くの命、そのほかに失われたかけがえのない多くのものの上に成り立っているのだということを。

でも、実際の私たちはどうでしょう。今のこの「平和」を、「幸せ」を、当たり前に思い、物を粗末にし、学ぶことをおこたり、ずるいことを考えたり、平気で人を傷つけたりと、どこか、人としての思いやり、優しさ、素直さ、物のありがたさを感じる心を、忘れがちではないでしょうか。というのも、平和の中にありながら、不幸な事件や出来事が、後を絶たないからです。

例えば、親子間での殺し合い、親が子を放置する、友を平気で傷つける、不当な金銭の動き、大人の世界のずるさ、政治のあり方などに、私は日々、疑問を感じます。

では、私たちは、今の日本を、いや、日本だけではない、その他の世界の多くの人々が、平和に暮らせるように、また、戦争で失われた多くのものを無駄にしないために、今後の日本を背負って立つ私たち中学生に、何ができるでしょうか。

私が考える始めの一歩。それは、物質的なものには恵まれていても、今、私たちが人として失いがちなものを取り戻すこと。そして親子の絆を深めること。家族との信頼関係を築くこと。友を大切にすること。常に心や体を鍛え、健康であること。勤勉さを忘れず、悪いことには背を向けること。ずるい気持ちを消すこと。決まりを守ること。自然を大切にすること。人としての優しさ、思いやり、素直さを忘れないこと。美しいものを愛する心を持つこと。弱い者を助ける…。

大人にはかなわないけれど、私たち中学生にもできることが、身近なところにたくさん転がっているような気がします。これを土台にし、様々なことを積み重ねていくことが、平和の礎となり、架け橋となることと私は思います。何事も基礎となるものがしっかりしていれば、そう簡単に崩れるものではないと思います。平和や幸せを常に考え、追求し、今後の世の中を担っていくに恥じない中学生でありたいと、私は思います。二度と悲惨な戦争が起こらず、戦争の悲惨さを後世にも伝え続けるとともに、平和な世の中であることを願っています。

平和

古川西中学校3年 伊藤英樹

8月のある日、テレビには白黒の映像が流れていた。何度、この映像を見ただろう。粉々に大破された建物たち。そう、それは約60年前の広島の様子だった。毎年、夏がくるとテレビに原爆投下後の広島が映し出される。おそらく、平和祈願のためのなのだろう。日本は世界大戦後、一度も戦争をしておらず、長く平和が続いている。そして、その平和をこれからも維持し、大切にしなければならないと聞かせられ、自分でもそうしなければならないのだろうと思っている。しかし、平和でない状態、戦争などを経験していないからなのか、自分の平和に対する実感が薄いような気がする。平和が大切だということはなんとなく分かっているが、日々、常に平和について考えている訳ではない。テレビの映像や学校の授業などで考える場を設けられて考え始める程度だ。普段から意識を高めるべきなのか、時々でも、そこまで深く考えることが出来れば十分なのかは、まだはっきりと分からないが、どちらにしろなぜ平和が大切なのか、なぜ戦争をしてはならないのかを考えた末に辿り着かなければ、大した意味の無いものになってしまうだろうと思う。

僕は戦争の一番の悪い所は多くの人々が亡くなり、傷つき、苦しみ、犠牲になることだと思う。まず、そのような人々には、直接戦場に行って戦死、負傷した兵士たちや原爆投下や空襲などの被害にあった一般の人々が挙げられる。また、兵士への優先的に食料などの物資を配分したことが原因で、一般人が食料不足などの苦しい生活を強いられたことや、国力を使い果たした戦争の後も苦しみが残ったことも挙げられる。そして、そのような経験をした人の肉親や知人も悲しむだろう。この悲惨な出来事を繰り返さないために人々は平和主義を唱え、戦争の悲惨さを訴えている。しかし、この悲惨な出来事が正しいとされたり、良い方に向かってしまうことがある。例えば、正しい戦争とされた「イラク戦争」、日本の経済成長を支えた特需景気をもたらした「朝鮮戦争」などが挙げられるだろう。このようなことはどう考えるべきなのだろうか。僕は戦争はどんな理由があっても、してはならないことで、もし、結果的に多少の利が生まれたとしても、それは本当の成長、前進とは言えないと思う。なぜなら、戦争で勝って利を得ても、いつか負けてその利が無くなってしまい、他国で戦争が起こり自国で利を得ても、いつか自国で戦争が起こればまた元に戻り、長い年月を見通して考えれば結局は一歩も前に進むことができないと思うからだ。僕は今までに部活や勉強などで、結果よりもその内容を求められたことが数多くあった。今、こうして平和について考えたことで、それが求められる理由を改めて理解することができたと思う。また、内容に対して、正直に結果が出る時などは結果の方を強く求められたこともあった。そのような時でも、結果が全てとは思わず、自分がこれから歩む道のその先を見据えた上で、内容についても深く考えるべきだと思う。テストで適当に書いた答えが当たるのと、内容を理解した上で当たるのでは違いがある。適当に書いたものは、もし次に同じような問題が出題されたら、今度は外れてしまうかもしれないが、内容を理解した上で書いていれば、次も確実に当てることができるだろう。バスケでただ投げるようにして打ったシュートがリングに入ったとしても、次に決められる確率は低く、その時に満足したとしても次には繋がらない。正しいシュートフォームで打つことができれば、たとえその時外したとしても、次には繋がる。僕は戦争はこれらのことと同じだと思う。戦争で物事を解決しようとすれば、多くの犠牲者を出したり、国力を使い果たしたりしてしまうなどの大きなリスクを背負うことになる。そして、その場しのぎの解決法となってしまうかもしれない。戦争以外の方法で物事を解決しようとすれば、軍事力が勝る方が有利になったりせず、互いが納得のいく答えを導き出すことができるだろう。 僕はこのような理想の答えを導き出すことができたとき、初めてそこで本当の成長、前進を遂げたと言えるのだろうと思う。しかし、そこに辿り着くには長い時間を費やすことになったり、互いにそれ相当の譲歩が必要になったりしてくる。しかも、誰か一人だけでも信頼を崩すようなことをすれば全てが無駄になってしまう。

