平和作文コンクール(平成30年度)

更新日:2021年02月26日

小・中学生平和作文コンクール(平成30年度)

大崎市では、子どもたちの平和に対する思いや考えを発表する作文コンクールを毎年実施しています。

平成30年度は241作品の応募があり、審査の結果、最優秀賞として小学生の部では古川第五小学校6年加勢明愛さんの「原爆ドームから感じたこと」が、中学生の部では三本木中学校3年小川未来莉さんの「全てを感じて」が選ばれました。入賞作品は下記のとおりです。

小学生の部

市内小学校14校から32作品の応募がありました。

小学生の部受章者5名が盾を持って椅子に座っており、市長と並んで写っている写真

最優秀賞(敬称略)

平和作文コンクール小学生の部最優秀賞

題名

学校名・学年

氏名(敬称略)

原爆ドームから感じたこと

古川第五小学校 6年

加勢明愛(かせみまな)

優秀賞(敬称略)

平和作文コンクール小学生の部優秀賞

題名

学校名・学年

氏名(敬称略)

沖なわに行って感じた事

古川第二小学校 5年

小畑海斗(おばたかいと)

戦争を身近なものと考えて

敷玉小学校 5年

内藤恭子(ないとうきょうこ)

戦争のない未来へ

鹿島台小学校 5年

平山綾夏(ひらやまあやか)

戦争への思い

岩出山小学校 6年

藤原彩光(ふじわらあやみ)

中学生の部

市内中学校8校から209作品の応募がありました。

中学生の部受章者4名が盾を持って椅子に座っており、市長と並んで写っている写真

最優秀賞(敬称略)

平和作文コンクール中学生の部最優秀賞

題名

学校名・学年

氏名(敬称略)

全てを感じて

三本木中学校3年

小川未来莉(おがわみくり)

優秀賞(敬称略)

平和作文コンクール中学生の部優秀賞

題名

学校名・学年

氏名(敬称略)

今の日本は平和なのか

古川東中学校3年

嶋七海(しまななみ)

平和について考える

古川西中学校1年

伊藤夢乃(いとうゆめの)

戦争について

三本木中学校1年

寺林莉穂(てらばやしりほ)

平和とは

三本木中学校2年

高橋侑奈(たかはしゆうな)

平和作文集

小学生の部【最優秀賞】

原爆ドームから感じたこと

古川第五小学校6年 加勢 明愛

 平成三十年七月二十九日、私は広島にある原爆ドームの前に立っていました。整備された町並みの中の一角にあるその建物は、今から七十三年前に起きた出来事について、私に何かを強くうったえかけてきているように感じたのです。

 私は小学校最後の夏休みに、お父さんと二人で、京都、奈良、広島をめぐる「歴史の旅」をしました。その中で、一番心に残っているのは広島の原爆に関わることです。

 昭和二十年八月六日午前八時十五分に、世界で初めて広島に原子爆弾が落とされました。一瞬の出来事で、この年の年末までに約十四万人の人々の命がうばわれました。この人数は私の住んでいる大崎市の人口(約十三万人)よりも多いのです。自分の周りにいる人々が全ていなくなると考えると、とてもおそろしくてたまりませんでした。

 平和記念資料館、袋町小学校平和資料館等では、原爆投下時の写真を見たり、被爆者の話を聞いたりしました。写真の中には、原爆による熱で、体中が溶けてしまっている人々の写真があり、とてもおどろきました。(おそろしかっただろうなぁ、苦しかっただろうなぁ。)と私は思い、胸があつくなりました。三さいに被爆したおじいさんの話も聞きました。被爆した後、体が弱く自分は原爆症ではないかと思い、いつも暗い気持ちで過ごしていたそうです。原爆症と言われるのがこわくて、病院にもなかなか行けなかったとのことでした。そして、大人になっても長い間、自分が被爆したことはだまっていたそうです。

