平和作文コンクール(平成29年度)
小・中学生平和作文コンクール(平成29年度)
大崎市では、子どもたちの平和に対する思いや考えを発表する作文コンクールを毎年実施しています。
平成29年度は229作品の応募があり、審査の結果、最優秀賞として小学生の部では長岡小学校6年守谷祐乃さんの「戦争が残すもの」が、中学生の部では鹿島台中学校3年西野蒼さんの「生と死は紙一重」が選ばれました。入賞作品は下記のとおりです。
小学生の部
市内小学校12校から35作品の応募がありました。
最優秀賞(敬称略)
題名 |
学校名・学年 |
氏名(敬称略) |
---|---|---|
戦争が残すもの |
長岡小学校 6年 |
守谷祐乃(もりやゆの) |
優秀賞(敬称略)
題名 |
学校名・学年 |
氏名(敬称略) |
---|---|---|
私が考える平和 |
西古川小学校 5年 |
後藤まどか(ごとうまどか) |
平和な世界 |
古川第四小学校 6年 |
熊谷奈央(くまがいなお) |
この夏平和について考えた |
古川第二小学校 5年 |
高橋将弥(たかはしまさや) |
私の平和な世界 |
古川第二小学校 6年 |
早坂菜々伽(はやさかななか) |
中学生の部
市内中学校6校から194作品の応募がありました。
最優秀賞(敬称略)
題名 |
学校名・学年 |
氏名(敬称略) |
---|---|---|
生と死は紙一重(内部リンク) |
鹿島台中学校3年 |
西野蒼(にしのあおい) |
優秀賞(敬称略)
題名 |
学校名・学年 |
氏名(敬称略) |
---|---|---|
いつかきっと(内部リンク) |
古川北中学校3年 |
山口綾菜(やまぐちあやな) |
平和の為にできること(内部リンク) |
古川北中学校3年 |
石川愛望(いしかわあみ) |
「知らない」戦争を「知る」(内部リンク) |
鳴子中学校3年 |
高橋梨咲(たかはしりさ) |
セトモノ注意(内部リンク) |
古川東中学校3年 |
喜古里美(きこさとみ) |
平和作文集
小学生の部【最優秀賞】
戦争が残すもの
長岡小学校6年 守谷 祐乃
「動くものすべてをミサイルでうちました。」
これは、第二次世界大戦で、戦とう機を操縦していた元アメリカ兵の言葉です。わたしは思わずゾッとしました。初めのターゲットは、工場や飛行場などでした。終戦間近になると、電車や自動車などの人を運ぶものから、馬や歩く人に変わっていったそうです。戦とう機に取り付けていた「ガンカメラ」というカメラに映像が残っていました。そこには草原で草を食べている馬がミサイルでうたれ、アメリカ兵の目に映るものすべてがうたれているようでした。アメリカ兵はさらに、
「目が合った少女の背中をうちました。」
とも話していました。少女は、一緒にいた友達を助けることができず、友達をそこに残したまま必死ににげたそうです。わたしは背中をうたれた少女を考えたら、背中が痛くなる気がして、とてもこわくなりました。超低空飛行で至近きょりからうたれた少女は、戦とう機のアメリカ兵の顔を、今でも鮮明に覚えているそうです。あのときのきょうふは忘れられないと話していました。うたれた傷には、なまりの弾が残り、それによって体をこわし何十年も苦しんできました。また、助けられなかった友達を思うと今でも涙が出るそうです。今、「ガンカメラ」の存在を知り、こんな物でわたしたちをとっていたのかと話し、わたしには悔しさや、いかりの声にも聞こえました。大切な命を、こんなにも簡単にうばってしまう戦争は、一生忘れられない悲しみや苦しみを残すものだと思いました。人々の体に傷を残し、命をおびやかすだけでなく、心にも傷を負わせます。その傷は、何十年経っても治らない、絶対に消えない傷なのだと思いました。
もし今、ここで戦争が起きたら、ミサイルがいつ落ちてくるかわからないというきょうふと一緒に毎日を過ごさなければなりません。あたり前の生活が送れなくなると思いました。父や弟が戦うために、戦争に行ってしまうかもしれません。当時、兵士を確保するために、男女関係なく小学生もかりだされたそうです。わたしは、二度と会えなくなるかもしれないと思うと、さらにこわくなり、絶対にいやだと思いました。目の前でたくさんの人が亡くなっていく姿や、まして、家族や友達を失うことなど、とてもたえられないと思います。心がおかしくなってしまいそうな気がします。
「動くものすべてがターゲットだった。」
と話していたあの元アメリカ兵は、終戦後、日本を見たとき、
「ここには人がいたんだ。」
