平和作文コンクール(平成23年度)

更新日:2021年02月26日

小学生の部入賞者が盾を持って大崎市長と並んで写っている写真

小学生の部入賞者

中学生の部入賞者と小学生の部入賞者が盾を持って市長と並んで写っている写真

中学生の部入賞者

市では、子どもたちの平和に対する思いや考えを発表する作文コンクールを毎年実施しています。今年度は、「小・中学生平和作文・震災復興作文コンクール」とし、平和作文とともに震災復興作文を募集いたしました。

小・中学校から301作品の応募があり、審査の結果、最優秀賞として平和作文・小学生の部では、古川第二小学校5年渋谷佳央さんの「けんかはしない」が選ばれました。

また、震災復興作文・小学生の部では、古川第二小学校5年島尾桐太さんの「東日本大震災が教えてくれたこと」が、震災復興作文・中学生の部では、松山中学校3年鹿野幸輝さんの「東日本大震災を経験して」が選ばれました。入賞作品を紹介します。

平和作文・震災復興作文コンクール

平和作文・小学生の部

最優秀賞

渋谷佳央さん 古川第二小学校5年 けんかはしない

優秀賞

  • 上野勇さん 中山小学校4年 戦争はいやだ
  • 遊佐真さん 中山小学校5年 もし戦争の時代に生まれたら

平和作文・中学生の部

最優秀賞

該当者なし

優秀賞

藤田裕基さん  古川南中学校3年 平和な現代日本に生まれた幸せ

震災復興作文・小学生の部

最優秀賞

島尾桐太さん 古川第二小学校5年 東日本大震災が教えてくれたこと

優秀賞

  • 佐々木修平さん 古川第一小学校6年 復こうへの第一歩
  • 及川こころさん 沼部小学校3年 今回の震災で感じたこと

震災復興作文・中学生の部

最優秀賞

鹿野幸輝さん 松山中学校3年 東日本大震災を経験して

優秀賞

  • 松本優さん 古川南中学校3年 共に乗り越えていくために
  • 三浦弘祐さん 松山中学校3年 東日本大震災

応募数

301作品

作文集

平和作文集

けんかはしない

古川第二小学校5年 渋谷佳央

学校の宿題で本読みがあります。一学期の最後のほうに読んだのが「いわたくんちのおばあちゃん」です。だいたいお母さんに聞いてもらうのですが、いつも読んでいると中で気づくとお母さんは泣いています。

このお話は、広島に住むいわたくんのおばあちゃんが十六才のとき戦争で原子ばくだんを投下され、家族みんななくしてしまったお話です。お母さんに、

「どうしてこのお話を聞いて泣くの?」

と、聞くと、お母さんは、学生時代に広島に行ったことがあって、実さいに原子ばくだんの被害で大やけどをおった写真、こわれてしまった家や建物、そしてたくさんのなくなった人々の資料を見て、とても悲しく暗い気持ちになったのを思い出すのだそうです。わたしは、戦争のない時代に生まれましたが、いわたくんのおばあちゃんと同じ時代に生まれていて、同じ経験をしたら、わたし一人では生きていけないかもしれません。家もなくなり、支えてくれる家族もなくしてしまったいわたくんのおばあちゃんは、どんな思いをして生きてきたんだろう。きっとさみしい思いや、つらい思いをいっぱいしたんだと思います。そして今東北地方には、同じ思いをしている人がたくさんいます。三月十一日の地しんで、同じように家や家族を失った被さい者の人々です。少しずつ復興はしているけれど、なくした大事な人は帰って来ない。そう考えると、地しんも戦争もおこってほしくない悲しい出来事だと思います。ただ一つちがうのは、地しんは自然がおこすものだから防ぎようがないけれど、戦争は人がおこすものだから防ぐことができるということです。この文章の最後にも、

ぼく、戦争せんけえね。

けんかしてもすぐ仲直りするよ。

と、書いてあります。みんながそう思って、けんかしないようにすれば、戦争もなくなるんだと思います。

わたしも、戦争しません。

けんかしてもすぐ仲直りします。

今年の8月6日の朝、8時15分、ちょうどテレビをつけていたら、広島の平和記念公園で原ばくのぎせい者をついとうする式典をしていました。お母さんと私も、テレビにむかってもくとうしました。

