平和作文コンクール(平成26年度)
小・中学生平和作文コンクール(平成26年度)
大崎市では、子どもたちの平和に対する思いや考えを発表する作文コンクールを毎年実施しています。
平成26年度は239作品の応募があり、審査の結果、最優秀賞として小学生の部では岩出山小学校5年矢内未来さんの「忘れられない八月九日」が、中学生の部では古川東中学校3年川上結衣さんの「平和を願って」が選ばれました。入賞作品は下記のとおりです。
小学生の部
市内小学校11校から33作品の応募がありました。

最優秀賞(敬称略)
題名 |
学校名・学年 |
氏名(敬称略) |
---|---|---|
忘れられない八月九日 |
岩出山小学校5年 |
矢内未来(やないみく) |
優秀賞(敬称略)
題名 |
学校名・学年 |
氏名(敬称略) |
---|---|---|
語り継ぐ大切さ |
古川第一小学校6年 |
秀岳侑美(ひでたけゆうみ) |
平和って… |
鹿島台小学校5年 |
日野訓孝(ひのくにたか) |
ぴいじいちゃんの体験 |
鹿島台小学校6年 |
西野蒼(にしのあおい) |
平和な時に生まれて |
田尻小学校6年 |
小野寺竜也(おのでらりゅうや) |
中学生の部
市内中学校8校から206作品の応募がありました。

最優秀賞(敬称略)
題名 |
学校名・学年 |
氏名(敬称略) |
---|---|---|
平和を願って |
古川東中学校3年 |
川上結衣(かわかみゆい) |
優秀賞(敬称略)
題名 |
学校名・学年 |
氏名(敬称略) |
---|---|---|
音の記憶 |
古川北中学校3年 |
小野寺春希(おのでらはるき) |
第二次世界大戦と平和 |
古川東中学校3年 |
河原千尋(かわはらちひろ) |
平和な時代に生まれて |
古川南中学校2年 |
松本潤(まつもとじゅん) |
戦争はだめだよ |
三本木中学校2年 |
早坂和真(はやさかかずま) |
平和作文集
小学生の部【最優秀賞】
忘れられない八月九日
岩出山小学校5年 矢内未来
私は、8月9日に家族で長崎県に行ってきました。8月9日は、長崎県に原爆が落とされた日なのです。1945(昭和20)年8月9日、午前11時2分、長崎県の街は一発の原爆により、大きな被害を受け、多くの人々がなくなりました。かろうじて生き残った人々も、身体や心に深い傷を負い、多くの被害者が今でも苦しんでいるそうです。
長崎県に行く前に父から原爆の話を聞かされていましたが、
「原爆なんて知りたくない。原爆資料館とか平和公園なんて行きたくない。」
と、言っていました。原爆はこわいので、見たくない・知りたくないのです。しかし私は気付きました。私が、現実から目をそむけているということに。私は、原爆資料館に行くことに決めました。
資料館の中に入ると、周りはうす暗く、原爆当時の写真や服などがたくさんかざられていました。こわい気持ちをおさえ母の手をにぎっていました。写真には、やけどをした人たちや、こげてなくなってしまった人たちが写っていました。かわいそうという気持ちと、こわいという気持ちがまざって、なみだが出そうになりました。写真や、原爆でとけてしまったビンを見て、(何でこんなことをしたのだろう。)と、思いました。原爆の実際の大きさも見てきました。大体、たたみ一枚分の大きさでした。広島県に落とされた原爆よりも大きいそうです。原爆が落ちたときの映像を見ると、空高く黒いけむりが上がり、街が焼けていました。
原爆落下中心地も見てきました。その中心地から、1キロメートル以内では、一般の家屋はこなごなにこわされました。3キロメートルにおよぶ被害がありました。また、当時の人口約24万人中、死者・負傷者が半分以上だったそうで、悲しくなりました。
私はふだん戦争について、考えたことがありませんでした。テレビでの外国の紛争のニュースを見ても、あまり聞きたくないと思い、さけていました。しかし、長崎へ行き、日本も戦争をしていた時代があったということを肌で感じ、くわしく調べてみたいと考えるようになりました。夏休みが終わり「戦後の日本とわたしたちの歩み」という本に出会いました。昔は、道も今のように立派ではなく、建物も高いビルなどはありませんでした。この本を読み、長崎の夜景を思い出しました。69年前の原爆で何もなくなってしまった長崎の街が、きれいに復活していておどろいたことがよみがえってきました。長崎の人々の、協力や努力がこのような景色をつくり出したのだと思いました。
平和公園では、毎年平和祈念式典が行われています。戦争は、過去のできごとではなく、今後も私達が向き合っていかなければならない課題です。今も、つらい思いをしている人がいるということを受けとめ、これからも平和をいのり続けていきたいと思います。
