平和作文コンクール(平成25年度)

更新日:2021年02月26日

大崎市では、子どもたちの平和に対する思いや考えを発表する作文コンクールを毎年実施しています。

平成25年度は134作品の応募があり、審査の結果、最優秀賞として小学生の部では富永小学校6年鈴木せなさんの「ひめゆりの塔と出会って」が、中学生の部では古川中学校1年矢野莉央さんの「身近にあった戦争の記憶」が選ばれました。入賞作品は下記のとおりです。

平和作文コンクール

小学生の部

小学生の部入賞者が5名が盾を持って大崎市長と並んで写っている写真

最優秀賞(敬称略)

鈴木せな(すずきせな) 富永小学校6年 ひめゆりの塔と出会って

優秀賞(敬称略)

  • 今野大智(こんのだいち) 古川第一小学校6年 平和
  • 菅原篤弥(すがわらあつや) 古川第五小学校6年 平和のためにぼくができること
  • 大和田芽花(おおわだめいか) 古川第三小学校6年 平和をじゃまするもの
  • 佐々木郁乃(ささきいくの) 古川第四小学校6年 平和とは

中学生の部

中学生の部入賞者4名が盾を持って市長と並んで写っている写真

最優秀賞(敬称略

矢野莉央(やのりお) 古川中学校1年 身近にあった戦争の記憶

優秀賞(敬称略)

  • 佐久間彩華(さくまあやか)  三本木中学校1年 平和のための犠牲は必要なのか
  • 久郷亜由(くごうあゆ) 鳴子中学校2年 戦争について
  • 阿部佑亮(あべゆうすけ) 松山中学校1年「核」に立ち向かった人びと
  • 高橋華純(たかはしかすみ) 松山中学校2年 ひいおじいさん、ありがとう

応募数

16校・134作品(小学生の部 11校・29作品、中学生の部 5校・105作品)

平和作文集

小学生の部 【最優秀賞】

ひめゆりの塔と出会って

富永小学校6年 鈴木せな

今年の夏、沖縄にいった。沖縄の青い海、青い空、おだやかな土地で思いっきり遊んできた。しかし、この沖縄は約70年前には戦場として、たくさんの人が亡くなった場所である。特に、私と年が近い人たちが沖縄陸軍の看護要員として集められた。わたしはひめゆり学徒隊に興味があった。彼女たちを知ることで、戦争の悲惨さや今の平和さが分かると思った。

ひめゆり学徒隊とは、第二次世界大戦の1945年アメリカ軍との沖縄戦の従軍看護要員として集められた14才から19才くらいの女子生徒である。彼女たちは最初、食事の準備、世話、包帯の交かんなど休まず寝ずの状態で働いた。そのうち負傷した兵隊の足や手を切断する仕事や、兵隊の傷口にわくうじ虫を取る仕事もさせられた。敗色濃厚となった6月18日、アメリカ軍が上陸した時、彼女たちに突然解散命令が出された。しかも、戦場のど真ん中でいきなり放置されたため、銃弾に当たったり爆弾や毒ガスでたくさんの人が亡くなった。その中には追いつめられて自害する人もいた。結果、240人の学徒隊のうち、136人が命を失った。

今回、ひめゆりの塔を訪れて、いろいろな話を聞き、戦争の恐ろしさを改めて考えさせられた。ひめゆりの塔は現在、当時と同じ所に慰霊碑と共にならび、ひっそりとおだやかに建っていた。そのギャップが余計に悲しく思えた。また、ガス弾をぶちこまれて多くの生徒が亡くなった防空壕も当時のまま残されていた。ここで無抵抗なまま殺されたことを考えると、とても怖くなった。

戦争はどういうものか。戦争は人が人を平気で殺し合う。どうして人間は戦争になるとそのような状態になってしまうのだろうか。ひめゆり学徒隊の生き残った方はこう言っていた。「私たちは何の心配も抱かず、むしろ積極的に戦争に向かわせたあの時代の教育の恐ろしさを忘れていません」と。戦争が正しいものであると、子どもの頃から教えられていたら,やはりそれが正しいと信じて大人になっていくと思う。平和を願う教育、命を大切に思う教育が大切なのだと思う。この戦争から約七十年がたち、実際に戦争を経験した人は少なくなってきている。戦争を知らない世代が多くなり、忘れられていってしまう。だが、この悲しい話を忘れることこそ、最大の悲しい事である。ひめゆり学徒隊や戦争に関わった全ての犠牲者たちの歴史を残すことが、これから生きていく私たちの使命だと思った。