なくなった人々が天国で、幸せにくらしていますように。生きているわたしたちは、二度と戦争を起こさず、平和な未来をつくります。心の中でそう祈りました。

戦争はいやだ

中山小学校4年 上野勇

ぼくは、もう戦争はしないでほしいです。その理由は、昔の戦争でたくさんの人が亡くなってしまったからです。

ぼくは、なぜ昔の人は戦争をしたのか、と疑問に思います。戦争をやって何になるんだろう、戦争は、ただ人をきずつけ合うだけだと思うのです。戦争をする前に戦争をしないですむ方法はなかったのかな、とも思うのです。

昔の人は空しゅうを受けて大変だったと思います。ぼくがその場にいたら、こしがぬけて立てなかったと思います。それに、パニックになって頭がへんになっていたかもしれません。

それから、ぼくは戦争で子どもまでまきこむことはないと思います。子どもは何十年も生きていけるのに、戦争で長い人生をうばわれた子どもはざんねんだったと思います。だから、できるかぎり子どもをまきこまないようにしてほしかったと思います。きっと大人は子どもを守るために、ひっしだったと思います。そして、ぎゃくにお父さんやお母さんを亡くした子どももショックだったことでしょう。

ぼくは戦争についての映画を二つ見ました。

「ホタルのはか」の映画では、戦争がいかに大変だったかがわかりました。お兄ちゃんがいっしょうけんめい妹を守っていく姿に感動しました。

「はだしのゲン」では、くうしゅうで三人も家族を失ってしまっても、たくましく生きていくゲンがすごいなぁと思いました。

日本の戦争は、もう終わりました。でも、他の国では、まだ戦争が続いているところもあります。だから、ぼくはもう戦争はしないでほしいと強く願っています。

もし戦争の時代に生まれたら…

中山小学校5年 遊佐真

ぼくが、もし戦争の時代に生まれたら、ぼくは兵士になっていたと思います。まだ、小学生なので、すごい訓練を受けていたと思います。しかも、心の弱いぼくなので、毎日のように泣いていたと思います。そして、つかれもたまって生きるのがいやになると思います。

それでも、大きくなりりっぱな兵士になると思います。しかし、ぼくは、兵士になった自分を憎みます。なぜなら、敵の外国人を殺さないといけないからです。それで、特攻隊に選ばれて、そのまま死ぬと思います。ぼくは、人を殺さないように人がいない所に墜落させて自殺します。それが、一番いい手だと思います。

そして、やがて原爆が落とされて、広島と長崎が被害にあった時、ぼくは、怒ります。そして、原爆の被害にあった人を助けにいきます。たとえ、親が反対しても行きます。ぼくにできることは、ささいなことかもしれませんが、現場に行ってぼくができることをしてあげたいです。ぼくには、介護の仕方なんて分かりません。でも、自分のできることで、たとえ一人だけでも、助かればそのためにがんばります。

ぼくは、戦争なんて楽しいのかと聞きたいです。戦争なんかやったって楽しくないし、むしろ後悔すると思います。自分が生きていても、兄弟、友達、親などのみんなが死んでしまいます。どうせ、勝つ国は、決まっています。大きく力のある国が戦争に勝ちます。勝った国は喜び、負けた国は悲しみます。でも、どちらの国にも同じことがあります。それは、戦争によって亡くなった人が、たくさんいるということです。

ぼくは、戦争の無い平和な国に生まれました。食べ物にも困ることなく楽しく生きてきました。でも、そんなぼくが、もし平和じゃない戦争の時代に生まれたら…そう思って書いたのがこの作文です。ぼくは、韓国人です。昔は、韓国も日本も戦争をしました。おたがいに、戦争をすることもありました。

