平和作文コンクール(平成28年度)
小・中学生平和作文コンクール(平成28年度)
大崎市では、子どもたちの平和に対する思いや考えを発表する作文コンクールを毎年実施しています。
平成28年度は193作品の応募があり、審査の結果、最優秀賞として小学生の部では古川第五小学校6年佐藤心彩さんの「私が思う平和な世界」が、中学生の部では鳴子中学校2年高橋梨咲さんの「本当の戦争を知って」が選ばれました。入賞作品は下記のとおりです。
小学生の部
市内小学校9校から43作品の応募がありました。
最優秀賞(敬称略)
題名 |
学校名・学年 |
氏名(敬称略) |
---|---|---|
私が思う平和な世界 |
古川第五小学校6年 |
佐藤心彩(さとうみさ) |
優秀賞(敬称略)
題名 |
学校名・学年 |
氏名(敬称略) |
---|---|---|
平和な未来へ |
古川第二小学校5年 |
島尾七佳(しまおななか) |
もっともっと学びたい |
古川第四小学校6年 |
須藤由宇(すどうゆう) |
平和な日々に感謝 |
西古川小学校6年 |
門間百桃(もんまもも) |
黙とうの意味をさがして |
古川第五小学校6年 |
菅原千鶴(すがわらちづる) |
中学生の部
市内中学校5校から150作品の応募がありました。
最優秀賞(敬称略)
題名 |
学校名・学年 |
氏名(敬称略) |
---|---|---|
本当の戦争を知って |
鳴子中学校2年 |
高橋梨咲(たかはしりさ) |
優秀賞(敬称略)
題名 |
学校名・学年 |
氏名(敬称略) |
---|---|---|
歴史を学び,平和について思う事 |
三本木中学校3年 |
大泉りさ(おおいずみりさ) |
「平和」とは何か |
松山中学校3年 |
遠山美帆(とおやまみほ) |
平和な世界 |
松山中学校3年 |
田口ほのか(たぐちほのか) |
平和 |
古川北中学校1年 |
齋藤彩花(さいとうあやか) |
平和作文集
小学生の部【最優秀賞】
私が思う平和な世界
古川第五小学校6年 佐藤 心彩
私が思う平和な世界とは、世界中の人がみんな仲良しで、争い事がない世界のことだと思います。
私の曽祖父は、昭和19年3月に北海道の釧路沖で、日本の輸送船が米軍の潜水艦に攻撃をうけ、沈没し戦死しました。祖父が5歳の時でした。祖父は長男で、妹が母のお腹にいた時に、戦争へ出かけたのです。祖父は、父の顔をあまり覚えていないそうです。
戦争当時は何をするのにも困難で、当時の生活は食料不足で食べるものがなく、着る物もなく、特に冬の寒さをしのぐのが大変だったと言います。
国と国同士の戦いで核兵器を使って、他国の人を一瞬にして殺したと言っていました。
私は祖父の話を聞いて、本当に戦争はしていけないと思いました。なぜなら、戦争をして得する人はいない、そして戦争をしている国の人々は、今私が生きているみたいに、一日一日を平和に過ごせないからです。
私はそもそも、なぜ戦争をするのだろうと思いました。当時の世界は、この土地は私の国のだ、おれの国のだと、考える人ばかりでした。私だったらその国ごとみんな平等に分ければいいのに、と思うのですが、当時の人々は納得いかず、その結果戦争が起こったと思います。
戦争は友達とよくするケンカと同じだと思います。人を傷つけ合います。私は、友達とケンカをする時と同じように、解決するまで話し合えばいいと思います。そうすれば、戦争なんて起こらないと思います。
でも、戦争だけなくなっても違う問題がたくさんあって、今みたいに平和に過ごせていないと思います。そこで私達に出来ることを考えてみました。私達は、戦争の被害にあった人などに、戦争の話を聞いた方がいいと思います。これから長い年月が経つうちに、私達のように当時のことを知らない人達が、もっと増えていきます。将来私達が大人になったときに、自分の子供など次の世代に戦争がどれだけいけないことか、どれだけの人が悲しみ、辛い思いをしたのかをしっかり伝えるべきだと思います。そのために、今戦争のことを本で調べたり、人々の話をたくさん聞いて、学んでいくことが必要です。
今も世界のどこかで戦争が起きているかもしれません。争いだけでなく、悲しいニュースを観ると、とても心が痛みます。だから、争いなんて全部なくなればいいと、心が痛むニュースを観るたびに思います。
けれど、世界中全部の争いをなくすことは、とても難しいです。でも、私達が小さな争いからやめることで、戦争などの大きな争いを少しでも減らせると思います。小さなことからみんなでこつこつやっていくことが大切です。まず、自分自身から変わらなければいけないと思います。一人一人が変わるために、一人一人の意識の強さが世界を平和へ変える一つの種になるでしょう。