小学生の部【優秀賞】
語り継ぐ大切さ
古川第一小学校6年 秀岳侑美
私のぴいちゃんは、100才で亡くなりました。それは、3年前の震災後、すぐのことでした。ぴいちゃんは、耳がとおくて、あまり話をすることができなかったけれど、良いことは良いと思いっきりほめてくれて、だめなことはだめと、しっかりしかってくれました。
戦争のことを深く知るようになったのは、「永遠の0」という映画を観にいったときからでした。その映画を観るまでは、自分と戦争は、かけはなれたもので、戦争という言葉を耳にしても、身近に感じることはできませんでした。映画のぶたいは、第二次世界大戦で、その映像とともに、戦争の恐ろしさを初めて自分の目で感じることができました。自分の大切な人に会うこともできず、会いたいと口に出すこともできない時代でした。そんな時代は、私には考えることもできないくらい悲しいです。その日の帰りに、母は亡くなったぴいちゃんのことを私に話してくれました。実は、ぴいちゃんも、第二次世界大戦で、仲間とともに、戦場に向かったそうです。召集令状が届いたとき、自分も、家族も、行きたくない、行かないで、と口にできなかったそうです。戦争に行く日は、家族と会うのは、この日が最後だと覚ごして家族と別れたそうです。訓練は毎日厳しく、それはそれは大変だったそうです。ゆいいつの楽しみは、仲間と星をながめながら、自分の大切な家族のことを話したり、ふるさとで行われる祭りの話をしあったりすることだったそうです。
戦地に出発する日の朝5時、ものすごいばく音とはげしいゆれとともに、船に大量の水が入り、船の前方がしずんだそうです。しかし、ぴいちゃんは、あきらめることはありませんでした。機械が大好きで、船の勉強をしていたため、バルブをしめて水が入ってこないようにできたそうです。それからぴいちゃんは、仲間と一緒に何キロメートルも海を泳いで、何とか和歌山にたどりつくことができたそうです。
私がぴいちゃんの立場であったら、船がしずんだとき、きっとあきらめていたでしょう。しかし、あきらめなかったぴいちゃんを、見習いたいです。ぴいちゃんが、しっかりものだったのは、きっと、この戦争でのつらい日々があったからだと思います。それに、映画やぴいちゃんの戦争体験の話をきいて、今まで知ることがなかった戦争の事を少しでも知ることができてよかったです。そして、戦争で戦ってくれた人たちがあるからこそ今の私たちがいるのだということを忘れないようにしたいです。
私は、こうしたお話を心に残しながら、このぴいちゃんの話を大人になっても子供達に語り継いでいきたいです。そして、昔の人々の苦労を忘れずに、いつまでもこの平和な暮らしが続くように願っています。
小学生の部【優秀賞】
平和って…
鹿島台小学校5年 日野訓孝
『平和』ってなんだ?今って平和なの?僕達がいるこの時代は、内外とも平和が達成されるという意味で『平成』とした、とお父さんが教えてくれました。僕が平和を考えるようになったきっかけは、ある曲の歌詞からです。「焼け跡の灰の中から強く高く飛び立った落ちて行く夕日めがけ西の…」それは、剣道の試合に行く朝、車の中で聞いた曲、頭に残ってはなれなかったその歌は、試合中頭の中でずっと聞こえていました。なんだかすごく頑張ることができて優勝しました。この歌詞で色んな事を思い出します。震災、津波で連れて行かれたじいちゃん、復興、新しい家、その歌詞を調べるまでは…。
後半の歌詞に、1945(ナインティンフォーティーファイブ)焼け跡から遠く飛び立った今、とありますが僕は、1945年に何があったのかが気になりました。毎年8月になるとテレビでやっているのでわかっている人もいると思いますが「終戦」です。それだけ聞いても終戦はピンと来ませんが震災の経験があってこの曲の歌詞を読みなおすと、目に浮かぶようでした。そして調べて行くうちにドイツでのユダヤ人迫害や、イタリアの独さいや、日本が中国や韓国を侵しゃくしたためアメリカに原ばくを落とされた事、しかも日本、ドイツ、イタリアは同盟を結んでいた事、おっぴさんが、軍人だった事等…。
僕は、小学三年の時「コルチャック先生」というミュージカルに出演した事があり、ポーランド人の孤児の役をしました。心から泣きながら演じた役でした。ヒットラーにトレブリンカで虐殺された、ユダヤ人ポーランド人。なんで、こんなひどい事を同じ人間同士でと思う事ばかりをすごして、敗戦国になったこと、その負けた国、日本から、立ち上がり今がある事、とてもすごいと思ったのですが本当に今は「平和」なのでしょうか?