とつぶやき、目に涙を浮かべ、悔やんでも悔やみきれないと話していました。アメリカ兵たちは、人をうつきょうふ心をなくすために、興ふんざいのような物を毎日飲まされていたそうです。戦争は命と一緒に人の心をもうばってしまうものだと思いました。攻げきした側にも、大きな傷を残すのだと思いました。あらためて戦争は、消せない傷以外は、何も残らないのだと思いました。わたしは戦争は絶対に起こしてはいけないと思います。武力や暴力ではなく、お互いを尊重した話し合いが大切だと思いました。言われたら言い返すことや、やられたらやり返すという考えは、お互いが傷ついてしまいます。わたしは、平和な未来を保つために、相手を思いやる心と、その気持ちを伝えることが大事だと思います。もちろん、命を大切にする気持ちがあれば、相手を傷つけることもなくなると思います。
終戦記念日に生まれたわたしは、今回戦争について、母からいろいろな話を聞かされました。二度と戦争が起きないように、戦争のこわさだけでなく、命を大切にすることや、相手を思いやることの大切さを、いつか自分の子どもにも伝えたいと思いました。そして相手の立場に立ったものの見方ができるようになりたいと思います。
小学生の部【優秀賞】
私が考える平和
西古川小学校6年 後藤 まどか
平和とは何か。私は、平和について考えてみました。
平和とは、何の不自由もなくくらしていること。家族や友達といっしょに楽しく過ごすこと。のどがかわいたら、水道の蛇口をひねればたくさん水を飲むことができることなどだと考えます。
しかし、私たちのようなくらしができない人たちが、世界中にはたくさんいます。今、こうしている間でも、私たちの知らないところで戦争が起こって、たくさんの人たちがぎせいになっています。戦争だけではありません。いじめを受けて、自殺をする人たちも多くなっています。それでは、平和ではないと思います。
では、平和にするにはどうしたらいいのでしょうか。戦争のような争いごとが起きないように、おたがいの世界が仲良くし合っていれば、戦争は起きないと思います。そして、おたがいが助け合うことだと思います。いじめにも同じことがあてはまります。自分がされていやなことは、相手にもいやなことなのでしないで仲良くして、こまっているときには、助け合えばいいと思います。そうすれば、いじめも減ると思います。
そのためには、一人一人が他人を思いやり、自分のやっていることにあやまちがないかを考えて行動をしたら、きっと世の中は変わり、平和になると思います。
「戦争はやってはいけない。」
「いじめはやってはいけない。」
という意見をもっている人はたくさんいると思いますが、すぐに戦争やいじめなどをなくすことはできません。
しかし、一人一人が心をあらためて、小さいことでもいいので自分にできることから少しずつ行動していくことが大切だと思います。そうすれば、きっと戦争やいじめはなくなると思います。
私は今、おいしいものを食べられて、お店にいけば何でも売っていてほしい物がいつでも手に入るし、家があり家族もいます。学校に行けば先生や友達がいて、楽しく生活することができています。そう思うと、平和にくらしていることが考えられます。
今、世界ではたくさんの戦争やいじめが起きています。そして、たくさんの人たちがきずつき、亡くなっています。このようなことから、「平和とは何か」を考えたときに、戦争やいじめがないことが平和とは思えません。
本当の平和とは、友達や家族がいつもとなりにいて、相手を思いやったり、助け合ったりしてくらしていけることだと思います。これからも、友達や家族を大切にしていきたいです。そして、世界が平和になるために自分でできることを一歩ずつふみだしていきたいと思います。
小学生の部【優秀賞】
平和な世界
古川第四小学校6年 熊谷 奈央
私が、平和と聞いて思いうかべることは、「戦争のない世の中」です。
具体的に言うと、世界中の人々がたがいに助け合い、仲良く暮らせる世の中、ということです。
私は、前にニュースを見ていたら、国際問題についてのことがテレビに映っていました。なんとなく見ていたら、父が、
「日本も、いつ戦争が起こるかわからない。」と言いました。
私は、その言葉を聞いて、少し怖くなりました。なぜかと言うと、戦争についての本や映画などを見て、このような争いは、もう、あってはならないものだと感じたからです。
私が前に見た映画の「ほたるの墓」では、かつて七十年以上前に起きた、太平洋戦争についてのことが表わされてあり、目をそむけたくなる悲しいシーンがたくさんありました。ほかにも、本などでは、「はだしのゲン」を読んで、戦争の時代に生きる人々が、どのような暮らしをしていて、どのような悲しい思いをしたかがよくわかる作品だと思いました。