小学生の部【優秀賞】
平和な未来へ
古川第二小学校5年 島尾 七佳
みなさんは、戦争中に犬や猫がぎせいになったことを知っていますか。
犬や猫は、世界中から愛されています。そんな犬や猫が、どうして人間の争いにまきこまれなくてはいけなかったのか。そして、どうしてぎせいにならなくてはいけなかったのか。私は、「犬や猫が消えた」という本をきっかけに、戦争や平和について考えるようになりました。
第二次世界大戦の末期、日本ではたくさんの犬や猫の命が奪われました。その理由は、他の物資と同様に毛皮が不足していたからです。また、食料不足で犬や猫にえさをあたえることができないし、空しゅうの時に犬や猫があばれだすかもしれないと考えられていました。
ぎせいになった犬と猫は、犬皮、猫皮となり、寒い戦地で戦う兵隊の防寒服に使われました。のら犬やのら猫だけでなく、家でかっている犬や猫も国に差し出すよう命令されました。そして、犬や猫の命を奪った人の中には、15歳の少年もいました。何をするのか教えてもらえないまま仕事現場に連れていかれ、無理やり手伝わされていたそうです。また、その場所に犬や猫を連れていかされた人の中には、10歳の女の子もいました。どちらの子も、悲しくて、せつなくて、つらい気持ちでいっぱいだったと思います。しかも、その場所は、まるで血の海だったということを知り、私は「ゾッ。」っと寒気がしました。
昔、私の祖母の家では、リップという名前の犬をかっていました。みんなから可愛いがられ、私も大好きでした。もし、今が戦争の時代で、リップを国に差し出すよう命令されたら、私は非国民と言われても、リップを守ると思います。だからといって、犬や猫の命を奪ったり、国に差し出した人達をひどい人達だとは思いませんでした。なぜなら、戦争中は国の命令に従わなければならず、戦争のためなら喜んで自分の物を差し出すのが、いい国民だと言われていたからです。
私は、戦争することが、どれほど重要なのか分かりません。しかし、一人一つしかない命を奪ったり捨てたりしていいはずがありません。世界で約8,500万人といわれている死者、そして、人間の争いにまきこまれた犬や猫、様々な動物達。たくさんの命をぎせいにし、今では考えられないようなことを平気でやってしまうのが戦争なんだと思い、悲しくなりました。
今、私の周りは、とても平和です。たくさんの笑顔でみちあふれています。町を歩けば、泣いている小さな女の子をなぐさめているやさしい小学生。近所のおばあさんに元気よくあいさつする子供達。教科書でいっぱいの重いかばんを持ちながらも楽しそうに話をしている中高生。そして、かい主とじゃれ合う犬や猫。こういう光景を見ていると、だんだん笑顔になってきます。しかし、世界中が平和というわけではありません。今も争っている国があります。世界中が平和につつまれるために、私達にできることはないのでしょうか。いつか戦争がなくなり、世界中が平和になるのを待つことしかできないのでしょうか。どんなに考えても、今は答えがうかんできません。だから、時間をかけてゆっくり答えをさがしてみることにしました。
今回、一冊の本との出会いから、戦争や平和について色々なことを考え、「やっぱり、平和ってすばらしい。」「生きているってすばらしい。」と思うようになりました。そして、戦争で亡くなられた人達の「まだまだ生きたい。」という気持ちを胸に、「また明日、大人へと、未来へと一歩ずつ歩んでいこう。そして、一生に一度しかない一日を大切に生きていこう。」とかたく心に決めました。
小学生の部【優秀賞】
もっともっと学びたい
古川第四小学校6年 須藤 由宇
今年の家族旅行は広島だ。中学校になったら部活で忙しくなるし、飛行機代も大人料金になる。だから思いきって今年は広島への旅に決定。お好み焼きをたくさん食べるぞ。厳島神社はどんなにきれいか見てみたい。カープ女子になって黒田選手の応援もするぞ。私の心の中は、楽しいことでいっぱいだった。原爆ドームや原爆資料館は、頭のすみに少しだけの私だった。
しかし、原爆資料館の展示物の前に立つとぞっとした。強く、バットでガツンとやられたような衝撃だった。まっ黒の弁当箱、焼け野原になった町の写真、助けを求める人たち。
(いったい何が起こったのだろう。なぜ?どうしてこうなってしまったの?)
私は、ピースサポーターの佐藤さんのお話に全身全霊をかたむけた。当時のことをくわしく熱心に説明していただいた。音声ガイドを何度も聞き返した。頭の中が真っ白になった私に佐藤さんはくり返し、うったえた。
「原爆の影響で亡くなった人は、14万人。」
(私のクラスの約4,500倍?!)