でも、今では、ぼくみたいに韓国から来ても仲のいい友達がつくれる平和な世界になりました。まだ、戦争をしている国もあります。しかし、やがてその国も戦争をしなくなると思います。なぜなら、戦争をしたって国の人数が減り、やがて国民がいなくなってしまうからです。

最後に、ぼくが言いたいことがあります。それは、戦争をしてもいいことなんて一つもないということです。だから、大きくなっても戦争は、しないです。相手と争うことよりも、おたがいに助け合う関係をつくることが大切だと思います。

平和な現代日本に生まれた幸せ

古川南中学校3年 藤田裕基

現在世界では絶えず紛争や戦争が続いており、多くの人が命を落としています。幸いなことに今、私たちが住んでいる日本には戦争はなく、また平和主義をかかげているため、私たちの最低限の平和は保障されています。

私は以前、私とほぼ同じくらいの年齢の少年達が銃を持ち兵士として戦場にいる写真、遊んでいる途中に地雷を踏んでしまい片足を失った少年、空爆により家と家族を失った少年たちの写真を見たことがあります。写真を見るたびに「かわいそう」などの一言ではとても言い切ることなどできない、不思議で悲しい感情になります。私は生まれてから今まで、銃を持つことも、戦場に行くことも、地雷がすぐ近くにうめてあるので危ない、などの経験をしたことなどなく、最初は写真を見ても実感はわきませんでしたし、現実として受け入れることもできませんでした。しかし私も十五才になり、「実感がわかない」など言うこともできませんし、少しずつ現実であることを受け入れることができるようになりました。それと同時に、私の力だけでは彼らを救うこともできないことへのむなしさと日本に生まれた幸せを感じるようになりました。

世界の歴史から見れば、つい最近まで日本は世界を敵におろかな野望のために戦かっていました。日本はこの戦争で多くの物を失ないました。その中でも最も大きいのは国民の命でしょう。多くの若者たちが徴兵され、戦わされたのです。中には私と同じくらいの年齢で軍事教育を受けさせられた人々もいたと聞きます。少年たちは勇ましく参加していたと聞きますが実際、少年たちは苦しかったのではないでしょうか。このような言い方はふさわしくないかもしれませんが、私は当時の日本ではなく現代の平和な日本に生まれることができたのはとても幸せだと思います。もし私が当時の日本に生まれていたのなら、軍事教育を受けなければいけませんでした。今の平和な日本にいる私にとって想像するのも難しいことです。

しかし戦争により日本は非常に重要なことを学びました。それは「命の大切さ」ではないでしょうか。憲法に平和主義をかかげ、私達の平和を保障し、二度と戦争をしないことを決めたのです。志しを果たすことができずに戦争で死んでしまった多くの若者たちも喜んでいるのではないでしょうか。

日本は、「立ち上がることができる国」と言われますが、私はそのとおりだと思っています。あの戦争でのあれだけの被害から、わずか十数年で「平和で豊かな国」として国際的にも認められるようになったのですから。

「平和な国はどこか?」と聞かれたら堂々と「日本です」と答えることができる気がします。

しかし当然、我が国が平和ならそれでいいわけではありません。世界中の国が平和で国民が安心して生活することができなければ、「完全な平和」ではないと思います。私たち「平和な国」に住む者たちが「完全な平和」のために努めなければいけません。しかし日本だけの力で世界の戦争をとめることは何年かかろうと無理でしょう。世界単位で協力しなければいけません。しかし各国が協力しようと、多くの時間が必要なのは明白です。しかしそこで何もしなければ何もかわりません。逆に何か良いことをすれば、きっと良い方向に進むでしょう。

私たちは「完全な平和」のために努めなければいけません。今も、戦争に苦しむ世界中の人々のために。

震災復興作文集

東日本大震災が教えてくれたこと

古川第二小学校5年 島尾桐太

3月11日、東日本大震災が、ぼく達の住む宮城県をおそいました。えん岸部では、津波により、大きなひ害が出ました。

ぼくのおばあちゃん、いとこの家は、特にひ害の大きかった気仙沼市にあります。地震があった日の夜中、仕事から帰ってきた父から気仙沼の話を聞きぞっとしました。巨大津波におそわれた後、大きな火事が発生し、町はまるで火の海だと言っていました。心配になり、次の日から電話をかけましたがつながりませんでした。ぼくは(大丈夫。みんなはきっと生きている。)と、自分に言い聞かせ続けました。六日後、ようやく電話がつながり、全員無事だということが分かりました。そのしゅん間、ほっとしたというか、言葉にならないものを感じました。