今の日本に平和というものが完全になくなって、私たちの周りで、戦争が起こってしまったら……と思うと、日本という国が、心配になるし、怖くて怖くてたまりません。
それに、テレビでは、今も、どこかの国で戦争が起こっていて、それによって、何の罪もない人や子どもたちが命を落としていると、聞いたことがあります。
戦争をすることで、何も得るものはないし、その国に悲しい歴史が残るだけだと私は思っています。
もしも、戦争をしていた国どうしの、どちらかが勝ったとしても、戦争をして、たくさんの人々が亡くなったということの方が、大きいと思います。
今みたいな世の中だからこそ、前に起きた戦争のようなやり方で問題を解決するのではなく、人々が悲しい思いをしない、人間だけがもっている「言葉」を使って問題を解決するべきだと、私は思っています。
日本だけでなく、この世界中の国が争いのない世の中にするには、世界中で平和についてしっかり話し合って、太平洋戦争での悲しみは、もう二度と、くり返さないことが、大切だと思います。
小学生の部【優秀賞】
この夏平和について考えた
古川第二小学校5年 高橋 将弥
夏休みに入ってからのテレビでのニュースでぼくの耳に入ってくるのは、北朝鮮がミサイルを発射しようとしているということと、それに対する各国の対応や七十二年前に投下された原ばくに関する話でした。
北朝鮮がミサイルと核兵器を開発していて、その実験のために打ち上げたミサイルが、日本領海の外ではあるけれど排他的経済水域といわれるところに落下したりしています。
「まちがって日本に落ちたりしないだろうか。」
「アメリカでは、北朝鮮のミサイル、核開発を非難していて、日本もアメリカとともに非難していたけれど、それに対して北朝鮮は怒って日本をねらってミサイルを打ち上げないだろうか。」
ニュースやワイドショーなど、大人たちの話を聞いてとてもおそろしくなりました。
そんな中、七十二年前、広島と長崎に原ばくが投下され、そのとき被害を受けた原ばくのおそろしさや怖さを伝える被ばく者の人たちが年々少なくなっていることを伝える番組がありました。
その番組では、被ばく者の人たちが書いた、原ばく投下後のまるで地ごくのような絵がうつっていました。真っ黒な人間や、皮ふが全身むけて真っ赤な人、とても怖かったしとても悲しかったです。
そして、被ばく者の人たちが声をそろえて、声を大にして伝えてきたことは、二度と戦争をしてはならないということでした。
日本は世界でゆい一原ばくを投下された国で、それによってさっきまであった日常が地ごくとなってしまった。そのおそろしさを伝えていました。ぼくは、その番組を見て、戦争は絶対にしてはいけないことだし、今まで考えたことのないことも考えたりしました。
この番組を見るまでは、ぼくにとって日本は平和な国というイメージしかありませんでした。今までは、広島や長崎に原ばくが投下されたことはなんとなくしか聞いていませんでした。だからこんなに平和について考えたのは初めてでした。
「戦争はだめだと言い続けてくれた被ばく者の人達がだんだん少なくなってきたら、ぼくのように平和ボケして、戦争のおそろしさや怖さを考える人が少なくなってきてしまうのではないだろうか?そうなったらどうなるんだろうか。」
「今までは、けん法では、日本は戦争はしないと言っていたけれど、これからもそうだろうか?このままだとアメリカの言うことを聞いて日本も戦争に参戦してしまう日がいつかきてしまうのではないだろうか。」
ぼくはいろいろなことを考えました。でも、被ばく者の人たちがあんなに声をそろえて、二度と戦争をしてはいけないと言っていたのだから、やっぱりどんなことがあっても戦争をしてはいけないのだと思います。だから体験はしていなくても、一人でも多くの人が、七十二年前のことを勉強して、考えて、伝えていかなければならないのだと思います。
そして日本は、世界でゆい一原ばくを投下された国として、戦争と核開発は絶対にしてはいけないということを世界に向かって言わなければいけないと思います。
この夏、テレビでこのような番組を見て決して楽しいとは言えませんでしたが、今まで以上にテレビで戦争と平和について伝えていかなければならないのではないでしょうか。ぼくは、そう考えました。
小学生の部【優秀賞】
私の平和な世界
古川第二小学校6年 早坂 菜々伽
(平和って何だろう?)