僕は、平和を続けるためには一人一人が、戦争を放棄しなければならない理由や、戦争をすることによって人々が背負ってしまうものの大きさ、戦争が物事の解決法として適切だとは決して言えないということなどをしっかりと理解していかなければならないと思う。でも、それは周りの人のことを常に考える、後先のことについてしっかりと見通し、考えるという日頃の常識を誰一人欠くことなく、考えることができれば十分に達成できるのではないだろうか。

祖母の話から考えたこと

古川南中学校3年 佐々木千夏

私は今まで自分が、平和の中にいることに気付かずに生活していました。そんな私が平和について考えようと思ったのは、今年亡くなった祖母が生前、戦争について語ってくれたことがきっかけでした。

私の祖母は、小学生の時に第二次世界大戦を体験しました。突然来る戦闘機。いつ落とされるか分からない爆弾。戦争中はいつも恐怖を抱いて生活していたと言っていました。また、食べるものがなくなり、生活がどんどん苦しくなっていったことを話してくれました。

「毎日毎日、生きることに必死だった。」

「本当に恐かった。」

何度もそうつぶやく祖母の声と表情から、その恐怖が伝わってきて、聞いているうちに、自分もその場にいて、一緒に恐怖をあじわっているような気持ちになりました。

体験者の祖母が語ると、すごく説得力があって、祖母の味わった恐怖を追体験しているような不思議な気持ちになります。

祖母の話を聞いてから、私は自分には関係ないと思っていた戦争について、興味がでてきました。そして、戦争のことを知らなければならないと感じるようになりました。

そう感じてから、私は以前は目をそらしていた戦争の映画、ドキュメント番組、ニュースなどを積極的に見るようになりました。

映画では、ただでさえ残酷で見ていてつらくなるものもありましたが、実際は何十倍もつらかったんだ、と感じました。

ドキュメント番組からは、戦争体験者の話を聞き、戦争は体も心もボロボロにしてしまうものだと知りました。

ニュースでは、戦争直後にとられた写真から、被害者や、ボロボロに崩れた建物の姿を見て、被害の大きさを感じました。

どれを見ても聞いても、被害の大きさに衝撃を受けました。死者の数や大きな傷は戦争の深刻さをもの語っていて、失ったものが大きいと感じました。

さらに戦争について知っていくと、その当時の日本人の考え方が、今の私たちには考えられないほど残酷なものであったと知りました。

私が知ったのは、当時は「死ぬ」ことが国のためであり、良いことだったということです。外国人に捕まるくらいなら死んだ方がいい。そんな考えを持っていたのです。ドキュメント番組でも、自殺しようとしていた人が、「自分たちは間違っていた。」と言っていました。

そんな残酷な時代があった日本。今は、戦争をしないと、決められています。そのため日本は戦後、高度経済成長で豊かになり、他国と比べても、生活はとても豊かになりました。

そして、他国には出来ないことを、当たり前に出来るようになりました。昔のような恐怖におびえることなく、食べ物にも困らなくなりました。

そんな平和な生活を送っている私たちだからこそ、過去の「つらさ」を知る必要があると思います。それは、私自身、戦争について知ってから、「当たり前」ができている「今」がとても幸せなことだと分かったからです。

「当たり前」に学校に行く、食事をする、買い物をする、そんな私たちにとって当たり前なことが出来ない国もあるのに、「当たり前」が普通になって、自分たちが幸せなんだと感じなくなっています。

私たちがしなければならないこと、それは今、普通に生活できていることの幸せをしっかり感じることだと思います。

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