ここ、大崎市も大きなひ害を受けました。一週間以上も電気が止まってしまいました。

ぼくは、この震災に教えられたことがあります。ぼく達は、電気や石油にたよりきって生活していたということです。地震発生当時は三月で、寒い日が続いていました。だんぼうが使えず、ぼく達は、家の中でもあつ着をして寒さをしのいでいました。ガソリンも入りにくかったので、買い物に行く時などどこに行くにも歩いて行動しました。

また、たくさんの人にお世話になりました。特に心に残っているのは、友達の家からストーブをかしてもらったことです。ガソリン不足が深こくな中、雪のふる暗い夜道を、中新田から車でとどけに来てくれました。

それから、電気の復旧支援に来ていた、中部電力さんからパンをもらった事もありました。食料の買い出しのため、店の前にならんでいた時、ぐずり出した妹のすがたを見て、「がんばれよ。」と、たくさんのパンをくれました。そのパンは、おじさんたちの昼食だったそうです。おしまずパンをくれたおじさん達の優しさを感じました。

その他にも、友達の家でお風呂に入れてもらったり、ご近所さんから、ラジオやかい中電灯をかしてもらったり、たくさんの人に助けられました。

人の優しさにふれ、ぼくはこう思いました。

「人は一人では生きていけない。助けてくれたり、はげましてくれる人がいるから生きていける。人間とは、支え合い、助けあって生きていく生き物だ。」

これが、今回の震災で感じた二つ目のことです。

今、日本は大変なひ害にあったにも関わらず、復興に向けて努力しています。ぼくは、この日本を復興するまで見守り続けようと思っています。

日本は強い国です。

「日本は必ず復興する。」

ぼくはそう信じています。

復こうへの第一歩

古川第一小学校6年 佐々木修平

忘れもしない3月11日、あの大地しんの日、ぼくの家は大きなひ害は無かったが、夜暗やみの中でラジオから聞こえたニュース。えん岸部に津波が発生し、死者も出ているとの事。ぼくの父が何度も石巻の親せきに電話をしていたが、全くつながらない。最悪の事も考えながら、5日間が過ぎた頃、「3人無事、ひ難所にいる」との返信メール。さっそく次の日、父の車でむかえにいくことにした。

とう着した石巻のひ難所はまるで戦場、みんなドロだらけの服で、おにぎりを食べていた。外は、がれきや、流された車の山、あまりの状況に夢でも見ているような気がした。

帰りの車の中で、3日間、家の二階に閉じ込められていたいとこの話や、ひ難所まで何キロも歩いたおばさんの話を聞いて、もし自分だったらと寒気がしてきた。

ぼくの家でのひ難生活がはじまり、数日が過ぎたころ、津波ひ害にあった石巻のいとこの家へ、みんなで掃除をしに行くことになった。家に着いて、あまりの変わり果てた状況にぼくは、ぼう然と立ちつくした。家の形は残っていたけれど、げん関や窓ガラスは突き抜け、中はめちゃくちゃになっていた。床はヘドロまみれで、どこから手をつけたらよいか、わからないぐらい。実際、作業をはじめてみても、そのヘドロは、取っても、取っても取り切れず、本当に全部取り切れるのだろうかと不安になった。

何時間か過ぎた頃、座敷の隅で毛のかたまりのようなものを見つけた。急いでみんなに知らせ、そっと掘り起こしてみると、それはいとこの家の愛犬ポッキーだった。真っ白な犬だったのに、ヘドロにまみれて灰色に染まり、目は半開きのまま、舌を出して死んでいた。せっかく15年も長生きしたのに、ずいぶんあっけない死に方だった。みんなでカーテンに包んで、木の箱に入れ、造花をそえてお別れをした。「みんなの身代わりになってくれたんだなあ」と思うと、みょうに悲しくなった。