戦争って誰が始めたの?
なぜ始めたの?
日本がしかけたと外国の人は言いますが、本当なの?
ニュースの集団的自衛権とか、辺野古とか、渋谷の焼身自殺の報道規制とか…。なんだか、戦争を始めたころの日本に、時代は逆走しているように感じるのは僕だけなのでしょうか?
僕はこれから大人になるまでの間に、たくさん、日本の歴史、世界の歴史を勉強して、同じ失敗をくりかえさないように、本当に、「平和」にくらせる日本になるように、僕ができる最大の事を頑張っていこうと思いました。
小学生の部【優秀賞】
ぴいじいちゃんの体験
鹿島台小学校6年 西野蒼
私のぴいじいちゃんは、第二次世界大戦中の8月6日、広島にいました。ぴいじいちゃんは陸軍通信隊衛生兵として広島にいましたが、きせき的に原子ばくだんのひ害にはあいませんでした。でもその後原ばくの後遺しょうが現れ消える事はなかったそうです。原ばくは一っしゅんにして多くの人を苦しめ、さらに戦争が終わってからも、多くの人を後遺しょうでなやませたと聞いて、
とてもおそろしいな。今の時代にもあったら私はどうなっていただろう。
と思いました。でも、そんなおそろしい原ばくに立ち向かった日本の兵隊さん達は、とても勇かんだという事が分かりました。
ぴいじいちゃんは、
「米国は原ばくで人体実験をしました。知識や技術が進んでいる国としてやるべきではありませんでした。」
と言っていました。確かに知識や技術が進んでいるなら、それを多くの人をきずつける事ではなく、自分達の国を良くする事に生かすと良いと思います。
私のもう一人のぴいじいちゃんは第二次世界大戦の時に特こう隊に選ばれましたが出兵する時に終戦しました。私だったら、特こう隊に選ばれた時、こわくて泣いてしまうかも知れません。でも国のために決心したぴいじいちゃんは、とても勇気があると思います。
今、日本に平和があるのは、日本のために戦った兵隊さん達やそれを見守り、応えんし続けた国民のおかげだと思います。平和とは何か、しあわせとは何か、と考えるきっかけとなるぴいじいちゃんたちがいてくれた事に、感謝します。私の知っている優しいぴいじいちゃんは、本当は勇かんでとても強い人でした。ぴいじいちゃんに聞いたとてもおそろしい戦争を二度と起こさないために次の世代へさらに次の世代へと語り伝えていくのが私達の役目だと思います。私達が出来る事は、すぐにでも実行して争いのない世の中を作り上げていきたいです。
小学生の部【優秀賞】
平和な時に生まれて
田尻小学校6年 小野寺竜也
戦争には、はっきり言って興味がありませんでした。
毎年8月になると、終戦記念の番組ばかりで、つまらないと思っていたからです。
けれど、一枚の写真を見て、作文を書こうと思いました。
その写真とは、アメリカ軍の報道写真家、ジョー・オダネルさんが、長崎の原ばくが投下された直後に撮影したものでした。
少年は背中に、赤ちゃんをおんぶしていました。お母さんから、写真について「どう見える?」と聞かれて、お兄ちゃんが眠っている赤ちゃんをおんぶしている、と答えました。お母さんが、写真について、その文章を読んでくれました。
僕は、すこしこわく、そして悲しくなりました。
少年がおんぶしていた赤ちゃんは、死んでいました。妹か弟を、焼き場で焼いてもらうために待っている少年の姿を写したのが、「焼場に立つ少年」でした。
写真の中の少年は、僕と同じ位の年れいで、くちびるをかみしめて、泣かないようにがまんしているのが分かる位、手をギュッとにぎりしめていました。
なんで昔の人は、戦争なんかしてしまったんだろう、どんなにたくさんの人たちが苦しい思いをしたんだろうと、思ったのと同時にもしも僕が、その時代に生まれていたら、きっと生きてはいけないと思いました。
そして、僕には妹や弟はいないけど、少年の立場になった時、同じことができるかと聞かれたら、僕にはできない、この少年はどんなに悲しかったんだろう、そう考えたら、涙が止まらなくなりました。
泣いている僕に、今もどこかで戦争をしている国があって、そこでは小さな子供など関係なく、けんじゅうを持って戦っているんだよ、と言って、お母さんは悲しそうな顔をしました。