最後に、私たちと同じくらいの年で悲しい死をとげたひめゆり学徒隊の人たちがやすらかに眠れるように心からお祈りして、平和な世界を築いていくことを心がけていきたいと思う。

小学生の部 【優秀賞】

平和

古川第一小学校6年 今野大智

ぼくは、戦争を知りません。お父さんとお母さんも戦争を経験していません。戦争といえば、ずいぶん昔にあったことのように思っていましたが、うちのおじいちゃんが、2才の時に戦争がはじまりました。おじいちゃんに聞くと、おじいちゃんのお父さんは、軍人にかり出されて、2ヶ月ほど訓練をしたそうです。そして、船で戦場に行く途中で戦闘機に攻撃されて、船が沈没してしまい、そのまま亡くなってしまったそうです。ぼくはその話を聞いて大昔のことと思っていた戦争がなんだか身近に感じました。自分たちのひいおじいちゃんが戦争で死んでいたなんて思いませんでした。ひいおじいちゃんが兵士になったのは、召集令状が来て、国が兵士になれというのです。国からの命令なので、ひいおじいちゃんは断ることができませんでした。断ることができなくて、兵士になり、戦争で死んでしまいました。こんな風に、死者を出す争いが、今もどこかでおきています。そんな戦争を調べてみて、一番印象深かったのは少年兵士たちです。道徳の教科書で前に少年兵の写真を見たことがありますが、それが自分だと思うと少し怖くなります。まだ未成年の十代だというのに、子どもたちが、銃をもって、人を撃って殺害したり、地雷にひっかかって、手足をふきとばされたりしている子どもたちがいます。子ども同士で殺し合いをしているのです。しかも、貧しい国の方では、少年兵士などめずらしくないというのです。まだ幼いというのに、戦争で子どもたちが殺し合うのは、残こくでいやな気分になります。子どもには、まだ未来があるのに…。夢があるのに…。子どもたちを争いにまき込む意味がわかりません。それに、少年兵など関係なく戦争は、たくさんの死者を出します。その死を悲しむ人は、その悲しみを一生背負っていくかもしれません。戦争が終わって、生き残っていても、戦争は、体にも心にもきずをつけていきます。今後悲しい争いをおこさないためには、平和への意識を強く持つことが大事だと思います。

小学生の部 【優秀賞】

和のためにぼくができること

古川第五小学校6年 菅原篤弥

ぼくには88才のひいおばあさんがいます。この夏、戦争について知りたくなり、ひいおばあさんの家に行きました。ぼくが、

「戦争って、どんなものなの。当時、生活はどうなったの。」

と聞くと、方言まじりで答えはじめました。

「私のおじいさんって人が満州っていうところに戦いに行ったんだ。他の男の人も行ってしまったもんだから、女の人が畑で力仕事をしなくちゃいけなかった。ああ、それから店には品が少ししかなかったなあ。あんなに苦しいことはねえ。今の生活は幸せなんだよ。」

そして、ひいおばあさんは話しているうちに当時のことを次々と思い出し、仙台空襲の様子やアメリカの飛行機が頭の上を飛んでいたときのおそろしさなどを語ってくれました。ぼくは、戦争について教わり、もう二度とやってはいけないという気持ちになりました。

ぼくは幸せ者です。平和な時代に生まれ、家族に囲まれて、毎日笑って生活することができています。しかし、もしもぼくが戦争の時代に生まれていたら、戦争で敵の兵士に囲まれていたでしょう。そう思うと、ぼくは背筋がゾッとします。そして、平和に生きているありがたみを感じさせられます。これから先の未来にも戦争がなく、平和で世界中の人々が安心していける世の中が続いてほしいと思います。

未来はだれも見えません。だから戦争が未来にないとはかぎらないのです。しかし、防ぐことはできます。これから先の未来の戦争を防ぐために、ぼくは何ができるのでしょうか。それは、伝えることだと思います。戦争を経験した人の話を聞き、それをぼく達の次の世代に伝え、戦争のおそろしさを何世代たっても忘れないようにするのです。そうすれば戦争がなくなるのではないかと思います。未来の人々が悲しい思いをしなくてすむように、ぼくたちが戦争を経験した人からバトンを受け取り、しっかりと次の世代へ伝えるということは大切なことでしょう。だから、ぼくは戦争について、もっとよく知り、より多くの人に伝えることが戦争をなくすために必要だと思うのです。