終わりの見えない絶望の中から始まった掃除だったけれど、みんなの力で作業も進み、最初とは比べものにならないぐらいきれいになり、みんなの表情もだんだん和んできた。

ぼくは、この地しんによって大事な事を得ることができた。それは、学校でいつも言われている協力するという事の大切さ。みんなで助け合って部屋中を掃除し、いとこ達が笑顔を取り戻してくれたように、まだまだ僕の小さな力でも、必ず役に立つ事があると思う。

連日、メディアから伝えられる復こうへの第一歩。それは決して大きな事をするのでは無く、一人一人が、しん災のひ害にあった人を意識し、助け合いの気持ちを持ち行動する事なのだと思う。これからぼくは、身近な、そして小さな事から、ひとつ、ひとつ行動していきたいと思う。

今回の震災で感じたこと

沼部小学校3年 及川こころ

3月11日、私は、友だちと学校から帰っていました。みんなとわかれて、お家の前の十字ろまでくると、地しんがきました。にわが、すぐ見えるのに、とてもふあんになりました。私は、先生に言われた事を思い出しました。広い所へ出ること、頭をかくす事、一人でこわかったけどがんばりました。公園のフェンスも電ちゅうもゆれて、まがっていました。とてもこわかったです。

地しんが、おさまってから、友だちのゆうとくんの家へ行きました。ママとのやくそくだったからです。ゆうとくんの家族にひなん所につれていってもらいました。パパとママとじいちゃんの事がしんぱいになりました。一時間後、ママがむかえにきました。私は、あんしんしてないてしまいました。ママと田じりへひなんしました。その後、私の家にもつなみでていぼうがこわれ、家に水が入ってきたとママに教えてもらいました。パパとも、じいちゃんとも、れんらくがとれない日が、何日もつづきました。とてもかなしくて、とてもふあんでした。

数日後、パパが、田じりにじてん車で会いに来てくれました。その後、みんなでやもとの家を見に行きました。一階は、田んぼのようにつくえもテレビも、私のたからものも、どろにうまっていました。友だちのお家も、どろやまるたが、にわにたくさんあって、とてもかなしいきもちになり、ないてしまいました。それから、私は、やもとに帰るのがこわくて、田じりのおばあちゃんの家にお世話になることになりました。地しんで、水もでんきもない日がたくさんつづきました。よしんもつづき、ふあんでした。でも、田じりの家の人ややくばの人、パパやママのえがおやがんばろうねの言葉で、少しずつ元気がわいてきました。

田じりにもお友だちがたくさんできました。今は、地しんも少しこわいけどだいじょうぶです。地しんで出来なくなった事も多いけれど、出来るようになった事、きづいた事もあります。地しんや、つなみは、とてもこわい事です。でも、家族がみんなぶじでげんきな事、大切な人たちがえがおで毎日すごせる事が、とてもすてきな事だと思いました。少し自分が強くなれた気がします。みんなにたすけてもらった分、私も、こまった人がいたら、えがおでたすけてあげたいと思います。

東日本大震災を経験して

松山中学校3年 鹿野幸輝

卒業式を翌日に控えた3月11日、卒業式の準備の真っ最中だった二時四十六分、今まで経験した事のないような、大きく、激しい揺れが襲ってきた。

電気があっという間に消え、体育館の屋根が「カァーン」と鳴り響き、あちこちから悲鳴が聞こえ、今思い出してもあの時間は、生きた気がしない、地獄のような時間だった。

ようやく、長く激しい揺れが収まり、全員で昇降口前に避難したが、全く情報が入ってこなく、何もわからないまま、地区ごとに集団下校した。その道中、崩れたブロックや家屋、陥没したり隆起したりしている道路など変わり果てた町の様子を目にして、ものすごい衝撃を受けた。