「戦争は絶対ダメだ。みんな仲良く過ごした方がいい。いじめもいけない。」

と声をふるわせながら話していた姿が心に残っています。

 また、たくさんの折り鶴が飾られた原爆の子の像を見ました。これは、被爆し白血病で亡くなった佐々木禎子さんをはじめ、原爆の犠牲になった子供たちの碑で、禎子さんの小学校のクラスメイトたちが立ち上がってできたものです。禎子さんは二さいの時に被爆しました。その後、元気に過ごしていましたが、小学六年生の冬に体が重く感じ首のはれが気になり始めました。そして、病院に行くと原爆症という診断を受けたのです。禎子さんはこのことを知りませんでしたが入院中にだんだんと気付いていきました。昔から鶴を千羽おると願いがかなうと聞き、禎子さんは回復を祈り、たくさんの鶴を折りました。千羽をこえる鶴を折りましたが、中学一年生の冬に亡くなりました。原爆が投下されてから十年後のことです。禎子さんが原爆症と診断されたのは、今の私と同じ六年生です。禎子さんは、どのような気持ちで鶴を折っていたのでしょうか。こわかったし、苦しかったし、つらかったことでしょう。禎子さんは何も悪くないのに…。こう考えると、私はなぜかくやしくて目に涙がうかんできます。私は今、友達や先生、家族に囲まれて生活しています。しかし、これは決して当たり前のことではありません。今ここに生きていることに感謝しなければなりません。そして、生きているからこそ一日一日を大切にしていかなければと強く思いました。

 戦争、原爆は悲しみをもたらすだけです。歴史の学習で、昔から豪族や貴族、武士など人々の間では多くの争いが起きていることを学びました。なぜ、争いが起きるのでしょうか。それは、自分のことだけを考えているからではないでしょうか、いつの時代でも多くの人々は平和を願って暮らしているに違いありません。長い長い歴史の中で、私はほんの小さな存在です。しかし、生きていることに感謝をし、自分だけではなくみんなのことを考えながら仲良く過ごしていこう、そして、戦争のおそろしさを少しでも多くの人々に伝えていこうと思います。これが、原爆ドームの前で感じたことへの現時点での私の思いです。

小学校の部【優秀賞】

沖なわに行って感じたこと

古川第二小学校5年 小畑 海斗

 ぼくが平和について考えたのは、沖なわの平和祈念公園に行ったことがきっかけです。そこで、園内を案内するおじさんから色々な話を聞くことができました。そして、帰ってきた後、おじさんから聞いたこと、沖なわ戦のことを自分でまとめてみました。

 まず、沖なわ戦とは、日本では沖なわだけで地上戦が行われたことです。沖なわ戦と言っても、全国から来て戦っていたそうです。また、この戦いで、武器を持たない赤ちゃんからお年よりまでまきこまれて亡くなりました。さらに、十五才から四十五才までの人たちが動員されていたこと、ましてや強制集団死に追いやったりしたことで沖なわ戦では、本当にたくさんの人々の命をうばった戦争だったことを知りました。

 平和記念公園で案内してくれたおじさんに宮城県から来たことを話すと、ある一つのエピソードを教えてくれました。六月にぼくと同じ宮城県からけん花に来た人がいたということです。その人の家族は、まぶに(平和祈念公園の周辺)で亡くなったけれど、戦争がはげしかったため、いこつも何もなく、自分が生きているうちに、ここに来たかったと話していたそうです。おじさんが近くにさいていた花を取ってあげたら泣いて喜んで、

「これをいこつの代わりにします。」

とそれを押し花にしたそうです。その後、おじさんは、宮城のけん花台を案内し、平和の礎まで連れていってくれました。そこには、県ごとにたくさんの人の名前がきざまれた石碑が、本当にたくさんありました。石碑から家族の名前を見つけてその場でけん花している人もいました。石碑を見ると本当にたくさんの人が亡くなったんだと悲しく思いました。ぼくも平和の礎にけん花し手を合わせました。

 この二つのことから、戦争は殺し合いで、本当にたくさんの人が亡くなって、今も苦しんだり悲しんだりしている家族もいることが分かりました。この人たちはきっと、ずっと平和でいてほしいと思っているはずです。ぼくもずっと平和でいてほしいし、平和でいたいです。なぜなら、戦争は殺し合いなので、また多くの人が亡くなってしまい、苦しんだり悲しんだりする人も出てくるからです。だから、ぼくは平和を守りたいです。ぼくが平和を守るためにできることは何だろうと考えました。一つ目は、えらい人に、

「兵士になれ。」

と言われても、

「ぼくはなれません。」

など反対意見をきちんと言える人になることだと思います。二つ目は、このような戦争があったことを絶対にわすれないことです。また、ぼくの平和を守りたいという今の気持ちをずっと持ち続けていくことだと思います。

