平和作文コンクール(平成27年度)

更新日:2021年02月26日

小・中学生平和作文コンクール(平成27年度)

大崎市では、子どもたちの平和に対する思いや考えを発表する作文コンクールを毎年実施しています。

平成27年度は336作品の応募があり、審査の結果、最優秀賞として小学生の部では古川第四小学校6年藤本玲央さんの「ぼくにできること」が、中学生の部では古川北中学校3年戸邊優希さんの「曽祖父の言葉」が選ばれました。入賞作品は下記のとおりです。

小学生の部

市内小学校12校から44作品の応募がありました。

小学生の部、受賞者5名が盾を持って市長と並んで写っている写真

最優秀賞(敬称略)

平和作文コンクール小学生の部最優秀賞

題名

学校名・学年

氏名(敬称略)

ぼくにできること

古川第四小学校6年

藤本玲央(ふじもとれお)

優秀賞(敬称略)

平和作文コンクール小学生の部優秀賞

題名

学校名・学年

氏名(敬称略)

平和な世界

下伊場野小学校6年

渡辺遥斗(わたなべはると)

平和を願う

鹿島台小学校6年

八鍬瑛斗(やくわえいと)

戦後七十年を迎えて…平和とは…

岩出山小学校5年

石野音天(いしのおとめ)

平和と戦争

田尻小学校 6年

武田結佳(たけだゆか)

中学生の部

市内中学校9校から292作品の応募がありました。

中学生の部、受賞者5名が盾を持って市長と並んで写っている写真

最優秀賞(敬称略)

平和作文コンクール中学生の部最優秀賞

題名

学校名・学年

氏名(敬称略)

曽祖父の言葉

古川北中学校3年

戸邊優希(とべゆうき)

優秀賞(敬称略)

平和作文コンクール中学生の部優秀賞

題名

学校名・学年

氏名(敬称略)

平和への思い

古川東中学校1年

大沼泰優(おおぬまだいゆう)

本当の幸せとは

古川東中学校3年

高橋青輝(たかはしはるき)

忘れない

古川南中学校2年

千葉美和(ちばみわ)

平和作文集

小学生の部【最優秀賞】

ぼくにできること

古川第四小学校6年 藤本 玲央

あなたは平和や戦争について考えたことがありますか。

ぼくは8月に父と2人で広島県に行ってきました。原爆ドームなどを訪れ、平和式典に出席し、平和や戦争について学んできました。

戦争のおそろしさを一番物語っていたのは原爆ドームです。70年前、広島に原子爆弾が落とされ、一しゅんで街が焼け、たくさんの人々の命をうばったその時、焼け残っていた建物、それが今の原爆ドームです。70年の時をこえて、ぼくは初めて自分の目で見ることができました。見たしゅん間背中がゾワッとしました。くずれ落ちたレンガ、焼きつくされた屋根、そのいたいたしいすがた、全てがざんこくに見えました。思い出すたび心がいたみます。これほどの戦争のひさんな光景を物語っているのは、この世に他に存在しないと言えると思います。また、この原爆ドームを見て当時のおそろしさを知ろうと、外国人がたくさん訪れていたのにもおどろきました。原爆がぼくの想像をはるかにこえるほどのすさまじい破かい力を持ち、広島の人達に深い苦しみを与えたおそろしい物だと分かりました。そのすがたは、世界中の人達に何かをうったえ、そして問いかけているようにも見えました。

また、被爆した方から当時の話を聞くこともできました。その方は中学3年生の時に原爆にあい、ものすごい熱風をうけ、建物の下じきになったそうです。がれきをよけて立ち上がって見ると、まっ暗な中、何もかもがふき飛ばされ全てが燃えていたそうです。人々は、あまりの熱さに手足の皮ふが焼けただれている状態で、次々と川に飛びこみましたが、急に水にふれたショックで口から血をはき、死んでいったそうです。また、両手のつめの先から自分の皮ふを、心臓の高さまで持ち上げて、ぶらさげて歩いている人々もいたそうです。後で付け加えるように教えてくれました。

「それは、心臓より手を上に上げることで、いたみが少しやわらぐからです。」

と。ぼくはむねがしめつけられる思いでした。言葉には言い表せないくらいの信じられない話でした。この話は、あまりにも悲しすぎて忘れたくても忘れられない話になりました。