平和とは何かと聞かれたら、

「争いや暴力やけんかがなく、いつも安心して楽しく生きていけることです。」

と、ぼくは答えるでしょう。争いがなくなって、安心するからこそ実現できるものだと思うからです。争いが好きな人など、世界中どこにもいないでしょう。しかし、人間の欲やいかりが戦争をひきおこします。だから、これからは平和なことをあたり前だと思わずに大切にしていき、平和な世の中が続くようにしたら良いと思います。

小学生の部 【優秀賞】

平和をじゃまするもの

古川第三小学校6年 大和田芽花

平和をじゃまするものそれは、人々の幸せを破壊する災害や戦争のことだと思います。私は、人間自らが原因となる戦争の一つ太平洋戦争に注目しました。なぜ、太平洋戦争に注目したかというと、広島県に世界で初めて原ばくが落とされたことを知っていたからです。これは、今でも日本中のみんなが忘れずに、1年に1度もくとうをしてひばくして亡くなられた方々に1人1人がそれぞれの気持ちを届けます。私は、このように気持ちを届けることは当然かもしれないけれど、とても大切で良いことだと思いました。

そして私は、戦争を実際に体験した方々のお話をテレビで見ました。その話の中には、映画のような現実とは思えないおそろしい場面もあり、とてもおどろきました。自分は、戦争をしたくないという人や関係のない人がどんどんぎせいになっていくのです。その当時は、小さい子でも、家族がぎせいになり1人ぼっちになった人もたくさんいたでしょう。それに、夏休みに初めてくわしくお父さんからひいおじいさんの話を聞きました。私もひいおじいさんがガダルカナル島の戦争で、ぎせい者の1人になりました。おばあちゃんが生まれてすぐのことだったそうで、おばあちゃんは、ひいおじいさんとの思い出がほとんどないそうです。ひいおばあちゃんは、必死でおばあちゃんを育てたそうです。外国で亡くなったひいおじいさん、いつまでも帰りを待っていたひいおばあちゃん、とても悲しかったと思います。私は、お父さんがいない生活は、考えられません。なので、おばあちゃんの気持ちを考えると、とてもかわいそうです。そして、私はひいおじいさんと会ったことがありません。このように会えないのだと思うと、みんながさみしくなるように、1人がぎせいになることで、たくさんの人が大切な人が何もしていないのになんで殺されなければいけないんだろう、などと悲しい思いをすることになります。私は、もちろん戦争を体験していません。ですから、当時の人がどんな苦しみをしたのかくわしくは分かりません。でも、とても大変だったんだということは分かります。そして、戦争は、何があってもしてはダメなことだと改めて思いました。戦争では、必ずたくさんのぎせい者、ひ害者がでるし、戦争に行った人は、人を殺したくなくても戦わなければなりません。ですから、これからは、戦争がない平和な未来を作れたらいいなと思います。

最後に私は、今の時代の人の戦争に対する意見を調べてみました。すると、今後はお金で解決するという意見がありました。でも、私はお金で解決することは、正しくないと思います。確かに戦争がないのはいいけれど、たがいの意見も聞けず問題の結果が出てしまいます。ですから私は、じゅうぶんな話し合いをして問題の結果を出すことが正しいと思います。

そして、戦争のない明るく平和な未来を今の時代生きているみんなで築いていきたいと思います。

小学生の部 【優秀賞】

平和とは

古川第四小学校6年 佐々木郁乃

今年は、日本への原爆投下から68年がたつ年です。原爆というと、今でもその後遺症などで苦しむ人々がいると聞きます。

私は、東日本大震災を経験しました。あの時の体験は、今でも私の心に残っています。ゆれが起きた時、私は学校にいました。ガタガタとゆれが大きくなるにつれて、泣き出す友達もいました。教室の戸が、どんどんと開いたり、閉まったりを繰り返し、私たちの恐怖をさらに高めました。その後、家の人が迎えに来てくれ、家に帰ってからがまた大変だったのを覚えています。電気、ガス、水道が止まり、ストーブもつきません。料理することも出来なかったため、食べるものもほとんどありませんでした。私はこの時、これまでは平和で幸せだったのだとつくづく感じました。

「‟平和”とは何だろう。」と考えた時、「戦争がない世界を作ること。」と思っていました。しかし、今回の東日本大震災を経験して、私のこの‟平和”への考え方が少し変わってきたように思います。