これが元通りになるまでどのくらいかかるのだろうか、家は、家族は無事だろうか、そんな事を考えながら、自宅まで帰った。

めちゃくちゃになった家の中を祖父と母が片付けている間、僕は車の中で、ラジオを聴いていた。

ラジオからは、「本日午後2時46分に発生した大地震により、巨大な津波が押し寄せ、沿岸地域は壊滅的な被害を受けています。」と、耳を疑うようなニュースが聴こえてきて、その時は、「壊滅的」という言葉に実感が湧かなかった。

数ヵ月が過ぎ、元の生活が戻り始めた頃、家族皆で、石巻から仙台港までの、津波の被害にあった地域を見に行った。

途中に通った、野蒜という所は、小さい頃から、海水浴や観光などで何度も訪れていたが、津波によって変わり果てたその町は、僕の知ってる野蒜とは違う町のようだった。

その光景を見た時、僕は、「衝撃」を通り越して、「絶望感」を感じたと同時に、今回の震災が、歴史に残る大災害なのだという事を思い知らされた。

今回の大震災で、僕の住んでいる大崎市と沿岸部は、被害規模は全く違っていて、震災から半年たった現在の内陸は、もう普通の生活を取り戻しつつある。

しかし、建て物や住民が流されてしまい、町そのものが壊滅してしまった地域は、元の暮らしが戻ってきた訳ではない。

内陸部に住んでる人達は、どうしても、この事実を忘れてしまうと思う。僕も、そう。

大震災があったこと自体は忘れないが、元の生活が戻ってきて、ニュースでもそれほど沿岸部の津波被害の話題が取り上げられなくなり、家を失った人達や、壊滅した町がある事を忘れそうになる。

それが、良い事なのか悪い事なのかはわからない。

でも、沿岸部ではまだ完全に復興できていないのに、内陸の地域では元の生活に戻っている。自衛隊が撤退し、家を流された人が皆、仮設住宅に入居した。では、それで震災の復興は完了なのかといえば、そうではないと思う。

今回の大震災で、僕達は多くの仲間や町を失った。悲しみはすごく大きいと思う。でもいつまでも悲しんでいても、失ったものは何も戻りはしない。

だから、悲しみをこらえて、立ち上がり、

「俺達が、失った仲間の分も頑張るんだ。俺達の手で、もとの活気ある町を取り戻すんだ。」

という気持ちをもって、明るい未来へ向かって前進することが、沿岸部だけではなく、内陸部も、被災地から遠く離れた地域も、日本中がそうなることが、大事だと思う。

そして、僕達若い世代が、この大震災からの復興の先頭に立つべきだと思う。

今の幼い子供達が大人になる頃、つまり現在大人の方々が老後を過ごす頃には、震災以前よりもさらに活気に満ちた、元気な東北を造る、それが、この時代に生まれた僕らの世代の義務、宿命なのだと、僕は思う。

僕も、その中の一人として、元気な宮城、東北を築いていく仲間の一員になりたいと現在考えている。将来、どんな形で協力できるかはわからないが、震災からの復興に役立ちたい。そのためにもたくさん勉強して広く知識を蓄え、自分に何ができるかを考えてみたい。

まず今は、目の前の高校受験という壁を乗り越え高校でたくさん学ぶために、受験勉強や日々の学校での学習を頑張っている。

また、テレビのニュースや新聞の記事などを通して被災者や被災地のことを忘れないように毎日過ごしている。

いつの日か、僕自身が、笑顔溢れる宮城を、東北を築いていく一つの力になれるように。

共に乗り越えていくために

古川南中学校3年 松本優

平成23年3月11日、午後2時46分。その瞬間、この世のものとは思えない様な激しい揺れと共に私達の“日常”は崩れ去りました。

東日本大震災。国内観測史上初のマグニチュード9.0を記録したこの巨大地震は岩手、宮城、福島、その他広範囲にわたって甚大な被害をもたらしました。

私の住んでいる地域は宮城県の内陸ですが、奇跡的に目だった被害は少なく、家も無事でした。しかし、地震直後に私が見ることのできた映像は目を疑う様なものでした。仙台空港におしよせ、次々と飛行機を飲み込んでいく津波。仙台市内では建物の倒壊や火災も発生しているという情報も耳にし、本当にこれが私の住んでいる宮城県のことなのかと、信じられない思いでした。その夜は、無事合流できた家族と共に余震の続く中一夜を明かしました。外灯の明かりもない真っ黒な世界でふと見上げた夜空には、今まで見たこともない程綺麗な無数の星が、私達を見守る様に静かに浮かんでいました。