私はふと考えました。今は平和な世界なんだろうかと。私は平和ではないのか。今、自分は幸せだ。周りの皆も幸せなように見えるが、幸せだけが平和なのだろうか。私は違うと思います。なぜなら、全世界の人々が幸せになることは絶対不可能だと言っても過言ではないからです。一人一人幸せが違うからです。ご飯を食べられる幸せ、一億円手に入ったら幸せなど、大小たくさんの幸せが存在するからです。では、幸せではないのなら何が平和なのでしょうか。
次に、自由とは平和につながるのかと考えました。皆が自由にすれば平和になるのでしょうか。私はこれについては絶対に違うと思っています。全世界が自由になってしまえば地球は崩壊すると思います。自由なんて平和とかけはなれているとも思ってしまいます。しかも、皆が自由なんて大きすぎると思います。戦争がない、自分の意見をしっかりと言う権利があるなんてことが平和になるのなら、平和というものは、いつになったら、地球に訪れるのでしょうか。ならばもっと小さい平和でいいのではないでしょうか。
私が、寝られることが平和になったとしても、皆が平和になってほしいと私は思っているので、やはり、平和ということを考えるのはかなり難しいと思います。平和という一言で、皆一人一人違う平和をもっているので、皆が考える平和にすることは困難だと思います。
平和が特別なことではなく、ごく普通のことであってほしいと私は願っています。しっかり平和に向き合うことも必要だと思います。だけど、ごくごく平凡な日常とかけはなれた存在にしてはいけないと思います。日常のどこかで普通に平和だなあと思ってほしいです。もし戦争が身近で起こってしまったとしたらその現状に深く失望し、生きようという努力をしたくなくなるかもしれません。ですが、そのとき、自分が生きていることに喜びと希望をもって、普通の日常より小さくなっても少しのことで立ち上がり平和を取り戻してほしいです。
私の考える平和がやっと見つかりました。「平和という言葉を日常的に思うことができ、平和を特別なことに思わない世界」です。私の平和をいつまでも心に残していきたいと思います。
中学生の部【最優秀賞】
生と死は紙一重
鹿島台中学校3年 西野 蒼
「生と死は紙一重なりといふ言葉 戦ひ経たるわれは肯ふ」
これは戦争を経験した曽祖父が詠んだ歌です。
「戦争を経験した自分は生と死が紙一重だということがよくわかる。」という意味なのでしょうか。戦争を知らない私は、この歌を初めて見たとき、なぜ生と死が紙一重なのか全く意味がわかりませんでした。
私の二人の曽祖父は戦争を経験しています。一人はこの歌を詠んだ曽祖父で、原爆が投下された八月六日、衛生兵として広島にいました。しかし、奇跡的に負傷は免れ、無事に帰郷しました。もう一人の曽祖父は特攻隊員として鹿児島の知覧空港にいましたが、出撃を控えていた時に終戦を迎えました。二人はその後、町の教育委員長や町議会議員を務めたり、自身の戦争経験を語る講演会に参加するなど、平和な未来を担う人々のために尽力しました。
私は中学一年生の夏休みに、市の平和事業に参加し、広島を訪れました。この平和事業のお話をいただいたときは、戦争への恐怖のイメージが強く、参加することに踏み切れずにいました。母は、
「あなたの命は、必死にひいおじいちゃんたちが繋いでくれたものなんだよ。ひいおじいちゃんたちが経験してきたものを、見て、学んできたら?」
と私の背中を押してくれました。広島は宮城よりも湿気が少なく、乾いた暑さが印象的でした。原爆ドームや原爆資料館を訪れましたが、その場所だけ戦争中の時のまま時間が止まっているようでした。
「原爆が投下されたときは、今日よりもずっとずっと暑かったんだろうな…。」
原爆資料館に展示されている写真はとても生々しく、涙がこぼれそうになりました。その場で目を閉じれば、人々のうめき声や叫び声、さらには地獄のような景色までもが私の周りを囲んでいるように感じました。平和事業の中で特に私が印象に残っているのは、「平和の灯火像」です。この像は、終戦記念日に式典が行われる、平和記念公園の中にあります。平和の灯火像の中心で燃えている火は、世界から核兵器が消えるまで絶やさないそうです。私はこのお話をガイドの方から聞いたとき、戦争や核兵器が消えることを願う人々の強い意志を感じました。戦争から平和へと着実に進んでいる証拠だと思います。
私は平和事業を振り返り、曽祖父が詠んだ歌にもあった「生と死は紙一重」の意味が少しだけわかった気がします。死んでしまってもおかしくない時代を、私の曽祖父たちは奇跡的に生き延びました。そして生かされた命を大切にし、次の世代へと繋いでくれました。だからこの言葉には、繋がれた命を持つ人々に対して、命があることがどれだけ素晴らしいことなのかを訴えかけるメッセージが隠されていたのではないでしょうか。