震災後に2週間位たつと、ラジオ等で隣の県の福島の原子炉が爆発したことを知りました。家の人達は、慌てていました。なぜ慌てているのか、私には始めは意味が分かりませんでした。祖父に聞くと放射性物質というとても恐ろしい物質が飛び散ってしまったこと、また、広島や長崎に原子爆だんが落とされた時と同じようなことが起きているのだと教えてくれました。広島での原爆の話は、前にテレビ等で見たことがありました。全身焼けただれた人や黒こげになって亡くなってしまった人がいました。また、白血病という血液のガンになったり、全身がとてもだるいなどの原爆の後遺症に苦しむ人もいるということ、何よりも原爆が落とされた時、遠くにいた人でも、人を探しに原爆で焼けた場所に行った人も被害をうけてしまうということを言っていたのは、とても印象に残っていました。つまり、その物質が残っているうちは、近くに行ったら病気になってしまうということを言っているのだと私は思いました。すると、隣の福島で起きているということはその恐ろしい物質は飛んでこないのか心配になりました。案の定、私の不安は当たり、あまり外には出ない方が良いと震災後2週間たってから言われるようになりました。それからは、食べ物に気をつかったりと不便な生活が続いています。

私は、‟平和”とは何か、この震災後2年半がたつ中で考えこみました。電気を作るために使っていた原子炉の爆発でこのようなことになっているのに、あえて、原子爆だんを作っている国がまだあるのかと思うと、本当に悲しくなりました。なんておろかなのだろうとも思いました。‟平和”とは、世界中の人がみんな普段の生活を安心していける世界を作っていくことなのだと改めて思いました。

中学生の部 【最優秀賞】

身近にあった戦争の記憶

古川中学校1年 矢野莉央

8月15日、日本は68回目の終戦記念日を迎えた。その日は多くのニュース番組で戦争について特集が組まれていた。すると、一つの神社が映った。それは、東京にある「靖国神社」というところだった。そこには、戦争で命を落としてしまった人たちが祀られている。その神社を見たとき、祖母が独り言のように、

「ここに、私のお父さんが祀られてあるんだ。名前ものってるよ。」

とボソッと言った。私は初めて知った。曾祖父が戦死してしまったのは知っていたけれど、そこにいるとは思っていなかった。そして、母も何十年も生きてきて、自分の祖父のいる場所を初めて知ったという。とても驚いていた。母は、

「私達とはつながりがないものだと思っていた。昔、東京に住んでいたとき、何度か通ったよ。教えてくれれば、そこに行ってお参りしていたのに…。」

と言っていた。

このようなことがあり、私は「戦争」について考えさせられた。曾祖父は「太平洋戦争」で亡くなった。太平洋戦争は、昭和16年から昭和20年までの4年間続いた。日本対アメリカ、イギリス、オーストラリアの連合軍の戦争。勝ち目がなく、奇跡がおきなければ勝利できないことは分かっていたはずだ。赤紙が届き、その戦いに行った曾祖父。これから生まれてくる我が子や、家族を残し、国のために戦わなければならなかった。そして、一人でお腹の中の子を守っていかなければならない曽祖母。二人はどんな思いだったのだろうか。とても苦しくて、私には想像できないほど悲しかったと思う。他にもこのような思いをした人が、日本中に数えきれないほどいただろう。その後、戦争の真っ只中に私の祖母が生まれた。曽祖母は、すぐに戦地にいる曾祖父に我が子の写真を送ったという。そして、戦争中曾祖父は病気で亡くなってしまった。そのとき、一緒にいた仲間にこう言ったそうだ。

「俺は、もう動けないから、俺の事は気にしないで帰ってくれ。その代わり、この腕時計を家族に渡してくれ。」

祖母が生まれたのを知っていながら、その腕時計に思いを込めて仲間に託した。仲間の人達は、後ろ髪を引かれる思いで、

「必ず届けるからな。」

と言って泣きながら別れたそうだ。家族には、

「連れて帰りたかったけれど、どうしても連れて帰ってこれなかった…。申し訳ない…。」

と言って、曾祖父の形見、腕時計を手渡したという。そして、曾祖母は、

「こんな遠いところまでわざわざ届けてくれてありがとう。伝えてくれてありがとう。」

と礼を言い、受け取った。分かれる時もつらかったのに、どれだけ曾祖母はつらい思いをしなければならないのか、と思った。自分の子どもに指ひとつ触れることなく、実際に会うこともできないまま、戦地で亡くなってしまった曾祖父。最後に家族と顔を会わせることもできなかった。どんなにか無念だったろう。こんな悲惨なことがあるのか。終戦後、何年か経ち、遺骨が届いた。でも、それは誰のものか分からない。曾祖父のものかもしれないが、知らない人のものかもしれない。そのとき、12、3人の家族を支えていかなければならなかった曾祖母は無我夢中だった。だから、もう曾祖父のことは諦めかけていて、「今頃か…。」と思ったそうだ。そして、祖母が中学生の修学旅行のとき、代表で「靖国神社」に参拝したという。祖母も父がいなくて寂しかっただろう…。