 ぼくが行ってきた沖なわは、海がきれいで自然が美しいところでした。観光客も多く、みんな笑顔で幸せそうでした。また来れるといいなと思いました。だからずっと海や自然が美しいままで、みんなが笑顔でいてほしいなと思いました。そのためにも戦争のない平和な世界にしなければならないと思いました。ぼくの思いが一人でも多くの人にとどけばいいなと思います。

小学校の部【優秀賞】

戦争を身近なものと考えて

敷玉小学校5年 内藤 恭子

 私の家のお寺には、戦争に行ってなくなった兵隊さんのいれいひがあります。いれいひには、多くの兵隊さんの名前となくなった場所が記されています。私の知らない外国の島や地名ばかりです。日本から遠くはなれた、知らない土地で命を落とした兵隊さんと、それを見送った家族は、どんなに悲しく、こわい思いをしたことでしょう。毎年、お盆の時期にいれいひを見ると、むねがしめつけられます。なぜ、戦争をしなければいけなかったのでしょうか。

 私のおじいちゃんは八十五さいです。おじいちゃんが今の私と同じとしの時に戦争が始まり、空しゅうで住む家が無くなったそうです。妹弟でばくだんからにげて、川の水を飲んで過ごしたこと、そかいして学校に通えず、畑仕事をしても、食べる物がわずかで、一週間分の米が一合しかなく、毎日おなかを空かせていたこと、いろいろと聞かせてくれました。子どものころのことなのに、はっきりと覚えているのは、それだけこわくてつらい体験だったのだと思います。

 おじいちゃんの体験は、今の私たちのくらしからは想像がつかないことばかりです。戦争の下では、自分の命を守ること、食べ物を確保することで、せいいっぱいだったということを知りました。

 この夏休みに読んだ本には、犬も戦争に連れていかれ、毛皮や食料にされたり、戦わせられたりということが書いてありました。人間だけでなく、動物も戦争に連れていかれ、「行きたくない」や、「連れていかないで」と言うこともゆるされなかったことを知って、戦争中、どうしてそういう考え方をしたのか、不思議でなりませんでした。自分が正しいと思うことや、自分の意見を言えないのは、おかしいと思います。

 いれいひの兵隊さんも昔、私と同じ地いきに住んでいて、ふつうの生活をしていたふつうの人達です。私のおじいちゃんも本当であれば、小学校で勉強する小学生だったはずです。本で読んだ犬だって、人間と仲良くくらす、ふつうのかい犬でした。一度戦争が起きると、そのようなふつうのくらしをしていた人や動物が、ふつうのくらしができなくなり、命もうばわれてしまうのです。戦争を始めた人は、ふつうのくらしのとうとさや、命の大切さがわからなかったのだと思います。

 私は今、日本で平和な生活をすることができています。しかし、ほんの七十年ぐらい前には、想像もできないほどつらい生活を、おじいちゃんはしていたのです。そして、世界のどこかには、今も戦争をしているところがあります。戦争は遠い昔の出来事ではなくて、私の身近に感じられるものだと、この夏、知ることができました。そして、戦争の話を見聞きするほど、戦争について、私には知らないことがまだたくさんあることに気がつきました。戦争を昔に終わったこととかた付けずに、本で読んだり、人に聞いたり、資料館に行ったりして、もっともっと学ぶ必要があると思いました。

 戦争が起こらないようにするために、これから私は、戦争を身近なものととらえ、正しいことは何か、悪いこととは何かを考え、学び続けることが必要だと感じました。そして、1人1人が自分の意見を自由に言える世の中でなければならないと思いました。一番大事なのは命であって、自分の命や動物の命を、戦争にあずけることは、二度とあってはならないと強く思います。

小学校の部【優秀賞】

戦争のない未来へ

鹿島台小学校5年 平山 綾夏

 私の家では、夜ごはんのときに家族みんなで、ニュースを見ます。その中で、戦争やミサイルなどの言葉をよく耳にします。おじいさんや、お父さんも戦争や犯罪などについてよく教えてくれます。そんな話を何度も聞くうちに、私は、平和ということについて深く考えてみようと思うようになりました。

 世界中でたくさんの人々が望んでいるのに叶えられないこと、それが世界平和です。でも、世界中の人々が考える世界平和は、一人一人、別の考えだと思います。犯罪のない世界が世界平和だと考える人、争いごとのない世界が世界平和だと考える人など、いろいろな考えが一人一人にあると思います。その中で私は、戦争のない世界、争いごとのない世界が世界平和なのではないかと思いました。