僕は今、とても平和な時を生きています。
だけど、戦争のことを、つまらないの一言だけで、知ろうとしないことは、はずかしいことだと思いました。
そして、一日でも早く、戦争という悲しい争いが無くなることを願います。
中学生の部【最優秀賞】
平和を願って
古川東中学校3年 川上結衣
戦争から69年がたった今、私達の身の回りでは戦争を経験した人々がだんだん減ってきています。もちろん、両親は経験していません。祖父・祖母も生まれてはいたものの記憶にはないそうです。69年という月日がたち、現代の日本人はあの激闘の時代を忘れかけているのではないでしょうか。私は最近、本や映画を通して戦争について深く考え興味を持ちました。
私の曽祖父は戦争でこの世を去りました。仏壇の横には、たくさんの勲章をつけた曽祖父の写真があります。そして、曽祖父の家の裏山には防空壕があり、中に入るとひんやりと冷たくてそこだけ時が止まったかのようです。このような事実がこんな身近なところにあることを初めて知った時は驚きと同時に、戦争の恐さ、悲しさ、切なさを感じました。69年という時間は長いようで実はまだ、最近のことなのかもしれません。
私の曽祖父は、戦死ではなく戦地で病にかかり命を落としたと聞きました。年齢は20代前半だったそうです。戦争中、病にかかった曽祖父はロシアにいましたが、敵国だから手厚い治療をされることはなく、亡くなったそうです。日本で治療すれば助かったというのに…。昔の日本では子供の頃から「海外の国はみな敵国だ。兵隊さんは私たちの母国・日本のために世界を相手に闘っている。だから、私たちも贅沢な生活はしてはいけない。」と教えられてきました。この教訓に反したり逆らうような行動をすれば幼い子どもでも殴られます。戦争中は子どもも女性も一緒に闘います。
自分は今、中学3年生です。もし自分があの時代を生きていたら…と考えると大きな恐怖心に包まれます。私の家族には父と母、大学生の兄、そして小学生の妹がいます。父と兄は赤紙で戦地へ召集され、妹は学童疎開で遠くはなれて生活することになり家族はバラバラになってしまいます。もしかしたら永遠の別れになってしまうかもしれません。考えると本当に辛いことです。
私は以前、母と二人で「永遠の0」の映画を見ました。この映画を見てから「平和」について深く考えさせられました。真珠湾攻撃や太平洋戦争、そして神風特攻隊を舞台に、「臆病者」と呼ばれた「天才パイロット」宮部久蔵の物語です。死ぬのが当たり前の時代に、彼は愛する妻と娘に「必ず生きて帰ってきます。」と言って戦地へと向かいます。兵士たちの間では「死ぬのが怖いんだろう。」と彼は馬鹿にされていましたが、戦闘機の操縦は誰よりも優れていました。みんなに流されることなく、自分の思いを貫き行動した宮部は臆病者ではなく強い心を持った人なのだと思います。
私はこの映画や原作の本を読んで、宮部の「どんなに苦しくても生き延びる努力をしろ。」という言葉に胸を打たれました。この言葉は今の私たちにも通じることだと思います。思春期の私たちには様々な悩み、苦しみもあります。勉強への不安や友人関係の問題などイライラすることがあるけれど、それらを乗り越え努力することで将来につながると思います。
今の私たちがこうやって家族と一緒に平和な生活を送れるのは、あの時代を生き抜いてきた人々がいるからです。日本は8月15日に終戦となりました。その後日本は少しずつ復興し世界との交流も盛んに行われるようになり、今では戦争がなかったかのようです。私はあの頃の日本人は国家に洗脳されていたのかなと思いました。そう思うと本当に悔しいし悲しいです。
現在、世界各地で紛争が続いています。どうして戦わなくてはならないのでしょう。紛争が続けば続くほど、たくさんの尊い命が失われていきます。世界中が平和になるためには人を殺さなくてはいけないのか、いじめをしなくてはいけないのか…。私は決してそれらのことは許されることではないと思います。世界で唯一の被爆国でもある日本人は戦争の悲惨さを、無意味であることを世界に発信していかなければいけないのだと思います。