祖母や曾祖母のように悲しんだ人はどれだけいただろう。曾祖父のように亡くなってしまった人も数えきれないほどいる。戦争は悲惨すぎる。国で戦い、勝っても負けても命を落とす人は大勢いる。そして、生き残っても心に深い傷を負い、一生背負っていくことになる。何の罪もない人を傷つけ、穏やかな暮らしと人の心を奪ってしまった戦争。そんなにまでして、国を上位に立たせたいのか。人を物のように容易に壊してしまう戦争。このようなことは絶対あってはならないと私は思う。もう2度と「戦争」は起きてほしくない。

今、私達は生きている。では、私達は何をしなければならないのか。何ができるのか。それは、国に命を捧げた人々のことや、戦争を風化させないことだと思う。曾祖父らの魂は国に永遠と生き続けるだろう。

「ひいおじいちゃん、私はあなたの魂と共に生き、『身近にあった戦争』を後世に伝えていきたいと思います。これからも、どうか見守っていてください。私はあなたを誇りに思い、そして、ここに私がいることを感謝します。」

中学生の部 【優秀賞】

平和のための犠牲は必要なのか

三本木中学校1年 佐久間彩華

「平和」の意味は戦争がなく、世の中の穏やかなさまのことを言い、「犠牲」の意味はある目的のために労力、財物、生命をささげることを言います。

私は、ときどき聞く「平和のための犠牲」という言葉について考えました。

私は、戦争を知りません。しかし、その時政府は「ぜいたくは敵だ」というスローガンを立て、戦争中は配給制度がありましたが、それも減っていき、人々は栄養失調になっていきました。

これは、戦争に行かない人たちが死んでしまうかもしれないが、勝てばたくさんの利益がある。だからがまんしてくれ。という事だと私は思いました。

ほかにも、戦争で死んでいった兵士たちは初めは良かったものの、後はもう降参すればまだ犠牲は少なかったのかもしれないと思いますし、兵士たちは、政府がもう負けると薄々分かっていたとしたらその若者の未来は、その若者の命とともに断ち切られたという事になってしまうのではないかと思いました。

そのせいでうまれなかった子供達だっているかもしれないという事も考えると、言葉にならないほどの犠牲者がいたのです。

そんな戦争が終わった日本。

「今の平和な日本はたくさんの犠牲があったからだ。」と言われている時もある。

しかし、本当にそうだろうか。

この犠牲が無くても、平和な日本は実現できたのではないのだろうか。

たしかに人間には欲があるが、そこまでしなくても、いいと思う。

しかし、その時日本は、物資が少なく、土地も少ないため、ほかの国を領地にしようと思ったりするなどは考えられる。

その事を考えると、その頃の政府は、何もかもを犠牲にしたと思える。

しかし、勝ったとしたら、それはそれで恐ろしい国になっていただろう。

すべてを兵に回し、市民は貧しいままで、平和を自国から消していくようなものです。

そうすると、一番よかったのは、負けた事により、道をまちがえずに済んだことかもしれないと思います。

こうして道をまちがえずに平和へ進む日本ですが、いまだに残る戦争の傷はたくさんあります。

原爆の後遺症を持ち、生きた地獄にいる人々や、空襲などで親をなくした子供、まだどこかにある不発弾などの兵器など、たくさんの問題をかかえています。

この問題は大変な事です。しかし、このことを伝えていくことができるなら、伝えることが大切です。

なぜなら、日本も、こんなまちがいをするのは、いやだと思うからです。

日本は、大きな戦争を始めてしまった。だからこそ、次の間違いを止めなければいけないと思います。

それに、まだまだ世界は平和とは言えないでしょう。外国では、まだいがみ合いや銃を持った人が出歩く国もあります。

ここでまた戦争が起こってしまったら、そこで止められる側の国じゃないといけないとだめだなと思いますし、せめてものつぐないくらいにしかならないかもしれませんが、平和に近づけるように、さらに努力を重ねていけたらいいと思います。

そして、私たちのような、まだ大人になっていない人でも、伝えないといけなくなってしまうから、今からでも、行動して、さらに平和について深く考えたり、大人になったときに、たくさんの人に、戦争を実際に知る人たちや、日本の政府が行った事、にそして、日本のまちがいを正しく伝えていかないといけません。