 戦争は、恐ろしいことです。スイッチ1つで何千、何万という人の命がうばわれてしまうのです。そんな戦争で命を落としてしまった人がたくさんいます。今でもまだ、お金や食べ物がなく、まずしい生活をしている人々もたくさんいます。戦争は、国どうしの争いです。えらい人どうしのけんかのようなものが、国の争いになり戦争をしてしまいます。私のような子どもが、けんかをしたら、ぼう力で解決しようと思って、たたいたりしてしまいます。それが、大人のけんかになったら、てっぽうや、火薬などを使い、負けた国は、勝った国の命令にしたがうというとても恐ろしい世界になっています。現在は、科学の技術が発展し、金属探知機が反応しない、プラスチック性のてっぽう、ミサイルなど、本当なら良いはずの科学の発展を悪用する人までいるのです。

 では、この世界平和というものは、夢として、消えてしまうものなのでしょうか。世界平和という夢は永遠にかなわないのでしょうか。私は、そんなことはないと思います。でも、戦争をしない、争い事のない世界にする、ということは、今すぐにできるような、簡単なことではありません。それに私は、まだ十一才なので、直接なにかすることはできません。今の私にできることは、さまざまなボランティアで、こまっている人を助けたり、電車などで見かけたお年よりを助けたりすることしかできません。でも、そんな小さいことを、たくさんの人々がやれば、どんどん大きくなって、世界平和につながるのではないでしょうか。私は、世界中の人々に、助け合う心、つまりもっと優しい心があれば、世界は平和になると思います。「一人は皆のために、皆は一人のために」こんな言葉がありますが、こんな言葉のような世界になれば、きっとすばらしい世界になると思います。そして、私は、これから先の未来、世界中の人々といっしょに、いつも笑顔で安心して生活できる、そんな世界をつくって、どうどうと、「世界平和」と言える日が来ることを願っています。

小学校の部【優秀賞】

戦争への思い

岩出山小学校6年 藤原 彩光

 私は夏休みに、戦争に関する本を五冊読み、戦争について深く考えさせられました。

 戦争は、たくさんの人の命をうばい、人々を苦しませてきました。苦しむのは、戦いに行った人だけではありません。残された家族も同じような苦しみを味わいます。

 私は、いつも思います。争いではなく、話し合いで解決できないことなのかと。争いをしてまで人の命をうばっていいものなのかと。戦争をしようと決めた人は、戦争が人の大切な命を犠牲にするものだということを分かっているのだろうかと。戦争があった時代、子どもでも、戦争に行かされ、命を落とした人がたくさんいました。そして、今もなお、外国では「子ども兵士」として、戦争で戦っている人がたくさんいます。この地球で生まれ、同じ人間であるはずなのに、戦争によって人生が大きく変わってしまうことは、とても悲しいです。

 この前、テレビで原爆のニュースを見ました。昭和二十年八月六日午前八時一五分、広島に原爆が落ち、約三十五万人が亡くなりました。また、八月九日午前十1時二分、長崎にも原爆が落ち、約十八万人が亡くなりました。原爆投下から七十三年たった今でも、原爆しょうで苦しんでいる人がたくさんいるそうです。それを知って悲しい思いになりました。

 日本では、アメリカとの戦いで敗れ、アメリカと約束しました。「もう日本では戦争はしない」と。今そのおかげで日本は戦争がない平和な国になっているんだと思います。昔に比べ、戦争は減ってきましたが、まだ戦争している国もあります。そういうニュースを見たりすると、戦争で苦しんでいる人を助けられないかなと思うときがあります。戦争をしている国でも、「戦争をしない」という約束をしたら、きっと他の国でも、やがて戦争がなくなり、平和な国になり、世界中の人が幸せの道を進み、笑顔になれると思います。

 私は、戦争を体験したことがありません。でも、本を読んだり、テレビのニュースを見たりして、戦争とは人々をきょうふにし、大切なものをうばい、世界中の人々を苦しめてきたということが分かりました。いろいろな思いで、必死に戦争に立ち向かっていった人たちのことを忘れず、これからも平和について考えていきたいです。一日も早く戦争のない世界になり、世界中の人が笑顔いっぱいに生きられるように、そして子どもから大人まで幸せと思う人生が生きられるようになってほしいです。それが世界中の人たちが望む平和だと思います。