人間は1人1人が必要とされて存在しているのです。だから自分の大切な命を無駄にはせず自分らしく一生懸命に生きることが平和につながると私は信じています。そして、いつか全世界の人々が笑顔で平和を手にすることを願っています。
中学生の部【優秀賞】
音の記憶
古川北中学校3年 小野寺春希
甲子園に鳴り響く空襲警報のサイレン。私は幼少の頃からこのサイレンが怖かった。試合開始と終了時に鳴り響くサイレンを聞くと、なぜか一人ぼっちになってしまうような不安が迫ってくる。中学校で戦争の歴史を学び、70年前日本も戦争をしていたことを知ると、幼少期に感じた「怖さ」とは違った、また別の恐怖を私は感じるようになった。またいつか戦争が起こるかもしれない。怖い。そして、日本が戦争をしていたことを改めて考えさせられた。当時の日本人はつらい思いをし、たくさんの人々が亡くなった。勝つことを信じ、生活のすべてを戦争のために捧げた人々。空襲警報が聞こえてくるたび、今にミサイルが自分に落ちてくるのかとびくびくしている。甲子園大会のサイレンを聞くたび、戦争のことが頭をよぎる。しかし、結局行きつく答えは「戦争の時代に生まれてこなくて良かった」だった。
なぜ空襲警報のようなサイレンが甲子園大会で使われているのだろう。野球好きな祖父に聞いても「分からない」と言う。インターネットで調べていくうちに、私はこのサイレンの重みを知らされた。『サイレンが使われるようになった起源はよく分からない。しかし、戦争当時は戦闘の合図や、招集としてサイレンが当たり前のように使われていた。このように、私たち自身が野球に染みついた教練的なものをいまだに肯定し、受け入れているという側面があるのだ。』とネットで見つけた資料にはあった。つまり、空襲警報のようなサイレンが使われているのは、昔から使っているから、ということなのだろうか。私は踏襲として使っているのではないと思った。ネットには続けて『戦争中を思い出して不安になる。』と実際体験した方の言葉も載せられていた。サイレンは、当時の生々しい恐怖を実感として、体験を思い出させてしまうのだ。
現在、問題視されている「集団的自衛権。」これは、仲間の国が他国から攻撃されたとき、自国が攻撃されたと同じに考え、仲間の国と一緒に戦う権利のことだという。近い将来、戦争が起こってしまうのかと不安になった。日本は「戦争をしない」と憲法で決めているはずなのに、破られてしまうのだろうか。また多くの罪のない人々が犠牲になってしまうのか。しかし、戦争に反対する自分がいながら、一方で集団的自衛権を行使したほうがいいのではないかと思う自分もいた。
アメリカに守られていながら、日本はアメリカを守らないでいる。いつまでもこの状態が続けば、当然不公平な状態に陥るだろう。やがて、日本を守ってくれる国もなくなるのではないだろうか。まだ中学生の私には、大きくて難しい問題で、どの答えが一番正しいのか分からない。しかし、それでも分かることは、集団的自衛権を行使することになったら、日本も戦争で戦わなければいけないということだ。
もし戦争が始まってしまったら、「当たり前」の日常生活が失われる。朝、身じたくをし、学校へ行き、勉強をする。友達や家族との他愛ない話や、なにかに一生懸命夢中になることも難しくなるだろう。
当たり前の日常がどんなに幸せなことなのかを知った、3年前の東日本大震災。私の地域も被害を受け、約1週間は停電で、水も出ない生活が続いた。食料はガスコンロを使ったり、火を使わないものでなんとか凌いだ。この時の生活は、とても不便なもので、今までの生活がとても幸せなものだったのを改めて感じさせられた。
もし戦争が始まってしまったら、災害とはまた違った不便さがでてくるだろう。そして、あの震災のように、たくさんの人が亡くなってしまうのだ。罪のない人が。これからいろいろな未来がある人が。私たちは、近い将来戦争が行われるかもしれないということを理解しておかなくてはならない。そして、命の重みを考えていかなければならないのだ。