夜明けと共に届いた新聞には、変わり果てた宮城の姿がありました。想像を絶するその写真は悲しみや恐ろしさと言うよりは、どこか他の国の事を見ているかのようで、しばらく声が出ませんでした。

「こんな大変な中、本当にありがたいです。」と、母が新聞を受け取ると、配達員の方は「こんな時だからこそ、少しでも早く情報を届けたいと思って…」と言い忙しそうに立ち去りました。ラジオでも、アナウンサーの方達が夜通し私達に必要な情報を発信してくれています。大変なときだからこそ助け合って乗りこえていく。私も何か行動しなくてはならないと思いました。

今回の震災は、宮城県沖地震や阪神淡路大震災という、歴史に残る地震よりもはるかに大きな被害を出しました。亡くなった方の数も類を見ない程です。しかし、それと同時に被災地へ手を差しのべてくれるたくさんの人が日本中、世界中にいます。顔も知らない他の人のことであっても、思いやりの心を持って助けてくれる人がたくさんいることはとても嬉しいことです。そのようなたくさんの思いやりの中で、今回私が強く心に残っているのは、“被災者同士の思いやり”です。

よく、「困った時はお互い様」と言いますが、実際、それはとても難しいことだと思います。自身のことを優先して考えたいのが当然と言ってしまってもいい程なのに、私は地域の人、同じ境遇の人に対する深い思いやりを知ることができました。

建物の倒壊こそ免れましたが、私達の地域でも食料不足やライフラインの使えない不便な状態が長く続きました。そんな中、母は不安がる私を励ましながら、「うちにも何かできることがあるはずだ」と言い、貴重なお米を分けてあげたり、道ですれちがっただけの見知らぬ人に懐中電灯を貸してあげようとしたり…娘の私も正直あっけにとられました。それでも母は「うちはまだなんとかなるから大丈夫。」と、明るく言いました。

 「困ったときはお互い様」小さなことの様で難しいこの言葉の通り、人への思いやりを惜しみなく表す母を見て、私は母の様な人間になりたいと思いました。

他にも、近所の方が元気づけてくれたり、皆で食材を持ちよってお昼を作ったりと、地域での交流が乗りこえる力になり、人と人とのつながりの強さを改めて感じました。

あの日からもう5ヶ月もの月日が流れました。私達は今、震災前とほとんど変わらず学校に通い、生活をしています。被害が特に大きかった沿岸部の人達も仮設住宅に移り、復興への道を歩み始めています。その一方で今だに避難所での生活を予儀なくされている人や、町に山づみにされているがれきの山、さらには原発事故の影響で仕事ができなくなっている人も大勢います。しかし、周りでは日に日にあの日のことが忘れられ、すでに、“過去のこと”にされつつあると私は感じています。

復興はまだ始まったばかり。日本中の人々が幸せな日常に戻るためには、私達がいつまでも人を思いやる気持ちを忘れないでいることが大切だと思います。

私は、この震災で感じたことを決して忘れません。悲しみや怒り、嬉び、そして感謝の気持ち。歴史に残るであろうこの出来事を次の世代へと伝えることが、私達が亡くなられた方々へできる一番の供養になると思います。そして、いつの日かすべての人が日常へと戻れるよう、今自分にできることを精一杯やりたいと思っています。

東日本大震災

松山中学校3年 三浦弘祐

3月11日、東日本大震災発生。

その日の僕は普通に学校へ行き、いつも通りに授業を受け、その後に3年生のために卒業式の準備をしていた。その時はまだ3月で、冬の寒さが残っていた。卒業式には石油ストーブが必要なので友達とストーブに灯油を入れていた。突然、友達が言った。