広島に行ってぼくにできることが見えてきました。

まず、70年前と比べて、今が、ものすごく幸せで平和な世の中なのだと感謝して、ありがたみを持って生活することです。そして戦争をしてはいけない・させないためにも身近な所から、家族や友達と仲良くくらすこと、物を大事にすること、いじめや差別をしないこと、ぼくが感じた戦争のおそろしさを大好きな仲間達や、これから出会っていく人達にも伝えて、知ってもらうことで、みんな一人一人が平和について考えを持って、今自分達に出来ることから行動していくことが、とても大切なことなんだと思いました。

原爆のひさんさ、平和の大切さ、二度と戦争をくり返さないという強い思いを未来につなげていければ、きっと平和な世界の実現につながると思います。

最後に、ぼくを広島に連れて行ってくれた父に、心から感謝します。

小学生の部【優秀賞】

平和な世界

下伊場野小学校6年 渡辺 遥斗

ぼくが生まれたのは、平成15年です。戦争はずっと昔に終わっています。毎年4月には誕生日を祝ってもらい、今年で12回になりました。学校では、友達とけんかをすることもありますが、仲良く遊んでいます。今年は一輪車に乗れるようになりましたし、背泳ぎができるようにもなりました。勉強もがんばっています。最上級生としての責任を果たすことも努力しています。

学校の歴史の勉強で、広島県と長崎県に原子爆弾が落とされたことを知りました。たくさんの命がいっしゅんで失われました。ぼくは戦争にきょうふを感じました。そして、もし自分が、この平和な時代ではなく、戦争のある時代に生まれていたらどうなっていたのだろうと、改めて考えました。

ぴいじいちゃんに、戦争の話を聞いてみました。ぴいじいちゃんは、戦争には行かなかったそうです。でも、そのかわり、松の木の根を使って油を作っていたそうです。その油は、海で戦うための船の燃料や、空で戦う戦闘機の燃料にされていたそうです。国から「赤紙」というものが送られてくることも聞きました。赤紙が届いたら、強制的に兵隊にならなくてはいけないのだそうです。ぴいじいちゃんの話の中で一番心に残ったのは、特攻隊の話です。兵隊の中には、特攻隊に選ばれる人がいたそうです。特攻隊は、戦闘機などで、敵の基地に突撃するのです。自分自身が爆弾となるのです。生き残れることはありません。悲さんです。

今、日本は平和です。でも、世界にはまだまだ兵器があります。今も作り続けられています。戦争をしているところもあります。ぼくと同じ年ぐらいの子どもが、兵器を持たなくてはいけないところがあるのです。その子どもたちは、家族からお誕生日を祝ってもらえるのでしょうか。友達とけんかをしたり遊んだりできるのでしょうか。できた、分かったと、喜びを感じることがあるのでしょうか。世界中のだれもが戦争の悲しさ、ひさんさを知っているはずなのに、戦争はなくなりません。兵器を捨てて、お互いに助け合って生きていく世界をつくることはできないのでしょうか。ぼくは、日本だけではなく、世界が平和になることを願います。

小学生の部【優秀賞】

平和を願う

鹿島台小学校6年 八鍬 瑛斗

ぼくは、夏休みに同朋ジュニア大会というものに参加しました。宮城県から参加した小中学生と一緒に、京都の東本願寺に行って4日間いろいろな活動をしました。そこで、平和について考える時間があって、沖縄の知花さんというお坊さんの法話を聞きました。知花さんは、戦争のビデオを見せてくれて、三味線を弾きながら歌をうたってくれました。

ぼくは今まで、戦争と平和はどんなことだろうと、あんまり深く考えたことはありませんでした。戦争といえば、特攻隊の飛行機が海につい落したり、たくさんの人が死んだりしているのをテレビで見たことがあります。戦後70年ということで、特集もありました。それを見て、怖くて怖くていやだなと思いました。

知花さんの話は、第二次世界大戦で沖縄で起こった実際の話でした。知花さんの話の中で心に残っていることは、沖縄で暮らしている人が戦時中にどのようにして過ごしていたかということです。沖縄の人はアメリカ軍からの攻げきから逃げるために壕に入っていました。アメリカ軍の攻げきにも休みがあって、壕にいる人はそれを確認して、家に食べ物を取りに行きます。アメリカ軍の所に行けば、食べ物がたくさんもらえるけれど、行こうとすると日本兵にスパイだと思われて殺される。沖縄の人は、アメリカ軍と日本軍の両方に追いつめられていたそうです。もし、アメリカ軍につかまってしまったら、捕りょになります。捕りょになることは、日本人にとって恥ずかしいこととされていたので、生き残らないようにと、集団自決をしたのです。そこにいた人たちが、家族でも誰でも殺し合うのです。とても考えられない光景だと思いました。首の左側を切ると、一気に死ねるということを聞いて怖くなりました。ぼくよりも小さい子も殺されました。こんなことは、二度と起きてはいけないことだと悲しくなりました。