そして、「平和のための犠牲」は、たしかに必要ではなかったかもしれません。

しかし、今では遅いので、これかも考えなければいけないと、私は考えました。

中学生の部 【優秀賞】

戦争について

鳴子中学校2年 久郷亜由

空をおおうたくさんの爆撃機。焼夷弾がふりそそいできます。街が燃えさかり、炎が家々をやいていきます。本当におそろしい光景でした。人々は、どうなったのでしょうか。戦争の特集の番組をテレビで見ていたときにそれを見て、衝撃を受けました。テレビを見て、ふと、小学生のとき図書館にあった「はだしのゲン」を思い出しました。それは、主人公のゲンが広島で原爆にあったところから始まります。内容は、原爆にあった人たちは放射能で皮膚は焼けただれ、体じゅうに大やけどをおった上に爆風で飛んできたガラスの破片が突きささっているという悲惨な内容でした。今、改めて日本人として戦争のことをもっと知るべきだなと思いました。

今なお、世界中を見ると争いは絶えなく起こっています。国と国の争いだけでなく、宗教や政治などの考え方の違いでも、私たちと同じくらいの子供が大人と一緒に銃を持ち、戦地へとかりだされます。なぜ、人はここまでして争いをおこし、人を傷つけてしまうのでしょうか。

私自身、これまであまり戦争のことについて深く考えたことはなく、テレビや本などもあまり見たことがありませんでした。今年は、戦争に関する映画なども多くあり、私なりに調べてみることにしました。終戦からたった68年しかたっていません。当時の人たちは、食べ物もなくいつ来るか分からない空襲におびえていました。軍隊から赤紙を渡されたら、個人の意思とは関係なく戦地に行かされました。戦争が終わっても食べ物はなく、住む家もなく餓死してしまった人もいます。広島、長崎の原爆では多くの人が犠牲になりました。放射能の影響で抜け落ちた髪、火傷の跡のひどさで人々から迫害を受けた人もいるそうです。自分自身がその時代に生きていたらどうしていたかということすら想像することもできません。

今の私たちは、とても便利な世の中に暮らしています。食べ物に困ることはなく、科学も進歩し便利すぎるくらいの世の中になりました。携帯電話、スマートフォン、インターネット、テレビ、パソコン、自動車、医療の進歩など数えたらきりがありません。でも、それで果たして平和と言えるのでしょうか。戦争がない世の中は、平和だと私は考えていました。しかし、今のこの便利な世の中にも自動車や工場からでる二酸化炭素やプラスチック容器ができてごみの増加による地球環境問題などさまざまな課題がいくつもあります。

私たちがこれから先、していかなければならないことは、便利な世の中に頼り過ぎないことだと思います。たしかに、インターネットやゲーム機ができたことによって人々の娯楽が増え、医療技術の進歩により、人間の寿命は延びています。今後もさまざまな技術の開発は必要不可欠なものです。しかし、それに頼るだけでなく自分でできることは自分できちんと実行することも大切なことだと考えます。そして何より心が通い合っていなければならないと思います。

そして、戦争の悲惨さを後世に伝えていくことも私たちの重要な役割です。この先、戦争体験者はどんどん高齢化し、いなくなってしまうでしょう。つまり、実をもって体験したことを伝えるという機会は皆無になってしまうということです。私たちが、これまでお年寄りから聞いた話や、本や映画などを通して知った戦争の知識を将来子どもたちに伝えていかなければなりません。二度と戦争をくり返してはならないことを言い続けることが、なによりも平和への近道だと思います。

最後に、人間はこれまで色々な争いをしてきました。その結果、得たものはいったい何だったのでしょうか。私たちはこれからも、平和とは何かということを追い求めていかなければなりません。人間一人一人の意思が尊重され、互いに認めあえる世の中にしていきたいです。

中学生の部 【優秀賞】

「核」に立ち向かった人びと

松山中学校1年 阿部佑亮

この夏、僕は一冊の本を読んだ。「『核』に立ち向かった人びと」という本だ。この題名に僕は強く引き付けられた。読み終わると、僕には一つの疑問が湧き上がった。それは、平和を実現するためには何が必要なのか、という疑問だった。