「今も原爆症で苦しんでいる人は2,000人以上。」
(70年間も苦しみ続けていて、70年経った今でも…)
次々と流れこんでくるおそろしい事実に、あまりのおどろきで声も出ず、最後に、原爆ドームを見た時は、なみだが流れた。70年前、焼け野原の中にぽつんとあった原爆ドームと、現在のにぎやかで明るい広島の町の中にある原爆ドームは全くちがうように見えた。知らないことっておそろしいことだ。原子爆弾のおそろしさを知らなければ簡単に使ってしまう。戦争のこわさを知らなければ、簡単に戦争を起こしてしまう。展示室最後にあったオバマ大統領の言葉に私は大きくうなずいた。
「生き証人たちの声は聞こえなくなるだろう。しかし、8月6日の記憶を風化させてはならない。」
たくさんの人がこの事実を知らなければ同じことがくり返される。原爆の被害を受けた人だけが伝えていくのではない。私たちも、伝えていくことが大切。そのためには、私自身が、学ばなければいけないと思った。
私はこの夏、原爆に関する本「ヒロシマのうた」(今西介祐著)を読んだ。戦争とは、人の感情をうばうもの、人を傷つけるやり方では、決して解決してはいけないことを学んだ。
しかしそれ以上に原爆がもたらした苦しみに負けまいとする主人公ヒロ子の力強い生き方と焼け野原から復活した元気な広島の町のイメージがちょうど重なった。
人間は強い生き物だ。苦しみや悲しみから立ち上がり、前に進もうとする力を持っている。だからこそ私は考える。戦争を起こし、ゼロから積み重ねるエネルギーをさらに現在を発展させる力に生かしていった方がよりよい世界がつくれるのではないかと思う。
私はこの夏、広島訪問をきっかけにして、平和について考えることができた。私にできることは思いつかない。でも、戦争を伝えていくことの大切さ。そして、自分から学んでいくことの大切さを知ることができた。さらに、平和な社会をつくるためには、自分の考えをもつことの大切さを学ぶことができた。
私は将来、学校の先生になりたいという夢をもっている。その気持ちがさらに強くなった夏になった。未来に向けて平和の大切さを伝えていきたいという理由が加わったからだ。そのために、もっともっと学んでいきたい。過去のことも。未来に必要な力も。
小学生の部【優秀賞】
平和な日々に感謝
西古川小学校6年 門間 百桃
昭和17年、太平洋戦争が始まって2年目に、私の祖父は生まれました。当時は食料不足でさつまいもやじゃがいもを食べたり、配給された米を食べたりしていました。米はとても貴重でめったに食べられなかったそうです。戦争によって、文具・紙・はき物・服が不足していたそうです。
祖父の母は、祖父が生まれて間もない頃に亡くなりました。祖父の父は戦争へ行っていたので祖父の姉達が親代わりとして祖父を育ててくれました。当時は、粉ミルクが無い時代だったので子供を産んだ人に母乳をもらって歩いたり、米を煮た汁を飲んだりしていました。1才の頃、お腹を空かせた祖父は、ろばたに置いてあったおにぎりを取ろうとしたところ、炭火で火傷をしてしまいました。昔は救急車や近くに病院もないため、祖父のお姉さん達が交代で、10キロメートルはなれた病院まで、バスで連れていってくれたそうです。戦争中だったので、薬も不足していました。火傷が治るまでには時間がかかったようです。今でもかたから右手にかけて、火傷のあとが残っています。一日一日を生きるのが精一杯だったと話してくれました。
私は、祖父から戦争によって平和な日々が失われてしまうということを知りました。
日本は、なぜ戦争をすることになったのでしょう。戦争について、もっとくわしく知りたくなりました。小学四年生の時、家族と一緒に広島の平和記念公園(原爆ドーム)に行きました。広島の原爆ドームは、当時の恐ろしさを、生々しく語っているように見えました。
昭和20年8月6日月曜日8時15分、一発の原子爆弾が広島に投下されました。8時15分は朝礼の時間のため子供達は外へ出ていました。何もさえぎる物も無く、亡くなってしまった人が多かったそうです。原子爆弾が投下された場所から2キロメートル以内は丸焼け。火傷を負った人は薬が無かったので、ただの油をぬって、いたみをごまかしていたそうです。これによりその年の12月までには、14万人の人々の命がうばわれ、生き残った人も、放射能の影きょうで白血病になってしまい、亡くなった人が多かったそうです。その内の一人、佐々木禎子さんは、「つるを千羽折れば治る」と信じ、つるを折り続けましたが、ひ爆した10年後に亡くなりました。今でも、世界中から折りづるがささげられているそうです。
私にとって「平和」とは何か、を考えました。健康で家族と一緒にごはんを食べ、毎日安心して学校へ行き勉強ができるこの当たり前の毎日が、平和ということが分かりました。
今年の5月、核兵器を所有している国のひとつであるアメリカのオバマ大統領が、広島の原爆ドームを訪れました。「核兵器なき世界」を目指す決意を改めて示しました。この機会をきっかけに、核のない世界へ広がる一歩になることを願います。