中学生の部【最優秀賞】

全てを感じて

三本木中学校3年 小川 未来莉

 「平和って何だろう?」と、私は青く澄みきった空を見上げるたびに考えてしまいます。今では、戦争をするということが、どんなことなのか想像もつきません。しかし、とても残酷なものだということを、歴史は語っています。夏の日、青い綺麗な空から突然降ってきた原子爆弾、緑が豊かな島での戦争、多くの自然と共に、多くの尊い大切な命が消えてしまいました。

 二年前の八月一五日、私は家族みんなでテレビを見ていました。その日は、終戦の日ということで、戦争の特集を放送していました。すると、それを見ていた父が真剣な顔つきで曾祖父のことを話してくれたのです。

 「お前たちにとっての、ひいおじいちゃんは、お父さんがまだ小さい頃から、戦争の話をよくしてくれたんだ。今からその話をするから、よく聞いておくんだぞ。」

 そういわれた私達姉弟三人は、いつまでも記憶に残るであろう大切な話を聞きました。それは、「戦場で死ぬことができなかった悔しさ」でした。

 曾祖父にとって、初めての戦争は二十代の頃でした。戦場には、同じ年代の若者がたくさんいたそうです。戦争に出撃するための訓練をしていたあの日、曾祖父は味方の兵隊にあやまって背中を刺されてしまいました。そのまま病院に運ばれたため、実質は戦場に立つことはありませんでした。結局、その戦争は、多くの死者を出す最悪の結果になりました。その時曾祖父は、

 「同じ年代の人たちが国のためにたくさん死んだのに、その時私は、ただ病院で寝ていただけだった。この悔しさは、どう表現することもできない。」

と、語ったそうです。私は話を聞いているうちに、なんだか不思議な気持ちになりました。曾祖父や戦場にいた若者たちは、なぜそこまでして、戦場で死ぬことにこだわったのだろうか、と。

 話を聞き終えた夜、私は寝る前にふとんの中で考えてみました。その当時の状況と人々の心情を想像しながら、深く考えることで「戦争」についての見方が何か変わるかもしれないと思ったからです。私は想像してみました。もし、日本で今、戦争が起きていたらどうだろうと。今のように豊かな生活は、到底できないでしょう。そして、苦しみや悲しみがあふれる世界になります。もし私が戦場に立つことで、その苦しみや悲しみを味わわせないためなら、私も家族や友人を守りたい一心で、戦場に立ったかもしれません。そこで私はやっと、曾祖父の気持ちを理解できたような気がしました。周りの同世代の若者が国のために命を失う覚悟で必死に立ち向かっている中、自分だけは何もせず生きている。どれだけ自分を責めても責めきれないことでしょう。きっと、「無力感」と「無念さ」であふれていたのではないでしょうか。今まで、いったい何のために自分はやってきたのか、分からなくなったと思います。そして、同時に悲しみがこみ上げてきました。自分の命が助かったことを喜ぶこともできず、死ねなかったことを悔やまなくてはなかったこの時代の在り方を、おぞましく思いました。

 改めて「平和」とは何かということを、私は考えました。もちろん、戦争をしないことは最も大切です。しかし、まだこの世の中には、紛争や核兵器など、私たちの生活を脅かすものがたくさんあります。今ある平和や幸せな生活が、いつ失われるか分かりません。だから、「当たり前にある今」を守るため、私たちは何をしなければいけないのか、考える必要があると思います。でも、いったい何をしたらいいのか、分からないのが正直な気持ちです。

 世界は、様々な考えを持った人たちの集まりです。私が生活している学校やクラスといった小さな世界ですらそうです。だから、争いがなくなることは簡単なことではないかもしれません。でも願わずにはいられません。世界中の人たちが笑顔で過ごせる日々を、そんな素敵な毎日を一人一人が想像し互いを認め、尊重しあうことができれば、いつの日か「平和」といえる日が、きっと来るにちがいありません。

 起きてしまった過去はやり直せませんが、私達は平和の尊さを学びました。私達には、この学んだことを、これから伝えていく義務があります。するべきことは何か、はっきりと分からなくても、私達の未来に無関心になることなく、しっかりと考えていきたいと思います。曾祖父や失われた多くの命を無駄にしないために。