二人の曽祖父が天国へと旅立ち、私の親戚で戦地に出向き、恐ろしい経験をした人はもういません。しかし私は二人の曽祖父から平和を維持するという使命を受け継いだ気がします。平和な時代しか知らない私ならではの目線から、その使命を、曽祖父たちに教えられた戦争の悲惨さとともに伝えていきたいと思います。私の大好きな曽祖父たちのように、優しい笑顔と温かい心の持ち主で溢れる平和な未来をこれからも築いていくために…。
中学生の部【優秀賞】
いつかきっと
古川北中学校3年 山口 綾菜
私はテレビを見ながら、ふと考えていた。
「平和って何だろう。」
私が見ていたのは、戦時中を語る被爆者の姿だった。「平和」という言葉が浮かんだが、それよりも真っ先に出てきたのは「戦争」という言葉だった。「平和」と「戦争」が切り離せないことに、私は違和感を覚えた。
人間はなぜ、武器を取り、戦い、争うのか。理由は何であれ、他に解決する術はあったはずだ。それなのに、
「多少の犠牲は仕方がない。」などと言う人までいる。犠牲にしていい命があるはずはない。正義を盾に争いに走ってしまう、そんな人間は愚かで醜いと私は思う。安易な解決方法を選び、何の意味もなく血を流し、涙を流し、苦しむ者を生む。これ以上の愚行はないだろう。
私は以前、曽祖母から戦争に行った兄について話を聞いたことがある。その当時、戦争についてあまり知識のなかった私が、大きな恐怖を感じたことをはっきりと覚えている。赤紙や当時の食卓の様子、大切な人や親族との別れ。想像しただけで胸が痛くなり、涙をこらえることができなかった。その中でも、とりわけ赤紙については印象的で、私は深く考えさせられた。
赤紙が届いたら、戦争に行かなければならない。たった一枚の紙切れを、本人は、家族は、どんな思いで見たのだろう。届いたということは、愛する人との別れを意味する。想像しただけで、胸がしめつけられる。出征した多くの人が、大切な人や家族と再会を果たせなかったそうだ。曽祖母も兄と再び会うことはできなかったという。人生の別れを意味すると私は思った。戦場へ向かう若者たち。その先に待っているのは死に続く道。家族もまた、二度と会えないと覚悟したのかもしれない。
戦争の話を聞いて、私は、日常生活が送れる幸せについて改めて考えてみた。
六年前のあの日、普段と変わらない一日を人々は過ごしていたはずだ。数時間後、数分後に訪れる東日本大震災など、みじんも思わなかったはずだ。突如として襲った大地震と巨大津波は、甚大な被害をもたらした。家屋は倒壊し山は崩れ、ライフラインのすべてが止まった。沿岸部に住む人々は、目を覆うばかりの惨状だった。住む家を失い、家族を失い、日常が一変した。私の母も大切な友人を津波で亡くした。学校は避難所となり、限られた狭い場所での共同生活が始まった。食事は炊き出しで、わずかな量を皆で分けなければならない。それが何日も続いた。私は内陸部に住んでいるため、大きな被害は受けていないが、水道も電気も止まった生活はとても苦しく、不満ばかりが頭をめぐった。人は、不満や我慢の限界を超えると争うものだと思う。物資をめぐって争いがいつ起きてもおかしくない状況に、たくさんの人がいた。
しかし、人々は譲り合い、助け合い、互いに励まし合うことを忘れなかった。熊本地震のときも、岩手の大型台風のときも、人々は支え合うことを忘れなかったのだ。さらにボランティアの存在は、私の心を大きく動かした。遠く離れた地から訪れ、慈善活動に取り組む姿に、私は感動した。そして、これが人の持つ、本当の力ではないかと思った。
人間という生き物について考えるとき、人間には、両面あることに気づいた。愚かで醜い一面と、互いに助け合い、相手を思いやる面と、その両面を持っているのだろう。そして、追い詰められれば、自分を見失って誰かを傷つけてしまうこともある。社会問題となっているいじめも、自分の良さを見失うことから起きるのかもしれない。相手が傷つくことを知っていながら放つ暴力。それがたとえ言葉であっても、それは時に人の命を奪う。まるで、戦争中の赤紙のように、拒む間さえないまま傷つけられるのだ。今、日本は戦争をしていない。けれども、人によって傷つけられている人がいることは、決して平和ではない、ということかもしれない。
もし、今、私に赤紙が届いたら私はどうするだろう。赤紙を手に現実味を感じることができず、魂が抜けたように放心状態になるだろう。抱えきれない大きなショックを受けるだろう。家族は、一瞬にして悲しみの底に突き落とされ、大切な人を失った悲しみを抱えて生涯を過ごしていくのだろう。