これから私達にできることは、核兵器に反対する心を持ち続けること。そして、71年前の広島や長崎で原子爆弾が投下された悲劇を、みんなに知ってもらうことです。
今、私が過ごしている当たり前の毎日は、当たり前じゃないことが分かりました。健康で家族と一緒にごはんを食べ、毎日安心して学校へ行き勉強ができる平和な日々に感謝していきます。平和な日々が続きますように。
小学生の部【優秀賞】
黙とうの意味をさがして
古川第五小学校6年 菅原 千鶴
私は、テレビを見て黙とうした。しかし、なぜ黙とうをするのか分からなかった。戦争がどういう出来事だったのかも知らなかった。そして、どのようにして、多くの人々が亡くなってしまったのか、戦争の本を読んで知ることにした。
筆者、米澤鐡志さんは、当時11才だった。広島に原爆が落ちた時、鐡志さんは、お母さんとにげていたという。にげている間、たくさんの、けが人や苦しんでいる人を見てきた。原爆の熱さに焼かれた人々は、背中やうで、顔などにやけどをし、皮膚がべろりとむけ、むき出しとなった肉は、水ぶくれができていて、血がにじみ出ていたという。文章を読むだけで、痛みが伝わってくる。私は背中がぞっとした。
私は、今まで戦争というのは、これらのことだとは分からず、興味をもつことをしなかった。人が死んでしまうということや、爆弾で人々を苦しめたりということしか分からなかったが、改めて、興味をもつことができて、あの時なにがあったのか知ろうと思った。
鐡志とお母さんは、原爆の黒い雨にあたってしまい、ひばくして病気になった。母と鐡志は病院でとなりどうしの病室にいたが、母の病が悪化し、死にそうになって、体の色もむらさき色になっていて、歯ぐきから血をながしていたという。私は原爆の光や雨でひばくし、ここまで苦しむことになるとはと、おどろいた。戦争をするということは、人を殺すということ。しかし、同じ人間なのにどうして殺しあわなくてはいけないのか、そのことが、まったく理解できないのだ。人々はなにも悪いことはしたわけではないのに、むざんに殺され、爆弾にふき飛ばされあとまで苦しむようなことをさせられなければならないのか。私はその人たちがかわいそうでした。戦争を始めようと言い出した、えらい人に大声で、これはひどすぎるとうったえたいくらいだ。
私がもしも、本当に戦争の現地にいたとした時、そこで死者や死体、苦しみにたえられず、叫び出す人たちを目の前で見たとしたら、私はどう思い、どう感じるだろうか。今、平和にくらすことのできている私なら、かわいそうで見ていたくないと思うだろう。助けたい人がいても助けられない。助けてしまうと自分の命までも危険になる。だから、そのまま、見のがすことしかできない。そんなまじりあう気持ちがあると、人を見ることも、その場を通ることも、気が重く、苦しく、ぐっと息がつまり、できなくなる。だれも見たい人などはいないのだ。見たくなくても目に入ってくるのだ。悲しい広島の風景が。
戦争とは、人々の心の中まで変え、苦しみ悲しみ、痛みをじわじわ味あわせる。皮膚がむけた。赤ぼうを黒こげにされた。母を殺された。大切な人が死んでしまった。と、人々の思い、心をずたずたにする。残された人々には、残こくな出来事を一生背負わせるなど、ひどいことをする。この世に戦争などいらなかったのだ。今、私は平和な世に生きている。しかし戦争で、分からない事が私にはある。まだまだある。だから本を読み、よく知り、今がどんなに平和なのか。どんなに恵まれて生活できているのか分かったのだ。黙とうの意味を分かることができて良かったと思う。分かった上で、黙とうをすると、しっかりと心をこめて、することができたと、感じるからだ。
中学生の部【最優秀賞】
本当の戦争を知って
鳴子中学校2年 高橋 梨咲
私の祖父は昭和9年生まれである。現在82歳の祖父に私は祖父の幼少期、つまり日本が戦争をしていた頃の話を聞いた。
話を聞くまで私は勝手に戦争とはこのようなものだったろうと思い描き、戦争を体験した人のことを可哀想だと思っていた。
祖父はこう言った。
「今の人達にしてみれば、貧しかったんだ。」
戦争中の食糧は極めて少なく、かてご飯に大根の葉を加え、かさ増ししたものやじゃがいも等のデンプンを取り除いたカスをもご飯に混ぜていたそうだ。もちろん学校で給食は無く、祖母の話では、日の丸弁当しか持ってこれず、恥ずかしさから弁当を手でおおい隠しながら食べていたという。
私は「字のない葉書」という向田邦子さんのエッセイを読んだことがある。その一部に「暗幕を垂らした暗い電灯の下で」とある。祖父の話を聞いているうち、祖父の話とその文が重なった。実際、祖父は「空襲」から逃れる為に夜は電気のかさにふろしきをかぶせ、光がもれないようにしたり、家の外壁を全て黒く塗ったりしていたそうだ。そのようなことも全て、爆弾の標的にされるのを防ぐためだそうだ。
ここまでの話も私にとっては衝撃的だったが、最も衝撃を受けた話がある。