中学生の部【優秀賞】

今の日本は平和なのか

古川東中学校3年 嶋 七海

 「今の日本は平和でしょうか。」

 この言葉は、私が、ある本を読んだときに、とても考えさせられた言葉です。

 私は、それまで、日本はとても平和な国だと思っていました。しかし、インターネットなどで調べてみると、日本は、いじめがなくならず、また、いじめによる自殺者も多いことが分かりました。この事実を知ったとき、とても胸が痛くなりました。それと同時に、今の時代を生きる私達が絶対に忘れてはいけないことに気付きました。それは、昔の日本では、戦争によってたくさんの尊い命が犠牲になったという過去の事実です。そこで私は戦争について調べてみることにしました。

 まず最初に、太平洋戦争について知りたいと思い、テレビや動画、インターネットなどを使って調べました。知れば知るほど、当時の壮絶さが伝わってきました。なかでも特に印象に残ったのは、ひめゆり学徒隊と神風特攻別攻撃隊についてです。その理由は、元ひめゆり学徒隊の方が当時の出来事を話している動画を見たとき、私と同じくらいの歳の学生が、時代が違うだけで、こんなにも辛く残酷な日々を過ごさなければならなかった、ということを知ったからです。「血まみれの海」や、「目の前で友人が撃たれた」など、今の日本では想像もできないほど恐しく、胸がしめつけられるような言葉がたくさんあり、涙がとまらなくなりました。神風特別攻撃隊については、はじめは「特攻隊」という名前は知っていましたが、どのようなことをしていたのかは知りませんでした。はじめて神風特別攻撃隊について詳しく知ったのは、社会科の授業でした。特攻する前の様子や特攻の様子、のこされた家族の思いなど、胸が苦しくなるような映像でした。その後、自分でも特攻隊について調べてみました。そして、「元特攻隊が語る戦争」という動画を見ました。その動画の中で、

「誰も望んでやっているわけがない。誰も死なんて望んでいない。」

という言葉がありました。特攻は自らが望んで行うと思われがちですが、実際はそんなわけがなく、命令されたらやるしかなかったのです。私は、この事実を知った時、自然と涙があふれてきました。死にたくなんかないのに、国の勝利のために、家族を守るために自らの命を犠牲にしなければならないという悲しい現実が実際にあったのです。

 今、戦争のない時代を生きることができているのは、私達が生まれる前、国のために戦ってくれた人がいるからこそあるのだと思います。また、戦争によってうばわれたたくさんの人々の思いも、絶対に忘れてはならないものだと思いました。

 そして、戦争のあった時代と比べれば、今の日本は、食料や住むところも充実していて、とても平和だということも分かりました。しかし、そこで気になるのは、やはり自殺者が多いのにも関わらず、日本は平和だと言い切ってしまってよいのか、ということです。

 ある動画を見たとき、

「戦争を経験した人は、絶対に自殺はしない。目の前に転がる遺体を見て、私は絶対こうはなりたくないと思った。」

という言葉を聞きました。そのとき私は、今の日本が平和だからこそ、命を軽い目で見ている人が多くいて、いじめなどがなくならないのだろうと思いました。

 どうすればいじめはなくなるのだろうと考えたとき、まず最初に、1人1人の意識改革が必要なのではないかと考えました。戦争を経験していない私達が、戦争について知ることで、人の命の尊さや平和であることのありがたさを感じることができると思うのです。

 今、戦争を経験した人が減ってきているからこそ、私達が戦争について知り、語りついでいかなければならないと思います。

 そして、二度と戦争が起こらないように戦争の恐ろしさを伝え、それと同時に、命の大切さを学ぶことで、本当に平和な日本がつくられていくのではないかと考えます。

中学生の部【優秀賞】

平和について考える

古川西中学校1年 伊藤 夢乃

 私は、「平和」とはただ争いが無いものだと思っていました。でも、授業で戦争の様子や戦争中の生活などの勉強をして、かこくで怖くて大変だったということが分かり、平和という言葉の意味を重く感じました。

 朝会のとき、校長先生が、私と同じぐらいの沖縄の中学生が、「生きる」という平和の詩を気持ちを込めて朗読している映像を見せてくださいました。最初は、すごいなぁとか難しいなど単純なことしか思いませんでした。しかし、その「生きる」という詩が書いてあるプリントがわたされて、「怖い」と思いました。その詩は、「小鳥のさえずりは恐怖の悲鳴に変わった。優しく響く三線は爆撃の轟に消えた。青く広がる大空は、鉄の雨に見えなくなった。草の匂いは死臭で濁り、光り輝いていた海の水面は、戦艦で埋めつくされた。」と書いてありました。何もかもが変わった。何もかもが失われ、うばわれた、それだけではなく、次の文では、「火炎放射器から吹き出す炎、幼子の鳴き声、燃えつくされた民家、火薬の匂い」と。私は、一瞬で言葉を無くしました。戦争がそんなに辛かったのかと思いました。そして、今がどんなに平和なのかと。