今から68年前の8月、6日と9日にそれぞれ広島、長崎に原子爆弾が投下され、たくさんの人々が亡くなった。そして、今でも白血病に苦しんでいる人々がいる。さらに昭和24年、ビキニ環礁では日本のマグロ漁船「第五福竜丸」が水爆実験によって被爆した。しかしその後この事実が消えさろうとしていた。なんと船体が東京の夢の島の廃船処理場で放置されていたからだ。そんな中、昭和43年、普通の会社員だった武藤宏一氏は平和を願い朝日新聞に投稿した。その内容は人類初の水爆実験の犠牲者である「第五福竜丸」とその乗組員の真実を語るものだった。その投書には「沈めてよいか第五福竜丸」という題名がついていた。武藤氏は、原爆ドームを守ったようにこの船を保存し後の世代に知らしめなければならない、つまりこの船を見て、事実から目をそらさず、平和の実現について考えてほしいと訴え続けたのだ。武藤氏の訴えにより、昭和51年、都立第五福竜丸展示館が完成した。武藤氏は家でも戦争のことを調べ家族に話していたといい、平和への思いが強い人だと思った。

そして、武藤氏以外にも、放射性降下物「死の灰」と闘った科学者三宅泰雄氏、原爆文献の収集に執念を燃やした詩人長岡弘芳氏、反権力を貫いた医師田村清氏、人道的運動を目指し原水爆協会の統一にも腐心した原水協理事長安井郁氏、産業界から反核平和の声をあげた松本広治氏、反核平和の実践に徹した知識人中野好夫氏など、たくさんの人々が反戦平和を唱え続け努力していたことが紹介されていた。みんな武藤氏と同じような思いをもっていたことが僕に伝わってきた。

僕はこの本を読むまで、核兵器の被害や核について、あまり多くのことは知らなかったし、それほど深く興味をもつことはなかった。

ついこの間、ニュースでロスアラモス研究所が国立指定公園になるかどうか議論されているというものを見た。ロスアラモス研究所とは、広島・長崎に落とされた原爆が作られた場所だ。最初はあまり気にしていなかったが、「『核』に立ち向かった人びと」を読んでからは、このニュースに対して、僕はどんな意味をもっているだろうかと考えるようになった。そして、原爆や水爆による被害をくわしく調べたり、祖母に戦争のときの話を聞いたりするようになった。

ロスアラモスの国立指定公園になるかならないかに対する意見は世の中でも様々だが、僕の意見は反対である。調べてみると、ロスアラモス研究所では、原爆の構造や破壊力についてなど軍事的なことはたくさん展示されているが、投下後の被害についてなどの原爆の悲惨さについては小さなスペースにひっそりと展示されているような状況である。僕としては、核兵器は単に「人殺しの兵器」ということも事実であり、それによって無意味に人々が死んでいるという悲惨さをもっと伝えるべきだと思った。

そして、僕は祖母に戦争の話を聞いた。祖母は8才で終戦を迎えたそうだ。昭和19年サイパン島がアメリカに占領されB29がたびたび通過していたそうだ。その影響で学校で勉強していても、すぐに家に帰されて、なかなか勉強が進まなかったと言っていた。家では、満足に食べ物を食べることも難しく、毎日の生活もやっとだったと言って、くわしく教えてくれた。とてもつらい生活をしていたんだと僕は思った。

学校で友達に、原爆やビキニ環礁の水爆実験について知っているかどうか聞いてみた。原爆のことは知っている人は多かったが、ビキニ環礁の水爆実験に関しては知っている人は少なかった。僕は、みんなも戦争や核などに関連した本などを読んだり、話を聞いたりして、もっと事実を知ってほしいと思った。そして戦争や平和について考えてほしい。

いずれ僕も社会人になって原爆や水爆のことを伝える側になる。武藤氏らが、努力して平和を世に訴え続けてきたことを無駄にしてはならない。そして二度と戦争をくり返さないということを僕たちも訴え続けていかなくてはいけない。そうしなければ日本、いや世界の平和の実現はありえない。日本の国民一人一人が、原爆や水爆のことを次の世代に伝え、新たな平和を実現させ、末永く平和を維持させる。その中の一人として、これから原爆・水爆とその被害の知識とそれを伝える力を養い、平和のために力をつくす人間を目指したいと僕は思う。

中学生の部 【優秀賞】

ひいおじいさん、ありがとう

松山中学校2年 高橋華純

三沢栄。私の曽祖父です。大正7年生まれの曽祖父は既に亡くなり、祖母の家の仏壇から私達を見守っていてくれます。その遺影の曽祖父は凛とした表情をしています。私は曽祖父が戦争に行っていたことを以前、祖母から聞かされ知ってはいたのですが、どこで戦ったのか、どんな生活をしてきたのか全く知りませんでした。しかしこの夏、祖母に戦争のときの話を聞いたり、戦争の資料を借りて読み、曽祖父のことや戦争のことを調べたり、平和について考えてみました。