それは、祖父も祖母も体験した話で現代では考えられないものだった。
「DDT(ディーディーティー)」
この言葉を初めて聞いた時は、何を意味しているのか理解できなかった。DDTとは白い粉で薬のような匂いがし、頭のシラミやノミを殺す為のものだという。戦中や戦後はまともに入浴すらできなかったので体は不清潔になっていくばかりで、頭にはシラミ等がわいたそうだ。だから、祖父や祖母達は一列に並ばせられて、頭からDDTをかけられたという。私は思った。
(今じゃ考えられない…)
今は毎日入浴できるし、髪や身体を清潔に保つことができる。それができないなんて考えたことも無かった。もし自分の頭にシラミがいたら…と考えただけでも身震いしてしまう。それに祖母の場合、今の私のような年代でこんな体験をしていたなんて、さぞかしつらかったろう。今の私達のようにかわいい洋服を着たり、どこか遠くへ出かけたりするという楽しみはおろか、今ではありえないようなことがたくさんあった時代がほんの70年程前まであったということがすぐには信じられなかった。
今は、何でも便利になって、それが当たり前になった。戦争を知らない世代も多い。私もその中の一人である。しかし、日本が戦争をした事実は変えられない。戦争によって体験した出来事は消せない。今がどれだけ便利になろうと、過去は変えられないのだ。だけれど、忘れさられる事はある。いつかは戦争を知らない世代しかいなくなる。そうなると誰も戦争のつらさが分からず、また同じ過ちを繰り返してしまうかもしれない。だから伝えなくてはならない、戦争のつらさを。食糧も無く、空襲という脅威に怯えながら、満足な生活もできず、苦しんでいた人々がいた、そしてその中には私達と同年代の少年少女がいたことを。
私は祖父から戦争についての話を聞いてから、自分なりに考えることが増えた。
それは、戦争をしていた時代は「平和」ではなかったのか、ということだ。「平和」と辞書で引くと、「戦争や災害、もめごとなど心を悩ませることがなにもなくて、おだやかな状態であること」と、なっている。この解釈だと、戦争をしていた時代は「平和」ではなかったはずだ。しかし、今はどうなのか。今は戦争はなくなり、戦争中と比較しても食糧不足で困ることは減ったように思う。けれども災害はある。現代ならではの病気や事故、事件も数多くある。このことから考えると、今も「平和」であるとは言えないかもしれない。でも少なくとも現在日本には戦争がない。国際的に紛争やテロで苦しんでいる人は、多い。その中で私たちの「平和」はとても貴重なもので、これからも大事にしていかなければならないものだと、改めて思う。
私たちの役目は、戦争について聞くこと、調べること。そしてそれを次の世代にしっかりと引き継ぐことではないだろうか。平和な時代が続くように。「平和」の有り方を考えさせてくれた祖父と祖母に感謝している。
中学生の部【優秀賞】
歴史を学び、平和について思う事
三本木中学校3年 大泉 りさ
「戦争がこわいと感じたのはいつからだろう」ふいにこの疑問が頭をよぎった。その疑問に答えるため、私は考えた。
私は、物心がついたときから、戦争という悲劇が私の住んでいる日本でも起こったことを知っていた。そして、その戦争というものが恐ろしいというのも知っていた。なぜ私が戦争のことを知っていたかというと、私の祖母が戦争を体験しているからだ。そして8月にテレビなどで戦争のドラマや平和式典があると「アメリカの爆撃機B‐29が日本中に爆弾を落としていったんだよ。」と私に語ってくれた。しかし、私は小学校3年生くらいまでは、この戦争が日本とアメリカの間で勃発したということと、日本の広島と長崎に原子爆弾という名の核兵器が投下されたということしか知らなかった。それから、歴史を学ぶにつれて日本が戦争をしていたのは第二次世界大戦だけではないということや、国同士が、どういう理由で戦争を起こし、人々がどの様な暮らしをしていたのかなどを学び、自分なりに考えると、私の戦争に対する考えがそれまでのただ恐怖という感情だけではなくなった。そこで私は、歴史を学ぶ大切さを改めて感じたのだ。
この第二次世界大戦で日本は負けた。それから日本はこれから戦争をせず、世界で唯一の被爆国として非核三原則を定め、現在まで71年間戦争をしていない。この戦争で日本は平和の尊さを知ったのだ。だから私は、本物の戦争を知らない。知らなくていい。私は歴史の中の戦争しか知らない。71年前に起こった戦争は私の想像以上に残酷で、悲しく、私が、その時代に生きていたらとてもたえられないだろうと思う。
私たちが学校で勉強ができるのも、ご飯が食べられるのも日本が平和だからだ。あたりまえの日常があるのは、そこに平和があるからなのだ。私はそれに感謝して、これから平和について考え、行動しなければならないと思う。