 授業の平和学習では、「碑」と「はだしのゲン」を学習しました。

 「碑」では、私と同じ中学一年生の子の命が、原子爆弾で一瞬で亡くなってしまったという内容が書かれてありました。原爆が落ちるまでは、普通に生活をしていました。でも急にB29エノラ・ゲイ号から原爆が落とされて、何万人何十万人の命がぎせいになったということを知り、悲しくなったし、大きいため息が出ました。聞いただけでも怖いし辛いのに、その現場にいた人々はその怖さを経験し、さらにほうしゃのうの病気で今でも苦しんでいる人々がたくさんいると思うと、とてつもなく大変だったんだなとおもいました。

 二つ目の「はだしのゲン」では、戦争中の生活が書かれてありました。戦争に反対すれば、いじめや嫌がらせが起きたり、中国などから来た人は、差別をされたりして、勝つためならなんでもするという、人々の行動内容の一部が書かれていました。原爆が落ちた直後は、手足がバラバラになり死んでいる人、ゆうれいみたいな人、焼けただれて死んでいる人などが書かれていました。広島が原爆が落ちたせいで、七十年間草が生えない死の街と言われたりして、苦しく辛かったということがよく分かりました。それに、お金もない、食料もない、家も無い状況で生活していかなければならないようなまずしい生活を、その時代の人々はしていたんだなと思いました。それを見て、自分がすごく恵まれていることが分かりました。

 このことから、私は、平和な大崎市に、宮城県に、東北に、そして日本にしたいと思いました。そのために、差別をしない、イジメをしないなど、争いが起きるようなことをしては、絶対にダメだと思いました。そして、戦争が起きない、原爆をなくすいったことで世界が平和になっていったら良いなと思いました。

中学生の部【優秀賞】

戦争について

三本木中学校1年 寺林 莉穂

 私たち若い世代は、戦争を知りません。でも、今まで教科書に書いてある戦争についての教材で、戦争の状況を授業でならったり、テレビで観たりと、いろいろ触れてきました。そのたびに、私は戦争という愚かで残酷なことは、絶対に起きてはならないと思ってきました。

 戦時下では、人が亡くなったり、自分の住んでいる家や街が戦火につつまれたり、大切な命が失われます。みんな戦争をしてはいけない、大切な命を無駄にしてはいけないと分かっているはずなのに、なぜか戦争が起きてしまうことは、とても残念で、悲しいことだと思います。

 もしも、自分が平和な時代に生まれてこなかったらと思うと、とても恐ろしい気持ちになります。自分の家は空襲で焼かれ、街中逃げまわって、心配で夜も眠れず、お腹いっぱいご飯も食べられない等、もしも戦争が起きたらと考えると、想像しただけで怖くなります。このような戦争を体験した人は、本当に辛かっただろうなと思いました。

 八十三才になる私の祖父は、ちょうど十一、十二才の時に戦争を体験したそうです。鳴瀬川で、水泳をしていた時、B29爆撃機に攻撃されたそうです。その時、幼い祖父は、橋の下に隠れながら、アメリカ兵に殺されると震えていたそうです。

 そして、祖父と血のつながった人たち五人が実際に戦争に行ったそうです。そのうち、祖父の父、祖父のおじさんが亡くなったそうです。無事生還したのは、たった二人だったそうです。父が亡くなったため、父親代わりをしてくれたのが父の弟、叔父だったそうです。また、仙台空襲の時、南の空がぼっと赤くなっているのが見えたそうです。とても恐ろしく、世の中の終わりだと思ったそうです。

 祖母も、二才の時に、戦争を体験したそうです。誰かは分からないけど、背負ってもらっている時、空が火につつまれて赤くなっているのを、まだ幼かったにも関わらず、まだその時の光景を鮮明に覚えているそうです。