戦争は、戦っている人同士も死んでしまうけれど、戦場になっている所に暮らしている人も巻き込まれてしまって、悲しいことだということが分かりました。知花さんが話していたように、いろんな物をうばい合うよりも、分け合って生きる世界になればいいなと思いました。そして、戦争をしたくないです。

平和という言葉は、大切な願いや深い祈りが込められてできたということを知りました。この話を聞かなければ、悲しい話もおそろしい話も知らないままでした。

なぜ戦争をするのか、戦争で何を守るのかぼくには分かりません。でも、ぼくは戦争で大切な人たちを誰も失いたくないです。沖縄の人たちのようにたくさんの人が悲しんだり、苦しんだりする戦争は、絶対にしてはいけないと思いました。

小学生の部【優秀賞】

戦後七十年を迎えて…平和とは…

岩出山小学校5年 石野 音天

今年は戦後70年。今年の夏は、テレビで戦争についてのたくさんの番組が放送されていました。その中の一つに「火垂るの墓」という映画がありました。この話は、戦争で親を亡くした兄妹の話でした。親せきの家に預けられた兄妹は、その後、家を出ることになり、たった2人で生活していくという、かなしい話でした。戦争当時の様子を再現して書かれてある話でしたが、今の生活とまったくかけはなれた生活の様子におどろきました。食べ物もなく、2人の兄妹は命の光を失ってしまうのです。私は、今の時代に生きている幸せを改めて感じました。

私は戦争のことは、まったく知りません。戦争のことをもっと知りたくなりました。まず、ぴいばあちゃんに聞いてみました。すると、

「おそろしくて、言葉にできない。」

というぴいばちゃんの言葉に、自分でも調べてみたいと思いました。

まず、本で調べてみました。戦争の原因です。戦争の原因は予想していたより、たくさんありました。(戦争は人間社会の対立によって生じるものであり、何らかの意志や理由を伴う。)なんだかむずかしいことが書いてありました。「政治戦」「武力戦」などと説明がありました。(武器を持って戦うことを「武力戦」というんだ。)こわい戦争を説明するときに、いろいろな定義まであることが調べて分かりました。結局、人と人とが傷つけあうのが戦争です。戦争をしている人々は、国のためだと思い、よいこととして考えていたのでしょうか。しかし、多くの住民たちを巻きこみ、「火垂るの墓」のあの兄妹のような小さな命をうばってしまうような戦争はいけません。戦争は、絶対国民のためではないと思いました。本当は、戦争に参加していた人たちも、とてもかなしい思いをしていたのではないでしょうか。だれでも一番大切にしているものは、命だからです。

今、テレビで「憲法改正」という言葉を聞きます。大人の人たちは、(戦争は二度と起こしてはいけない。だから、しっかりと話し合ってほしい。)と言っていました。くわしいことは私にはわかりませんが、戦争がおそろしいものであることは、分かります。あの兄妹のような悲しい時代を生きた人たちが、たくさんいたことを私は忘れないようにしたいです。

一人一人の命を大切にする社会をつくるためにも、「戦争」について、もっともっと調べていきたいと思いました。国と国とが仲良くしていける社会をつくるためにも、たくさん勉強していきたいです。平和な社会をつくるために。

小学生の部【優秀賞】

平和と戦争

田尻小学校6年 武田 結佳

「えっ、古川にも空爆があったの。」

新聞に、わたしの祖父のいとこの体験談がのっていた。その記事を読んで初めて、古川空しゅうで7人が犠牲になったことを知った。

わたしのひいおばあさんの実家は、昔、農機具や農業用の発動機、脱穀機、籾摺り精米機などを作っていた。しかし、戦争がはげしくなってきたため、しかたなく、戦争の道具を作るようになったようだ。