私はこの平和を守っていく中で心配なことがある。一つ目は、戦争を体験した人々が高齢者であることだ。実際に、体験している人々がだんだん少なくなってきて、いつか一人もいなくなってしまった時に、また戦争が起こる可能性がゼロではない。だからまたあの悲劇が繰り返すことがないように、行動していかなければならないと思うのだ。
二つ目は、まだ71年前の戦争の問題が解決していない事である。例えば、沖縄の基地の問題や領土の問題などが残っている。これらの問題の解決のためには、まだまだ多くの時間がかかると思うが、しっかり解決しなければならない大きな課題だと思う。
三つ目は、世界のどこかで、今も戦争が起こっている事だ。何かのきっかけで日本と条約などを結んでいる国と、どこかの国が戦争をして、日本もその影響を受けることがあるかもしれない。そして、日本が他の国から攻撃される可能性もゼロではない。また、今は科学の技術が進歩して前よりも武器が強力になっている。このような武器が争い事に用いられたら、これまでよりも犠牲者が大きいかもしれない。
私は争いから学ぶことが多いと思う。しかし、それは戦争をしていい理由にはならない。私は、人々が平和の大切さを忘れないで、争いのない世界がくることを望んでいる。どんなに難しく、長い時間がかかってもいい。そうなって欲しい。争いが皆無にならなくても小さく、縮小することはできる。互いが互いを認め合い、もし争いが起こっても、すぐに解決できるようになればいい。私たち、人間一人一人が、互いのことを尊重し、認め合えば争いはなくなっていくと思う。
私はそう信じている。
中学生の部【優秀賞】
「平和」とは何か
松山中学校3年 遠山 美帆
「日本は平和な国だ。」
「君達は平和な時代に生まれてきた。」
“平和”よくきく言葉だった。周りの大人に他の国で何か事件が起こったときや、日本の戦争について学んだときに必ず言われた。私は中学2年生までは平和について考えることなんて一度もなかった。終戦記念日の日のテレビなんて、自分には関係ないからという理由で見向きもしなかった。しかし、中3になった今、私は授業で戦争について学んだことをきっかけに平和について考えるようになった。
昔の私は、戦争をしていなければその国は平和だと考えていた。しかし、自然災害やテロで命を失っている人もいるのに平和といってよいのだろうか。自然災害やテロ以外でもなんらかの事件に巻き込まれてしまう、ということもある。例えば、7月にあった戦後最悪の殺人事件。この事件で19人もの人命が失われてしまった。その犯人は「障害者がいなくなれば世界は平和になる。」という考えを持っていた。障害者がいなくなると、本当に世界は平和になるのか。私はそれを実際に確かめることはできない。しかし、その人は自分の考えを現実のものにするために、行動してしまったのだ。私はその事件を初めてテレビで見たとき「まさか日本でこんな事件が起こるなんて。」と思った。海外でも「平和だとされていた日本で、戦後最悪の殺人事件が起きた。」と報道している。自然と私の頭の中で“日本は平和で安全な国”というイメージが染みついていたのだ。それは海外でも同じことだった。皆イメージで平和だと決めつけて本当の日本の姿が見えていなかったのだ。
私はこの作文を書くにあたって祖父に戦争について話をきいた。祖父は幼いころ、横浜に住んでいた。しかし空襲で命が危なくなり親戚のいる松山に逃げてきたそうだ。現在のように新幹線があるわけではないので普通列車で、しかも途中空襲で止まったりしながら約3日かけて松山まで来た。松山に来た後も土間で生活をし、充分な食事もとれなかったらしい。祖父は「今思えば、よくあれだけで生きられたものだ。」と言っていた。私は祖父に、祖父にとっての平和をきいてみた。すると祖父は「昔お腹いっぱいご飯を食べることができなかったから今、孫たちと笑いながらご飯を食べられること。」と答えてくれた。私は実際に戦争を体験したことはない。今、世の中にいる人の約八割がそうなのだ。それでも写真や映像だけで私は戦争の恐ろしさを知ることができた。また8月6日に広島、9日に長崎に落とされた原子爆弾。この原爆でたくさんの建物が燃え、壊れ、たくさんの尊い命が失われた。いくら写真で、恐ろしさが分かっても原爆が落ちた時の熱さや建物が壊れる音、人々の悲鳴は感じることができない。それを実際に体験した、当時の人々はきっとこう思っただろう。「今日は人生で一番最悪な日だ。」と。だが、日本にとって最悪な出来事はアメリカにとっては正しいことだったのだ。当時アメリカは、無条件で日本の負けを認めるポツダム宣言を提示していた。しかし、日本はそれを受諾しなかった。これ以上戦争が続けばアメリカも損害が大きくなる、と考えたのだろう。それでアメリカは日本に原爆を落とした。このときアメリカが原爆を落としていなかったら戦争は終わってなかった、という理由から、アメリカにはアメリカのしたことは正しい、と思っている人が少なくないのだ。