甲子園大会のサイレン、広島の原爆ドーム、「戦争」をテーマにした映画、すべての人々に命の重みや平和の幸せを感じ、理解してもらうためにあるのだと思う。戦争の体験者、前の世代が残してくれたもの、伝えたいことは、つねに私たちの身近で感じる事ができる。もう二度と、あれ以上の苦しさを味わうことがないように。平和でいられるように。人が幸せになる戦争なんてない。戦争は人を傷付け、失い、最後には何にも残らないのだ。私たちは、「この時代に生まれて良かった」と感じ、今の平和な世の中を維持していかなくてはならない。笑顔で接する、そんな小さな事でも人を幸せにできる。
毎年、甲子園大会では、選手達の熱い物語が繰り広げられ、サイレンが鳴り響いている。私は、二度とこのサイレンが、戦争で鳴り響くことがないようにと願い続ける。
中学生の部【優秀賞】
第二次世界大戦と平和
古川東中学校3年 河原千尋
夏休みになると、毎年、原爆や終戦記念についてのテレビが報じられます。今までは、特に気にも留めずにいましたが、授業で第二次世界大戦のことについて学び、これまでとは、違った気持ちで見ることができました。
第二次世界大戦で、日本は大きな被害を受け、たくさんの人が亡くなりました。しかし、それは日本だけの話ではありません。戦争に参加した多くの国でもそれは同じです。死者は5千万人ほどいたといわれています。こんな、犠牲や悲しみしか生まない戦争になんの意味があるのか、私は不思議でなりません。
戦争をする理由は、お金や資源、食料です。それらは確かに生きていく上で大切だとは思いますが、人の命よりも大切なものなのでしょうか。また、どうしてそれを争いという手段で得ることしかできなかったのでしょうか。もっと違う方法にすれば、これほどの被害にはならなかったのではないかと思います。例えば、国同士で話し合って、必要な資源などを分け合えば、人の命が失われるという事にはならなかったのではないでしょうか。
また、8月6日と9日に、広島と長崎に原子爆弾が落とされました。その犠牲者は数十万人にものぼりました。たった2発の原子爆弾で、それだけの数の一般市民が亡くなったのです。被害に遭った人の写真を見ましたが、その傷跡は、とても酷いものでした。生き証人も今では少なくなってきています。それに伴って、原爆についての事が風化してしまわないよう、原爆について知り、その事をこれからもずっと伝えていかなければならないと思います。
原爆のように戦争では、多くの人が理不尽な死をとげました。それは、どこの国でも同じです。どこの国でも、その国なりの課題があると思います。ですが、それをもう二度と戦争などという悲しい方法で解決するのではなく、話し合いなどの平和的手段をとってほしいと思います。
今では、国どうしの武力による衝突は、ほとんどなくなってきました。しかし、それでも、今世界は平和だといえるでしょうか。昔と比べればずいぶんと平和になったと思いますが、私はまだ平和だとは思いません。今日もどこかの国で内戦が起こったり、またどこかの国では人が、餓えや病気で死んだりしています。こんな世がはたして、本当に平和なのでしょうか。
日本でも毎日のように犯罪が起こっています。戦争がなくなっても、こうして、国の中で争いが起こったり、めぐまれない環境のせいで死んでしまったりと、日々私達の知らない所で、命が失われています。このような人達を全員救うというのはできないかもしれませんが、その中でも救える命を救い、この世界で理不尽な死を遂げる人がいないようになることが本当の平和なのではないかと思います。そのために、自分ができることは少ないですが、例えば、ユニセフなどへの少しの募金でも、救える命があるのではないでしょうか。
世界がどうなれば「平和」といえるのか。それは、人によってさまざまだと思います。私達が、それに向かってできることは、少ないし、とても小さいものだと思いますが、自分にできることは、少しでもしていきたいと思います。「平和」を願って。
中学生の部【優秀賞】
平和な時代に生まれて
古川南中学校2年 松本潤