新聞によると、敵の飛行機が東から低く飛んで来たが、警戒警報が鳴らなかった。その当時、古川駅前に住んでいた祖父のいとこは、「危ない」という言葉も聞かずに、自宅近くの路上で空をながめていたという。戦闘機はパイロットの顔も見えるくらいの低空で飛んできた。爆弾は、彗星のように白い渦を引いて落下した。工場の敷地内に落とされた爆弾は、大きな「泥の柱」が上がった。工場の屋根は機銃による攻撃で、「ミシンをかけたように」一列に穴が開いた。幸い、家族や従業員らに死者やけが人は出なかったとのことだった。わたしは、こんなおそろしいことが起きていたなんて思いもしなかった。自分にも同じようなことが起きたらどうなるかなど想像もできない。

終戦後、新聞によると「軍需工場の責任者は戦犯として死刑にされる」といううわさもあったようだ。工場長をしていた祖父のおじは、軍から「自決しろ」と言われたという。戦争の道具を作らされた上に、自決するように命令するのは残こくだと思った。

 また、新聞には、軍需関係の工作機械を破壊しに、アメリカ軍が工場にやってきたと書かれていた。軍の指揮者は、日米が激戦を繰り広げたガダルカナル島の戦いに従軍しており、工場に来るとき、ビールを持参し、余分なガソリンを置いていったという。わたしは、指揮者は戦争をしたくて戦った訳ではなく、命令によって仕方なく戦ったのだと思う。戦争が終わったのだから、お互い助け合って生きていこうと思ったのではないだろうか。

今、わたしは戦争のない平和な日本で暮らしている。しかし、現在もまだ戦争が続いている国もある。わたしは人々を苦しめ、たくさんの犠牲者を出す戦争は、二度とやってはいけないと思う。戦後70年、わたしの祖父母は戦争を経験していない。だが、戦争の悲惨さ、平和の大切さは、これからもずっと語り継がなければいけないと思う。

この地球から戦争が無くなれば良いと思う。世界中の人が笑顔に暮らせるように。

中学生の部【最優秀賞】

曽祖父の言葉

古川北中学校3年 戸邊 優希

戦争はなぜ起こるのでしょうか。戦争とは何のためにするのでしょうか。テレビでは、今もなお世界のあちこちで起きる戦争や紛争のニュースが流れています。もし、戦争をしている国の為政者に、「なぜ戦争をするのか」と聞いたら、国民を守るためなどというかもしれません。しかし、戦争で国民を守れるでしょうか。

戦争が起これば誰かが必ず犠牲になります。1人死んでしまったけれど、多くの人の命を守ることができた、兵士の命は犠牲になったけれど、国を守ることができた、これでは本当に人や国を守れたといえるのでしょうか。私はそうは思いません。でも、まだ地球上のどこかで、民族間の考え方の違いや、宗教の違い、領土・領海・領空の問題によって、対立や争いが起こっています。

どうすれば、民族や宗教の隔たりを乗り越えて戦争のない平和ですばらしい世界になるのでしょうか。

2015年。今年は終戦から70年の節目の年です。第二次世界大戦では、全世界で5千万人を超えるといわれる死者を出しました。8月6日には広島、同月9日には長崎に原子爆弾が投下され、多くの人が亡くなりました。一命をとりとめたものの、その後、ひどい後遺症に悩まされた人もたくさんいます。私の曽祖父も戦争で深い傷を負って後遺症に悩まされた一人です。

私の曽祖父は、私の祖父が産まれてすぐに赤紙が届き、中国大陸に出兵していったそうです。産まれたばかりの我が子と愛する妻を残していくのは、おそらくとても辛いことだったと思います。

私は曽祖父が大好きでした。晩年の曽祖父は目がほとんど見なくなり、寝たきりでした。幼かった私は、曽祖父のベッドにのぼっていき、

「ぴいちゃん、なんで耳がつぶれているの?どうして顔に大きな火傷をしているの?」

と、曽祖父が気にしていたことも分からず、繰り返し尋ねていました。それでも、曽祖父は決して怒らず、にこにこしていました。後で祖母に聞いた話から、戦争の傷で耳が変形したことや、顔に大きな火傷があることを嫌がって写真を撮られることを拒んでいたことを知り、祖父にひどいことを言ってしまったと後悔しました。

それでも曽祖父は、幼かった私にも戦争のことをよく語ってくれました。曽祖父自身が体験したからこそ言える戦争の本当の恐ろしさ。

「戦争では何もかもなくなってしまうんだ。」

幼くて曽祖父の話を全て理解することはできませんでしたが、曽祖父のこの言葉は、今でもはっきり覚えています。戦争が残酷でひどいもの、大好きな家族や友達を傷つけ失ってしまう悲しいものだということを、曽祖父の言葉から教えられました。