これらのことから、私は平和の考え方は人それぞれなのではないだろうか、と考えた。それぞれの平和への考え方が違えば、平和の在り方も違う。私はそう感じた。しかし、平和の考え方が違うのなら“世界平和”というものは、夢のまた夢ではないか。なのになぜ、皆世界平和を願っているのだろう。光が強ければ強いほどその分、陰が濃くなるように、どこかが平和でもどこかでは悲しみ、苦しんでいる人がいるというのに。それが現実だと、なぜ素直に受けとれないのだろうか。
平和とは、私達が安心して過ごすためのちっぽけな言葉にすぎない。“平和”からは何も得られないし、何も生まれない。どれだけ頑張っても、誰にも認められず孤独になる人がうまれてしまう。その人に平和は、何の意味も持たない。もし、皆が願う“世界平和”になったとしても長くは続かないだろう。永遠なんてものはない。何かの拍子に日常は崩れてしまうものだ。
私はここで平和について考えたが答えは出なかった。しかし、だからこそ平和への疑問を常に持ち皆でそれを共有し、分かち合うことで少しでも長く平和を続けられるのではないだろうか。10年後も、20年後も私はそうやって過ごしていきたい。
中学生の部 【優秀賞】
平和な世界
松山中学校3年 田口 ほのか
「平和な世界になりますように」
誰もが一度は願ったことがあるのではないでしょうか。平和な世界、その平和な世界とはどのような世界を言うのでしょう。戦争のない世界と答える人がほとんどだと思います。平和という言葉を辞典で調べ対義語を見てみると戦争とでてきます。私達の間では、この考えが当たり前になっているのです。ですから戦争をしていない、この日本を平和な国だと言うのでしょう。
しかし平和の対義語が戦争ではなかった場合、本当にこの日本が平和だと言えるのでしょうか。私はこの平和の意味を考えてみました。
私達は日常的に家族や友人と争うことがあります。そのきっかけはとても小さなことが原因の場合がありますが、お互いの意見が合わなくて、口論になることも多くあります。またそれは最近ネット上でよく目立って見られます。色々なサイトの書き込みに対しての匿名での批判的なコメント。さらにそのコメントに対しての批判的なコメントの応酬。そのようなことがくり返されているのです。
このように小さな争いは、私達の身のまわりで日々行われています。人にはそれぞれ自分の意見があるため、それをお互いに主張し合えば、争いは避けることができません。特にネット上など相手の顔が見えない環境では、普段自分の意見を言えない人でも、積極的に発言できるため、争いが多いのではないのでしょうか。自分の意見の主張ばかりではなく、相手の意見を尊重できる人が増えれば争いは少なくなるのかも知れませんが、それは非常にむずかしいことなのでしょう。とても身近なところでの争いは喧嘩と呼ばれるものです。しかしその喧嘩も一歩間違えれば戦争のように命を失うことにつながってしまいます。
私達学生が一日のほとんどを過ごす学校は、色々な意見を持つ人達が集団生活をする場所です。仲良く集団生活をするためには、相手を批判してばかりはいられません。周りに合わせ協力するということが必要なのです。多勢の人達が一緒に生活する中では、多くの人が支持する意見と、そうでない意見に分かれます。そして私達は多数派の考えを、普通や常識としてとらえます。少数派の考えは、普通ではない、非常識だと言って、集団生活でもやはり批判が起きるのです。
少数派に属し、多数派から批判やいじめと呼ばれる差別にあってしまい、自殺をしてしまう人もニュースなどで見聞きすることがあります。日本では今、いじめによる十代の自殺が問題になっています。自分の意見は間違っているのだと傷つけられ、追いこまれて、生きているのがつらくなり、自ら命を落としてしまうのです。
私は中学1年生の時、実際に戦争を体験された方からお話を聞く機会がありました。その方は戦争の残酷さを教えてくださいました。その中で印象強く残った言葉があります。「私達は一人に一つ、毒薬を持たされました。母は私に、辛くなったら飲みなさいと教えました。」この方は満州から日本に引きあげてくる途中で、何か辛いことがあったら、自ら命を絶つように教えられたのです。これは現在問題となっている自殺と同じものです。
今、戦争をしていないこの日本で、十代の子が他の人からの言動で、自ら命を絶つということが起きているのに、平和だと言えるのでしょうか。私は強く疑問に思います。
多数派の中でも中心となる人物が必ずいます。その人は自分の考えを強く主張できる素晴らしい人です。そのような人が全員いじめをするわけではありません。しかし、自分の考えが一番正しいのだと決めつける人がいたら、それは良くないことだと思います。その例として今年起こった戦後最悪と言われた障害者施設殺人事件の犯人がいます。彼は「障害者は社会的に不要な存在だから死ぬべきだ。」という自分の考えを正しいと思い、結果的に事件を起こしてしまいました。この事件は日本中を驚かせました。しかし、彼の考えに賛成する人達がいることも事実なのです。家族に障害者がいると、お世話が大変だと言う意見もありました。ですが、人を殺すという行為は常識的に考えて絶対やってはいけない行為なのです。しかし彼は自分なりの解釈で、社会のためを思ってやった事件だったようです。それが彼の思う平和だったのです。