毎年8月になると、戦争のテレビドラマや報道番組、そして新聞記事が多くなります。私はこれまで「自分が生きている現在には関係ない、過去のこと」と、全くといっていい程、関心がありませんでした。そんなある日、‟平和ぼけ”している私の気持ちを見透かしたかのように、母からある言葉を投げつけられました。
「あなた達のような人ばかりになったら一体、この世の中はどうなってしまうの。新聞でも読んで、いろいろな人の意見を聞いて少しは何か感じるかどうか、考えてみて」
急に母は何を言い出したのだろうかと、最初は戸惑いました。しかし、次第に腹立たしくなってきました。
「何も考えていない若者代表だとでも、思っているのだろうか? それにしてもひどい言いようだ」
腑に落ちないまま、仕方なく母から手渡された新聞を開いてみました。
「伝える・戦後69年目の夏。」太字のゴシック体で書かれた見出しに、目が釘付けになりました。戦争の特集記事で、筆者は戦時中に新聞記者として太平洋戦争を取材していたという方です。99歳となった現在も、現役のジャーナリストとして活躍しているという筆者の言葉が私の心を打ち抜きました。
「人類が出現してからずっと、戦争をする能力も必要性もなかった。1万年前に農耕が始まり、力の強い男中心の社会に変わってから富をめぐって争ったのが戦争の始まり。戦争の遺伝子は、もともと組み込まれていない」
この言葉を聞いて、現在の私たちの暮らしぶりが、脳裏をよぎりました。例えば学校生活。クラスの中で誰かが人のものを盗ったりする。盗んだ理由は、どうしてもそれが欲しいという訳ではなく、ちょっとうらやましかったり、ねたましかったり。もしかしたらほんのいたずら心だったりすることも十分に考えられるかも知れません。
野生の、動物の世界のように食べなければ自分が生きていけない、というような危機的状況を回避するための‟遺伝子”的なことではない。ただの、傲慢なのではないだろうか。自分の都合だけを考えて生きている人が、多いのではないだろうか。大人になる上で、大きな課題を出された気持ちになりました。
そのジャーナリストは「戦争は絶対になくせる」とも断言しています。なくすためには、何が必要か。考えていると、また、新しい記事を見つけました。
「神風特攻隊」と「風船爆弾」敵機に体当たりして自爆する攻撃。それが神風特攻隊です。生きの燃料しか入っていない飛行機で出発していった隊員の気持ちを考えると、何ともいたたまれなくなってしまいました。
一つしかない、大事な命をかけるだけのことだったのか。今、同じことを要求されてそんなことを実行できる人間がどれ位いるのだろうか。
現在の日本で生活している私にとっては、本当に非現実の世界にしか感じることのできない世界。しかし、本当に起こった事実。戦争を体験した世代は、口を揃えて言います。「二度と繰り返してはいけない」と。争いは、さらなる争いを招き、そこには必ず「血が流れる」と。
「戦争のこと、考えてみて」と、私に大きな課題を投げかけた母。実は、戦争を知らない世代です。どんどん薄れていく戦争の記憶は、平和ぼけを増長させる一方です。
「平和」とは何か。「常の日=日常」とは何か。3年前の「3.11」を始め、今夏の異常気象は、そんな私たちをあざ笑っているかのようです。普通だと思っている今日は、本当は「常」ではないかもしれない。それは、まるで河の流れのようなもの。一時も同じではないし、留まることなく動いている。
良いことも、悪いことも流転しながら時間は流れていく。平和な時代に生まれたからこそ、この「日常」と呼ばれる、かけがえのない日々を大切に過ごしていくことが必要なのだと、強く思います。
「時を守り、場を清め、礼を正す。」我が校では、これを日常生活の中で大事な要素と定め、全校で実践しています。親しい仲だからこそ、時間を守って行動したり、校舎内を美しく清掃したり、元気にあいさつを交わしたりすることを大切にしましょう。と、全校で心がけています。一人ひとりの力は本当に小さくて、か弱いものです。しかし、その一つひとつを束ねれば大きな力へと変化します。平和を慈しみ、日常を愛する心。母から投げかけられた大きな「課題」の答えを見いだすため、私は探し続けていきたいと思います。真の平和を求めて。