私にいろいろなことを教えてくれた曽祖父も9年前の十五夜に天国へと旅立ちました。曽祖父を支え続けた曽祖母も今年の2月に99年の人生を終えました。二人のように戦争を経験した人たちが、どんどん減っています。そのことによって、戦争の悲惨さを語り継ぐ人も減ってきています。このままでは、語り継ぐ人もやがていなくなってしまいます。二度と戦争をしないためにも、戦争のことを語り継ぐことが大切だと私は思います。曽祖父が負った一生消えなかった顔の傷、そして心の傷。私はこのことを自分の子どもや孫の代まで語り継いでいくと決意を新たにしています。

どうすれば戦争のない平和ですばらしい世界になるのか、私はまだはっきり答えることができません。でも曽祖父の言葉を忘れずにいることと、周りの人たちにその言葉を伝えていくことが、今は戦争をなくす第一歩だと信じています。戦争のなくなる日まで、私の歩みは止まりません。

中学生の部【優秀賞】

平和への思い

古川東中学校1年 大沼 泰優

僕は、戦争を知りません。最近、戦後70年の節目ということで、テレビや新聞などでも戦争についての特集を多く目にしました。やはり、後生に伝えていくため、若い世代にも戦争について考えてほしい、という趣旨があるのだと思います。そんな中、僕は、ある番組に釘付けになりました。その番組では、若い世代の有名人が、各地で起きた戦争を体験した方の話を聞き、その地に今もなお残る戦争の傷跡や遺物を目の当たりにします。そして、その戦争についての事実を知ることで、改めて戦争について、平和について思いを巡らすというものでした。

なぜ僕が釘付けになったかというと、沖縄戦について取り上げたからです。

僕は小学4年生のとき、自分の知らない世界を見てみたいと思い、思い切って「沖縄遊・YOU塾」という地元のテレビ局主催のイベントに参加しました。地元の小学生との交流や沖縄の文化を知るために有名な施設や景勝地を見学し、海ではシュノーケリングなどがありました。

僕がそのイベントに参加するにあたり、祖父から1枚の写真を見せられ、ある話を聞かされました。祖父の1番上のお兄さんは沖縄戦で戦死し、平和祈念公園の「平和の礎」に名前が刻まれているそうです。祖父もまだ行ったことがなく、ぜひ手を合わせてきてほしい…ということでした。初めて聞く話だったので、僕はびっくりしました。僕の知らない戦争は、思わぬところで繋がっていました。沖縄旅行は、楽しみであると同時に、祖父の思いを届ける旅になりました。

現地では、ひめゆりの塔の見学や平和祈念公園へも行くことができました。ガイドさんの話から、沖縄戦でたくさんの人が命を落としたということを知りました。そして、祖父のお兄さんの名前が刻んである「平和の礎」の前に立ち手を合わせた時、悲しさや様々な感情が入り交じった、何とも言えない気持ちが込み上げてきました。

平和に見える沖縄も、悲惨な歴史のもとに、現在があるのだということを知り、僕にとっては、色々と考えさせられた旅になりました。

僕が、戦争について知っていることは、様々なメディアが伝える情報や本がほとんどです。そして世界の各地には、いまだに戦争の遺物が残っていることもテレビで知りました。戦争が始まった歴史的背景や政治的な思惑などはよく分かりません。しかし、たくさんの命の犠牲があり、その歴史のうえに今の平和な日本が成り立っているということ、そして世界のどこかでまだ戦争が続いています。

平和とは、いったいどういうことを指すのでしょうか?もちろん犯罪のない世の中であり、みんなが安心して生活できることや幸せに暮らせるということは大事だと思います。

しかし何よりも大切ことは、与えられた「命」をお互いに大切にすることだと思います。わたしたちの身近な問題として、戦争に限らず、いじめや犯罪によって大切な「命」が奪われています。人が人の「命」を奪うことは絶対にあってはならないことだと思います。70年前には、国のためにみんなを守るためにといって、自らの「命」を犠牲にした人たちがいました。ほんとうはもっと自分の家族と一緒に過ごしたかっただろうし逃げたかっただろうしということを考えると、今の世の中は、自己中心的な理由の犯罪や遊び半分からエスカレートして、結果的に一人を追い詰めてしまうといったことが多いように感じます。