そして私は、今を大切に生きたいと強く思った。必ず明日があるとは限らない。だからこそ今を大切にしたい。そして、家族、友達皆から愛された存在として、人の記憶に残りたい。せめてもの、それが最後の願いのような気がした。そして、これは、大切な人たちに対する願いでもあると思った。人を傷つけず、自分を汚さずに生きてほしい。人の愚かさ、醜さを乗り越えて、一人一人が毎日を平和に過ごせる日々が来ることを願っている。
中学生の部【優秀賞】
平和の為にできること
古川北中学校3年 石川 愛望
みなさんは、「平和」と聞いて、どんなことを思い浮かべましたか。私が一番最初に思い浮かべたのは、戦争のない世界です。戦争とは、国同士、または民族間、宗派間で武力を用いて争うことです。日本は、第二次世界大戦のとき、世界で初めて原子爆弾を投下された国、唯一の被爆国です。日本は、これを境に、二度と戦争をしないことを宣言し、今年で七十二年を迎えました。この七十二年をみなさんは、どう感じるでしょうか。戦争はもう遠い昔のことだと感じる人、祖父母の年齢と重ねて、現実味を感じてしまう人。長い間戦争をしなかったことに誇りを感じる人もいるでしょう。けれども、私は、七十二年もの間、戦争をしていないことは、当たり前のことだと思うのです。なぜなら、戦争は、どんな理由があっても、決してしてはならない行為だからです。
とても悲しいことに、世界では今もなお、戦争をしている国がたくさんあり、毎日、多くの人が戦争によって命を落としています。文明が発達し、ネットで世界中の人と一瞬でつながることができる現代においてなお、人と人が殺し合っている。医学が発達し、今まで不治の病と言われた人が完治し、社会復帰をしている現代においてなお、人と人が憎しみ合っている。この事実が、私には信じ難いことです。戦争をして、何を得ようというのでしょうか。何か得るものがあるのでしょうか。土地やお金、地位や名誉でしょうか。権力を示したいのでしょうか。しかし、それらが引きかえに失うものが多くあるはずです。亡くなった命は、もう二度と戻ってくることはありません。しかも、得るものよりも失うものの方が、実ははるかに多いはずです。傷つけられた人も生き物も、建物も自然も、すぐには元に戻りません。そして、目に見える傷よりも、見えない傷の方がおそらく深いのだと思います。
ある日、私はインターネットである記事を見つけ、衝撃を受けました。「二〇一五年に亡くなった人は世界五千七百六十万人。そのうち、一六万七千人が紛争犠牲者となっている。」というのです。一年でこれほどの人が、人によって殺されている。私にはどう考えても想像もつかないし、考えたくもない事実でした。一ヶ月に一万三千九百人以上、一週間に三千二百人以上、一日に四百五十人以上もの人が亡くなっているのです。自分の学校や職場、地域と重ねながら、具体的に数字にしてみると、どれほど恐ろしいことかわかります。自分の国、自分の民族、自分の宗派、自分の都合と価値観だけで、罪のない多くの人を危険な目に遭わせ、多くの死者を出す。それにもかかわらず争いをやめない国の大統領や政治家に、私は苛立ちと同時に悲しみを感じました。
どうしたら戦争はなくなるのでしょうか。何か日本にできること、私たちができることはないのでしょうか。このまま怒り悲しんでいるだけでは何も解決せず、さらに世界の状況は悪化していくと思います。何とかして、今の状況を止め、変えていかなければなりません。
私はまず、日本としてできることを考えてみました。日本は、世界で唯一の被爆国であり、七十二年もの間、戦争をしていない国でもあります。その立場から、核兵器がもたらす影響や被害の大きさ、また、平和であることの大切さ、幸せなどを、もっともっと世界に向けて発信、訴えていくべきだと思います。戦争で怪我を負った人、生活を失った人、辛い思いをしている人に、金銭的あるいは精神的な支援をすることも大切だと思います。体験した者として伝える、これはとても大きな説得力をもつはずです。
個人としてできること。これは、小さなことかもしれません。世界の出来事にもっと関心をもつこと、募金や支援の方法を探すこと。けれども、さらに大切なことは、相手に対して思いやりをもつことだと思います。人と喧嘩をしないこと、物事の解決を暴力に頼らないこと。これを一人一人が実践してこそ、本当に平和な世界が作れるのだと思います。世界で起きている悲惨なことに比べれば、とてもちっぽけなことでしょう。しかし、小さなことができなければ、決して大きなことはできないし、一人一人が意識することには大きな意味があると思います。思いやりの気持ちがあれば、「戦争」についての考え方も、見方も解決策も変わってくると思うからです。