中学生の部 【優秀賞】
戦争はだめだよ
三本木中学校2年 早坂和真
昨年の8月に、私の大好きだった親せきのおじいさんが92才で亡くなりました。おじいさんの住む家は、私の家から歩いて数分の所にあるので、私が小さい頃から2つ上の兄と2人だけでも遊びに行けるとても居心地のいい場所でした。おじいさんは遊んでいる私と兄、食べている私と兄をいつも見ているだけでしたが、私はそんなおじいさんが大好きでした。とても優しい人だと思っていたからです。
そんな、穏やかなおじいさんは若いころに戦争を体験した人です。何年か前に兄の宿題の為、兄と一緒に戦争の話を聞きに行ったことがあります。夏の暑さもあり、行くか行かないか迷いましたが、やっぱりいつものように兄を追いかけてついて行きました。おじいさんの家に着くと、おじいさんは椅子に座って待っていてくれました。「こんにちは」と挨拶する私達におじいさんは、その日もいつものように「大きくなったなぁ」と言いました。たまに、数日前に会ったばかりで言う時もあるので、そんなに大きくなるはずもないのにと思う時もありました。でも、やっぱり不思議なことに、おじいさんに言われるととてもうれしくなりました。
兄がおじいさんに「戦争の話を聞かせて下さい」と言うと、笑顔で「戦争はだめだよ」と優しい声で言いました。それから、ゆっくりと静かな声で自分が体験した事を、昨日のことのように驚くほど明確に話してくれたことを覚えています。ただ、兄は宿題の為だったので、ちゃんと話を聞いていたと思います。でも、その時の私はあまり話に興味がもてずに、目の前にあるジュースやお菓子を飲んだり食べたりする時間になってしまったように思います。今になってみると、あの時ちゃんと話を聞いていればよかったなぁと後悔しています。なぜなら、もう二度とおじいさんの口から、おじいさんの体験した戦争の話を聞くことはできなくなってしまったからです。あの日なんとなく兄の後をついて行き、おじいさんの話を覚えていない私ですが、戦争はだめだよという言葉は今でもなぜか心に残っています。きっと、戦争を経験したおじいさんが、一番伝えたかったことだったのかもしれないと私は思います。
テレビのニュースは、どこかの国で戦争をしている悲惨な状況を、毎日のように伝えています。私が住んでいる今の日本では、考えられないような出来事が、世界中のどこかであたりまえのようにおきているのです。人が人を殺し、人が人に殺される。家も、家族もすべてなくなってしまうのが戦争。こんな悲しい出来事が、二度とあってはならないと思います。
私は、戦争が始まるのには何らかの理由、何らかの原因があると思います。宗教の違い、肌の色の違い、言葉の違い、習慣の違い、考え方の違い。様様なことが重なって、戦争はおきてしまうのでしょうか。戦争は、人と人とが戦い争うことです。人の心が戦争を始めてしまうのならば、戦争をしないという人の心もあると思います。私は、戦争は人が始めなければおこらないから、人がおこした人災だと思います。3年前、私も経験し多くの犠牲者を出した東日本大震災や、今年の夏広島でおきた集中豪雨による土砂災害といった自然の力による天災とは全く違うものです。そして、自然の力によるおきてしまった災害に人はどうすることもできませんが、この経験を生かし災害を最小限にすることはできます。そして、復興に向かって進む人の力は、とても強いと思います。戦争は、始まってしまった戦争でも、人によって終わらせることもできると思います。
今年は、終戦から69年になります。日本は69年戦争をしていないということです。この世界から、全ての災害が無くなって、全ての人々が平和と思える世界がくればいいと思いました。やはり、おじいさんが残してくれた言葉のように、「戦争はだめだよ」そう強く思いました。
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更新日:2021年02月26日