人にはそれぞれ自分が思う平和があると思います。それでも皆声をそろえて言うのです。「平和な世界になりますように」と。それはやはり多数派の考えだからなのでしょう。
世界が本当に平和になった時、私たちは日本が平和ではないことに気付くのでしょう。
中学生の部 【優秀賞】
平和
古川北中学校1年 齋藤 彩花
平和とは何か。私が思うに平和とは、戦争や争いがなく、人々が皆平等であるということだと思います。
私たちは戦争ということを体験したことがありません。とても残酷で、子供なのに戦わなければならなかったり、罪の無い人々まで巻き込まれ命を落とす。今の日本ではそんなことは考えられません。しかし、昔の日本ではそれが起きていたのです。
昭和20年、8月6日に広島、9日に長崎に原爆が投下され多くの人々が悲しみ、苦しみ、命を落とした。そして15日に終戦した。小さい頃に聞いたときは、その意味があまりよく分かりませんでした。でも、小学校に通うにようになって、戦争の話を聞くようになってからは、その人々の苦しみをやっと理解できました。大切な人がいなくなる悲しさ、逃げなければ自分が殺されてしまうという恐怖、戦争への怒り、考えるだけで心が痛くなりました。
戦争以外に解決策は無いのか。戦争しなければ解決できないのか。人を傷つけ悲しませる。戦争は、けんかと同じだと思います。けんかは話し合えば、分かり合え仲直りできます。戦争をしないで、国同士がしっかり話し合えばなくなると思います。
それと、私たちは戦争を知らない人たちに戦争について教えていった方がいいと思います。これからは戦争が分からない人たちがどんどん増えていくので、私たちが大人になったら、どれだけの人々が苦しんだのか、どれだけの人々がつらい思いをしたのかを伝えていきたいと思います。
戦争から得られる物、それは何一つありません。得られる物は、人々の悲しさ、憎しみ、傷ついた心だけです。だけど世界にはまだ戦争を続けている国もあります。それで幸せなのでしょうか。世界も日本を見習って戦争はもう二度としないという誓いをたててほしいです。
それと、もう一つは「地雷」についてです。地雷は「悪魔の兵器」とも呼ばれているそうです。それは、人や車両の接触や接近によって爆発して危害を加えるからです。それに、そんな危険な兵器をたった300円で手に入れることができるのです。安くて便利だからといって戦争に使われますが、犠牲者は女性や子供など、罪の無い人々です。それに、オモチャに見せかけた地雷をつくり、近づいてきた子供を殺そうとしたり、殺してしまうよりも負傷させた方が敵兵力を奪うことにつながるからで、さらに障害者が増えれば働けない人々が増えその国の経済力が低下する。そんな残酷な考え方をする人々もいるのです。そんなふうに人を簡単に傷つけていいのでしょうか。人の命はそんなに軽いものでしょうか。私はこんな考え方をする人たちを人とは思えません。悪魔としか思えません。
私が思う平和はもう一つあります。それは、今私たちが生きているということです。今私たちが生きているということは、自分たちの母親が、自分を産んでくれたからです。せっかく母親からもらった命を無駄にして、死のうとする人、死んでいく人は心が平和ではない、心が苦しい人です。自分を大切にできない人は、家族も友達も、みんなのことを大切にできません。だから、一人一人の心が平和で穏やかになれば、争いも起きないし、悲しんだり苦しんだりする人もいなくなり、みんなが平和で笑顔あふれる生活を過ごすことができると思います。今も世界のどこかで争いが起きているかもしれません。でも、世界中の争いをなくすのは無理だと思います。でも、小さな争いなら、私たちでも解決できます。一人一人が「戦争をしてはいけない。」「戦争は人を苦しめる。」ということをしっかり理解して「自分を大切にし、みんなも大切にする。」という気持ちを大切にしたいです。
しかし、今でも戦争をしている国があります。その中には、ミサイルや爆弾が使われたらと思うと、とても恐ろしいです。私は核兵器やミサイル、爆弾などをこの世界から無くすための努力をしないといけないと思います。みんなが努力しないと、平和はおとずれませんから、世界中の人々がいっしょに努力してほしいです。
私は、今まで平和について考えたことがあまりなかったので、もっと平和とはなんのか、幸せとはなんなのかを考えていきたいです。そして、もし、戦争をしていなければ生きていたであろう人々のためにも、責任をもって幸せに生きていきたいです。世界が平和になる、その時まで。
この記事に関するお問い合わせ先
政策課
〒989-6188
大崎市古川七日町1-1 市役所本庁舎3階
電話番号:0229-23-2129(政策企画担当、地方創生担当)
ファクス:0229-23-2427
更新日:2021年02月26日