資料によると曽祖父は、22歳のとき(昭和15年)に仙台歩兵第4連隊に入営し、以来引き続く大東亜戦争に参加して長い軍隊生活を送りました。さらに、第13師団第104連隊第1中隊に配属され、郷土部隊史に残る激戦に参加していきました。また、同17年ごろは沙市(中華人民共和国のイーチャン)で戦闘に加わり、同19年ごろには独山方面(中華人民共和国黔南プイ族ミャオ族自治州独山県)で退却する敵軍をしゃ断するために切込隊の指揮をとりました。鉄砲で足を撃たれるなどの傷を負いましたが、常に前線の先兵を務めたということです。そして敗戦を知り21年に復員し、その年の秋に結婚して三沢家に婿に入ったそうです。また戦争によって2人の弟を亡くしたそうです。

私は、これらの資料を見て、戦争はとても悲しいことだと改めて思い、いろいろなことについて考えさせられました。

戦争は全ての人がつらい思いをします。戦争へ行った人はもちろん、その人を待ち続けていた家族も同じくらい大変でつらかったはずです。曽祖父やその弟たちにも家族がいました。大切な人が戦争に行き、ずっと待っているのは、不安で心配でとても苦しかったと思います。もしも、私がその時代に生きていたとしたら・・・、もしも、家族のだれかが戦争に行くことになったら・・・、と考えると、とても怖いです。きっと、不安で一杯になると思います。全ての人がつらい思いをする、恐ろしい戦争は、もう2度と絶対起きてはいけないと思いました。

戦争で失われた命はとても大切なものでした。戦争では多くの貴重な命が失われました。私は、改めて命の大切さについて考えました。家族が亡くなった悲しみについて、まだ私は知りませんが、その悲しみは、とても大きくて深いと思います。また、1人の命が失われると、その人の家族や友達など何人もの人に悲しみが広がります。人の命を奪うことは、そのまわりにいる多くの人々の大切なものをも奪うことと同じです。

そして最後に、「今はとても幸せだ」ということを考えました。今、日本は戦争が起きていません。もしも今、戦争が起きたとしたら、また多くの人の命が失われ、日本中の人々がつらくて悲しい思いをします。戦後、日本中の人々が前の生活ができるよう、またはそれ以上の生活ができるようにと頑張ったおかげで、今こうしてみんなが幸せに暮らしていけるのだと思います。だからこそ、平和は尊いものだと思います。戦争で苦労した人々の頑張りのおかげで今の平和があるのです。戦争などの悲しい争いが起きず、平和に幸せに生活できていることに感謝していきたいです。この資料を見るまで私は、今の生活が当たり前だと思っていました。しかし、戦争の様子を写真で見たら、今の日本と全然違っていてショックを受けました。戦争をしているときの日本の様子は、恐ろしかったです。戦争をしているときの日本と、今の日本を比べると、私はどんなに幸せなのかがよく分かりました。だから、これからもずっとずっと平和でいてほしいというのが、私の願いです。絶対に、戦争のような怖くて悲しくてつらくて、恐ろしいことがこれから先、起きないようにと願っています。また、戦争が起きてしまったことを、忘れてはいけないとも思います。残念ながら戦争は昔、起きてしまいましたが、戦争の悲しさや苦しさを忘れてしまったら、また同じようなことが起きてしまうかもしれません。だから、私は戦争の資料で見たものを忘れないようにし、私の子どもが生まれたときに曽祖父のことも一緒に話してあげたいです。

私はこの夏、戦争や平和について考えさせられました。戦争の恐ろしさや、命の大切さ、平和のありがたさを曽祖父から教えてもらいました。曽祖父について知らなかったことも、祖母から聞いて知ることができ、写真でしか知らなかった曽祖父の存在が、今までより身近に感じられるようになりました。戦争のことを忘れずに、平和な毎日に感謝しながら生活したいです。

「ひいおじいさん、ありがとう。」

参考資料
  • 『宮城の群像と足跡』地方人事調査会編集部編 昭和54年
  • 『中支を征く』中支従軍記念写真帖刊行会編 昭和15年

この記事に関するお問い合わせ先

政策課

〒989-6188
大崎市古川七日町1-1 市役所本庁舎3階

電話番号:0229-23-2129(政策企画担当、地方創生担当、多文化共生担当)、0229-23-2245(日本語学校推進室)
ファクス:0229-23-2427

ールフォームによるお問い合わせ