世界中の人が安全で、平和な生活を送ることは、まだ遠いです。しかし、だからと言ってそれは不可能ということではありません。日々の生活の中で、世界のどこかで苦しむ人がいることを思い出すこと。自分ができる小さな思いやりを行動で表すこと。そんな輪が広がっていくことで、世界に「平和」が訪れる。私はそう思っています。
中学生の部【優秀賞】
「知らない」戦争を「知る」
鳴子中学校3年 高橋 梨咲
「平和、とは何ですか。」
私が今、このように訊かれたら、何と答えるだろうか。何と答えれば良いのだろうか。「平和」という二文字にはたくさんの意味があると思う。学級の中でクラス全員が仲良くする状態も平和だと言えるし、争いがなく豊かな暮らしができるのも平和と言えるだろう。しかし、多くの人が平和の意味について問われたときに答えるのは戦争のことではないだろうか。私はこの夏、自分の中で戦争について考えるきっかけとなる大きな経験をした。
七月末、私は長崎に向かっていた。市が主催した平和に関する事業に参加したのだ。それは二泊三日の行程で主に原爆をメインとしたものだった。全く知らない人と三日間を過ごすことに対して、多少の不安はあったものの、自分の目で実際の光景を見てみたいという思いが強くあった。私が原爆について理解していたのは、落とされた日にちと場所と甚大な被害があったということだけだった。どれも社会の教科書から学んだことで、それ以上もそれ以下もなく、私ももっと深く知ろうともしなかった。三日間を終え、「原爆に対する意識」が大きく変わった。行程の中で、被爆者の方の体験講話を聞くというものがあった。その方のお話の中で、「長崎で被爆した約十四万人一人一人にそれぞれの被爆体験がある」という言葉があった。その言葉は私の原爆についての気持ちを大きく変えた。その方は、七歳で被爆し、家族を全員亡くしたそうだ。約十四万人の被爆者。この言葉を私はそこで初めて耳にしたのではない。少なくとも、原爆が人々に甚大な被害を与えたということはわかっていた。しかし、やはりそこが、私のうわべだけの理解であった。十四万人という規模の大きさがよくわからず、被爆者に対して、心のどこかで他人事のように思っていたのかもしれない。一人一人が苦しみ、痛みを感じながら被爆し、多くの方はそこで亡くなったという事実が薄れてしまっていた。その方もおっしゃっていたが、今の日本には被爆体験のある方がとても少ない。私の周りにも、日本が戦争をしていた時期に生きていたのは、八十三歳の祖父のみである。しかし祖父も十一歳で終戦を迎えたため、たくさんの情報を得ることは難しい。私たちのような若い世代は自分から戦争や原爆の情報を取り入れようとしない限り、そういった情報を得ることはほぼ皆無である。私自身も原爆についての知識は教科書からのみであったうえ、原爆に対して自分には関係ないという思いを抱いていた。そういったことから考えると、今の若者は戦争を「知らない」のではなく、「知ろうとしていない」という表現が近いのではないだろうか。戦争があった時代とは大きく異なる現代の生活。そのような環境から、戦争というものは「遠い過去の話」だという印象が付いてしまったのではないだろうか。戦争、原爆を体験した人が少なくなっている今、私たち若者にこそ戦争、原爆の体験を後世へ伝える責任があると私は考える。だからこそ、私たちは知る努力をしなければいけない。受け身の姿勢だけではダメなのだ。この方の被爆体験を聞いて、もう一つ自分なりに考えたことがある。それは、「非核三原則」の重要性である。非核三原則とは、一九七二年に沖縄が日本に復帰する過程で国の方針となった、核兵器を「持たず、つくらず、持ちこませず」という三つの原則のことである。私は、核というものが具体的にどのようなものかわからなかった。しかし、この講話を通じて、核の恐ろしさを知った。最近は頻繁に「核」という言葉を聞く。私はそのような身近な核は一体何に使われているのか気になったので調べてみた。すると、原子力発電が関係していることがわかった。これは核を分裂させることによって発生するエネルギーを利用した発電だそうだ。二〇一一年には福島第一原子力発電所事故が東日本大震災の影響を受け、起こってしまった。「核」というものは上手く使えば、私たちにとって大きなプラスにもなるが、やはり核の恐ろしさというものは拭えないと思った。今の世界情勢を見てみると、核兵器を保有し、核実験を行っている国もある。グローバル化が進んでいる現代において、海外での核の使用は楽観視できないものとなった。そんなときこそ、日本は唯一の被爆国として、全世界の核の廃絶を積極的に訴える必要があると、私は思う。そのためには私たちのような若い世代が戦争があった過去へ目を背けず、「知らない」で終わらせることなく、自ら「知ろう」と努力していくことが重要なのではないだろうか。被爆国の国民であるという自覚を一人一人がもつことで、私たちにとって「戦争」や「平和」といった言葉の意味が、より大きく、重みのあるものになり、世界から核兵器が消え、戦争のない世界に一歩近づくと私は強く思う。