 その時の食事のことを祖父に聞いてみたら大根の葉や、大豆、かぼちゃおかゆといったものを食べていたそうです。食べる物が少なく、家族が多かったので、いろいろな物をまぜて量を増やして食べていたそうです。麦ご飯は、まだいい方だったそうです。今のようにお腹いっぱい食べれなかったことはとても大変だったと思います。

 祖父も、祖母も、この戦争体験を怖かった、大変だった、と言っていました。

 もし、祖父と祖母のどっちかでも、戦争で亡くなっていれば、自分もこの世にいなかったのだと思うと、戦争は本当に怖いと感じました。

 日本は、世界で唯一の被爆国で、八月六日に広島へ、八月九日に長崎へ投下されました。そして次は、仙台に原爆が投下される予定だったということです。そのことを聞いて私はとても驚きました。いつも遊びに行ったり、買い物をしたりしているところなのに、そこに原爆が投下されていたらと考えると、とても恐ろしく感じます。こんな身近な場所に原爆が投下される予定だったなんて想像もつきません。

 このように、戦争はとても残酷で、人の命を簡単に奪ってしまう恐ろしことなのです。戦争体験について話してくれる人が身近にいたり、仙台が次の原爆投下予定だったりと、戦争は他人ごと、遠いものではなく身近に起こりうることなのです。また戦争が二度とくり返されないようにするためには、どうすればよいのでしょうか。

 それは、歴史から戦争の悲惨さについて学び、しっかり理解することだと思います。この平和な時代が永遠に続けばいいなと、私は思います。そのようにするためには、これからしっかり戦争のことについて学び、二度と戦争などというものをするような国家にならないように、国民一人一人が、私達若い世代が、責任を持って取り組まなければならないと思いました。

 最後に戦争は、何があっても絶対にしてはいけないものなのです。

中学生の部【優秀賞】

平和とは

三本木中学校2年 高橋 侑奈

 今の時代は、本当に平和なのでしょうか。確かに日本では現在戦争は起きていないし、歴史的に見ても、世界中をまき込むような大きな戦争はありません。しかし、小さな争いや戦争はなくならないし、殺人という人の命を奪う事件もなくなりません。私達の周りから争いが消える日はないのでしょうか。

 そして、私達の身近で起きている争い、それは「いじめ」です。たくさんの場所で、何年も何年もいじめ撲滅が叫ばれていますが、なくならないのが現状です。いじめのない安心して生活できる居場所を作ることも、平和のひとつだと私は考えました。

 私の考える平和とは、すべての人が生きるためのルールを守り、自分自身を変える勇気を持ち、人としての正しい道を進んでいくことです。

 一九四七年、日本は「もう戦争はしない。」と誓い、戦争はなくなりました。しかし、戦争はなくなっても、人の命を奪う行為はなくなりません。これでは結局同じことです。戦争で使うような武器は使わなくても、犯罪という形で命は奪われています。何のためにルールがあるのだろうと思います。

 私は、小学校二年生に時にいじめられていました。その時は、やり返してやりたい気持ちもありましたが、いろいろなことが嫌になり、

「もう、死んでしまいたい。」

と思ったこともありました。私と同じようにいじめられ、死を考えた人がいると思います。中には、誰にも相談できず、生きる気力を失い、命を絶った人も、たくさんいます。これは、もう殺人にあたいするのではないでしょうか。戦争が終わり、建物や人の姿は変化しても、人の心からそのような闇は消えないのかもしれません。

 心は、人の言葉ひとつで傷ついてしまいます。それが積み重なると、人の心はボロボロになって壊れてしまいます。人には必ず苦手な人や嫌だなと感じる人はいると思います。でもそれを表に出すのは、いじめと同じです。どんな相手だろうと言葉を考えて発しなければなりません。これを言ったら相手はどう思うかな、傷ついたりしないかなと、一度よく考えてから言葉にしなければなりません。これが当たり前になることがまず必要です。

 きっと、誰もが平和を望んでいるにちがいありません。世界平和なんて大きすぎてぼやっとした感じがしますが、実はできることはすぐ身近にあるような気がします。隣の人に優しくする、日頃口にする言葉遣いに気をつけてみる、自分の行動を振り返ってみる、日々、何となく何気なく過ぎていく毎日の中にこそ、できることはたくさんあるのだと思います。私もまずは、クラスにいる友達、一緒にいる時間が長い家族、そして、これから出会う人たちに、優しい気持ちで接しようと思います。それぞれが考える平和を願う気持ちを大切に、いつか本当の平和が訪れることを祈りたいです。

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