平和とは、わたしたち一人一人が心掛け、意識して作っていくものだと思います。これからの未来も平和な世界が続くように…

中学生の部【優秀賞】

本当の幸せとは

古川東中学校3年 高橋 青輝

8月15日は、終戦記念日でした。この日私は、戦争に関するテレビを見ました。

今から約70年ほど前、戦争が始まりました。町が爆撃され、多くの人の大切な命が失われました。自分がもしその場にいたら…と思うと、すごく怖くなりました。

自分の父が戦場に送られ自分の家に帰ってこれなくなってしまったり、爆弾のせいで大好きな友達、家族ともう二度と会えなくなってしまうのです。自分にとってたくさんの大切なものが一瞬にして、しかも自分が見ているその前で失われていくのです。

このような状況では食べ物の贅沢なんてもちろんできません。学校に行けても勉強ができないなどと、色々な面で不自由なことがたくさんあったと思います。

それに比べたら、今の私たちはとても幸せだと思います。

おいしい物が食べられ、学校に行けば友達がいて勉強することができて、家に帰れば家族がいます。外でも自由に遊べるし、友達や家族と連絡もすぐにとれます。

このように、私たちが当たり前のことを当たり前にできるということは、幸せなことだと思いました。

私の祖父は小さいときに、戦争を経験しました。当時、戦時中に体験したことを聞かせてくれました。

「戦争中は本当に大変だった。爆弾が落ちてくるという知らせがあれば、田舎の方へ走って逃げた。この辺は、東京とかあっちの方と比べたら田舎だったから、空爆はあまりひどくなかったのかもしれない。都会の方は本当に苦労しただろう。家族1人も欠けることなく全員無事だったので、本当によかったよ。もうあんな思いはしたくないと思っているし、戦争があったことは、今もこれからも絶対に忘れてはいけないよ。」

と言いました。

私の祖父は、家族も全員無事で、食べ物にもあまり苦労することはなかったとのことで、安心しました。しかし、自分の身近な人が戦争を経験し、その話を聞くことができたということは、私に平和について深く考えるきっかけを与えてくれました。

今、世界ではまだ戦争が続いている国があります。昔の日本のようにまずしい暮らしだったり、大切な人がなくなったりして、悲しい思いや辛い思いをしてる人がたくさんいます。平和ではない国がたくさんあります。

この戦争の話を聞いて、今でもまだ戦争が続いている国で、悲しく辛い思いをしてる人がいたら、少しでもなにか役に立てたらと思いました。今よりも、世界が少しでも平和になってほしいと思いました。私にはまだ難しいですが、平和になるためにはどのようなことをすればいいのか、どのようにすれば世界が平和になり、明るくなるのかということを考える必要があると考えました。それが例え自分以外の誰かでも、身近な人ではなくても他人事だと思わずに考えてほしいと思いました。

今、私たちが当たり前のようにできていること。学校へ行って勉強して、時には友達とぶつかり合って、環境が整った場所で大好きな仲間とスポーツが出来ること。学校が終わって家に帰れば家族がいて、家族と一緒に食事ができて、テレビを見て笑い合い、夜になれば寝れることができる。こんな幸せはないと思います。

今、嫌だなあ、やりたくないなあ、と思うことでも、昔はできなかったことがたくさんあるのです。

当たり前のことが当たり前のようにできる、この日々の生活は、とても幸せです。生活する際に支えてくれる友達や家族、地域の方々には本当に感謝するべきだと思います。

もし自分が悲しいとか辛いとか嫌な思いをしたとしても、簡単に「死にたい」とか、友達に対して「死ね」とか、絶対に言ってはいけない言葉です。生きたくても生きれなかった人たちがいることを覚えていてほしいです。

そして、これから先日本で戦争が起きず、今よりももっと平和な世界になることを願います。

中学生の部 【優秀賞】

忘れない

古川南中学校2年 千葉 美和

「スパシーバ(ありがとう)」、「ハラショー(すばらしい)」、「ダスビダーニャ(さようなら)」、「ダビーゼーニャ(また会いましょう)」 これは、ロシア語だ。祖父が時々口にし、私に教えてくれた言葉だ。なぜ、日本人の祖父がロシア語を話せるのか。それは、太平洋戦争で兵士として戦った後、ソ連に抑留され四年間強制労働をさせられたからなのだ。