「あ、地震だ。」

意識してみると言う通りに地面は揺れていた。最初は弱めだったので、少し強い程度の地震だろうぐらいに思っていた。でも揺れはしだいに強くなり、ついには身動きがとれないほどにまで強くなった。ストーブに入れておいた灯油はあふれ出て、地震の強さを物語っていた。僕はその時、これが宮城県沖地震か、と思った。前から聞いてはいたが、ここまで強いのかと驚いた。体育館の電気はすぐに消え、ぶらぶらとずっと横に揺れていた。この時はまさかこの地震が東日本大震災で、この後1週間くらい電気・水のない地獄のような生活が待っているとは思いもしなかった。揺れはとどまることを知らず、やっとおさまったかと思ったら外に避難させられた。外ではテントを張ったり先生方が安全確認したり、情報収集したりとあわただしかった。その後はそれぞれ家に帰された。僕の家は古いので、家がつぶれていないかが心配だった。不幸中の幸いというのか、家はつぶれてはいなかった。しかし、物が散乱し、家具が倒れていたりと大変なことになっていた。その日のうちに、ある程度のものは片付けて車で一夜を過ごすことになった。その夜は余震ばかりですごく怖かったことを覚えている。

次の日からは、とにかく生きることに精一杯だった。一週間が過ぎると、電気が近々復旧するという噂が流れその通りに待ちに待った電気が来た。ブレーカーを上げてみると各部屋の消し忘れの電灯などがついた。そのときの自分の感動といえば今までに味わったことのないほどだった。この感動は、今回の震災で被災した人全員が同じくらいしていると思う。そこからの日々はどれだけ充実していただろう。まずお風呂に入れる。次に、ストーブで寒さがしのげる。さらには、インターネットを使って情報収集ができた。しばらくはそんな日々が続いた。

 しかし、2回目の大きな地震は1ヶ月が過ぎたころにやってきた。本震には及ばないものの、かなりの大きさの余震だった。家は本震でひびが入っていたがこの余震でさらに追い打ちをかけられる形になった。それ以上に辛かったことは、2度目の停電。本震のあとの苦しい一週間を思い出させられてしまった。よかったことは、この停電が短期間で復旧したことだ。いくら短期間だったとはいえ大変だったことは確かだった。そのかわりにまた、電気がついたときには感動してしまった。そこからは、特に大きな地震もなく今にいたっている。

自分達は、電気がついたときの感動を2回も味わっている。今は電気が部屋についているのが日常化しつつある。しかし、まだ感動を味わっていない人がいることも事実だ。つまり、地震・津波ともに被災した人。ついこの前までは県全体の電気がすべて復旧したと思っていた。しかしテレビを見て、まだ海沿いの地域は電気のない生活が続いていることを知った。とても驚いたと同時に、もう5ヶ月も経っているのにそんなに時間が必要なのかと少し疑問が残った。そして最近、石巻に行く機会があり被災地の現状を目の当たりにさせられた。「まさに、百聞は一見にしかず」だった。まず電気などの前に家がない。あっても住める状態ではない。信号がついていないところもあった。そんな中で自分はあんな疑問をもっていたかと思うと、自分で自分が恥ずかしくなった。被災地を見て、こんなことも思った。ここまでの規模の波が来たら人が何人死んでもおかしくない、と。あんなに遠くまで来たら、逃げた先にも波が来て死んでしまう。今からでも遅くないから避難場所の再確認が必要だと思った。

 県全体の完全な復興には10年もかかると言われている。しかし僕は、本当に10年で復興できるのか心配になっている。なぜなら今回の地震は、世界でもなかなか起きない規模のものだからである。でも、世界中や日本中の人々ができる限りの協力をすればもっと早く復興できると思う。自分もその中の一人なので、できることはやっていきたい。例えばボランティア活動などである。今でもボランティアの人手は足りていないので、中学生の僕でもできることがあればやっていきたいと思っている。今からみんなが協力して、自分が大人になるころには元通りの宮城県になり、いい故郷になっていることを願っている。

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