中学生の部【優秀賞】
セトモノ注意
古川東中学校3年 喜古 里美
相田みつをさんの言葉のひとつに、
「セトモノとセトモノとぶつかりっこするとすぐこわれちゃう どっちかやわらかければだいじょうぶ」
というものがある。これは現代の国際社会にもいえることだ。日本は中国・朝鮮半島との関係や宗教でトラブルを起こすことがある。その上私たちは、相手国は何故それほど攻撃的なのかと見下してしまいがちだ。しかし感じ方が多少違うとしても、日本が今まで相手国に何も悪いことをしていないわけではないだろう。私はトラブルの原因とその対策をこの機会に考え直すことにした。
私がインターネットやSNSを通じて感じたトラブルの原因としてあげられるものは、文化や生活、感覚の違いや相手への気遣いの欠如などがあげられる。国ごとのコミュニケーションに関する文化の違いとしては、中国やアメリカはストレートにものを諮る人が多いのに対し、日本人は遠回しに雰囲気でものを言ったり、自虐的な部分が多かったりするだろう。それに加えて謙遜や相槌など、海外ではあまり見ない文化も多い。さらに私が驚いたことは、これは言語の違いではなく、生きているうちに染みついた感覚の違いであるということだ。以前私がインターネットであらゆる出身国の方々と英語で交流していたときに感じたことで、もし全世界の言語が英語に統一されたとしても、多くの外国人はストレートに話すし、日本人は相変わらずぼんやりしているだろう。日本人は、自分たちの感覚が特殊であることを自覚し、また複雑な会話の文化を外国人に強要してはいけないのだ。会話の受け取り方の違いにも注意が必要だ。例えば、契約取引中に日本人が打った相槌をイエスと受け取った外国人が契約書を差し出すと、日本人はあわててノーと言った、という話を聞いたことがある。このような話は日常生活の中でも起こり得ることなので、相槌を打つ癖のある人は聞き手が誰かによって使い分ける必要があるだろう。
次に、相手への気遣いについてだが、相手が外国人の場合には日本人以上に注意する必要がある。なぜなら、先ほど述べたように、悪意がなくても意見の食い違いが起こる可能性があるからだ。日本人に必要な外国人への代表的な気遣いとしては、宗教の違いだ。日本では宗教の決まりに従って生活するよう、大事なときに形だけ、ということが多い。対して、外国で信仰されている宗教の多くには細かい決まりごとがあり、例えば、イスラム教では食べていいものといけないものがコーランに明確に記載されている。彼らはお酒と豚肉を食べることができない。宗教をあまり重視しない者にとっては不便ではないかと心配になるが、それでも彼らは信仰し続けているから、私たちがとやかく言うことはできないのだろう。
そして、これは一部の人に言える話だが、いらぬプライドは捨てたほうがいいということだ。私の祖父母はご先祖様をとても誇りに思っている。もちろん、私も少しは思う。しかし、そのご先祖様は戦で活躍したらしいが、それによって殺された人々は一体どうなったのかとつい私は疑問に思ってしまう。確かに日本は小さな国かもしれないが、特にアジアは日本から酷い扱いを受けた人々の子孫がまだ暮らしているかもしれない。表向きの美しい日本の文化とは別に、しっかり認めなければならない部分だと思う。中国の歴史は間違ったものが多いと聞くが、日本が勝った話やかわいそうな感動話ばかりを授業や映画などの作品に大きく取り上げる日本のやり方も、一種の洗脳に近いのかもしれない。
さらに、近年日本に移り住む外国人は増え続けている。東京の一部の地域では、道行く人のほとんどが外国人で日本人を探すのに苦労するほどだ。このような時代ともなれば、迎えるこちら側としては温かく迎えることが大切だ。
今こそ相田みつをさんのあの言葉のように私たちは歩み寄るべきだ。私たちは双方の違いを互いに認め合い時に受け止め、こまめなコミュニケーションでトラブルを減らしながら、少しでも平和的に共存すべきだと感じた。
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更新日:2021年02月26日