ソ連の収容所はとても酷いところだったそうだ。ほとんど1日中働かされた上に、少なくて粗末な食べ物しかもらえなかった。ヘビやカエルなど、今の日本では考えられないようなものでも食べたらしい。夜は、屋根がないため寒風が吹きつける中、枯れ草を敷いて寝ていた。飢え、寒さ、重労働により数十万人もの人が亡くなったのだそうだ。しかも、名前も記されずに荒野に埋められたらしい。日本兵が「もの」として扱われていたことを知り、愕然とした。残酷過ぎると思った。

私は、ソ連から兵士たちが引き揚げて来たときの写真を持っている。祖父が亡くなった後に祖母からもらったものだ。写真を見たとき、言葉を失った。写真の中央に写っている祖父。祖父が兵士だったという事実に大きな衝撃を受けた。また、いつも温かくて優しい祖父の顔が、このときは違っていた。目つきが鋭くて、まさに、兵士の顔そのものだ。辛く、厳しい生活に耐え、4年間生き抜いた祖父の強さもにじみ出ている写真だった。

「これ、本当にじいちゃんだ……。」

さまざまな思いが込み上げてきた。驚き、悲しみ、そして、ソ連へというより戦争というものへの怒りも。私は、この祖父の顔をいつまでも忘れない。決して、決して忘れてはならない。

今年は、戦後70年の節目の年ということで、テレビや新聞で戦争のことが大きく取り上げられている。テレビ番組で、特に印象に残っているものがある。当時、私ぐらいの年齢だった人たちの話だ。

それは、「あの日、僕らは戦場で~少年兵の告白~」というタイトルの番組だ。沖縄の少年兵の話である。元少年兵の証言をもとにアニメをつくったものだ。私は、この番組を知ったとき驚いた。アフリカの方に少年兵がいることは分かっていたが、まさか日本にもいたとは思わなかった。その実状は想像以上のものだった。

日本が、特攻作戦を使うほど追いつめられていたとき、700人以上もの少年たちが兵隊の学校に集められた。「護郷隊」という少年ゲリラ兵になるためだ。学校では、「敵を10人殺したら死んでもいい」や「おまえらの命は鳥の羽よりも軽いんだ」などと言われ、厳しい訓練をさせられていた。ひざまずかされ、首に剣を向けられながら「お国のために死ねるか!」と何度も言われる14歳の少年のシーンが頭から離れない。きっぱり返事をするまでずっと言われ続けた。このようにされて少年たちは洗脳されていったのだろう。

アメリカ軍が沖縄に上陸してきて戦いが始まったとき、少年兵たちは子どもの心、いや、人の心を失っていたのだ。「敵が死んでも、友達が死んでも、自分が死んでも、どうでもよくなってくる」と言っていた。仲間が大けがをして助けを求めるように見てくるのに、それを無視して戦い続ける少年もいた。

私はこの番組を見て、戦争になると人は変わってしまうということが分かった。少年たちは、何も感じずに言われるがまま人を殺していく。アメリカ兵も、戦っていなければ、残酷などではない、むしろ温かい人なんだということに気づいた。民間人の格好をして偵察に来た日本の少年兵を、アメリカ兵は迷子だと思い、心配してチョコをあげたのだ。思いやりにあふれる行動だと思う。このような人を変えてしまう戦争は、あまりにもむごいものだと思った。

ここ数日の新聞にはほぼ毎日、戦争体験が掲載されていた。当時の年齢も、いた場所もそれぞれ違うが、皆「あの悲劇を二度と繰り返したくない」と記していた。「戦争をするエネルギーがあったら、それを平和のために使うべきだ」という意見もあった。本当にその通りだ。

私は最近、日本がまた戦争をしようとしていると感じる。祖父も空から「これではいけない」と言っているだろう。戦争では何も良くならない。悲しみや憎しみを生むだけだ。節目の年に、その考えを強くした。私たち若い人が戦争についてもっと真剣に考え、体験者の思いを受け継がなくてはいけない。この日本を守っていくために。

この記事に関するお問い合わせ先

政策課

〒989-6188
大崎市古川七日町1-1 市役所本庁舎3階

電話番号:0229-23-2129(政策企画担当、地方創生担当、多文化共生担当)、0229-23-2245(日本語学校推進室)
ファクス:0229-23-2427

ールフォームによるお問い合わせ